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脳内サンプリング

ひとつひとつの印象的な出来事が、パッパッと点滅、発光するかのごとく短く切り取られて人生の一部になって色付けられる。
特に今年はとてもめまぐるしく、出会いが眩しい。生きものの命が、人の命が、発光している。まるで1年が一生のようだ。
酒井雄哉阿闍梨がかつて「一日一生」と言っていたけれど、そんな日々が毎日のように続くのならそれは美しい。進むべき道がわかっていてそこに一歩一歩歩みを進めて行く感覚。踏みしめた足元が華やぐ、まるでもののけ姫のシシ神が地面を踏みしめるたびに植物が芽吹き、足を離した瞬間に植物が枯れていくような、刹那的な命の発光。一日一生に近い。その日の花を摘む。

人は最後の瞬間に走馬灯を見ると言うけど、その最後の瞬間のような日々がパラパラ漫画のように切り取られ重ねられて焼き付いていく。そこで声がする。音が鳴り出す。音楽になる。ある時ふと思い浮かんだものに突き動かされて、行動し、誰かに出会う。そこで新しい体験をする。誰かが笑った瞬間や、山肌に夕日が沈んでいく光景や、頬にあたる風や、鳥が笹薮を駆け回る音や、昼間の熱の残るアスファルトのぬくもりや、遠めに一瞬だけ見えた子供の頃親が乗ってた古い車や、信号の点滅、発光、発光、発光。

鳴ってる。ずっと鳴ってる。自分の中からだけじゃなく、まわりの友達や仕事場の人やお世話になったおばちゃんや前に一度だけ会ったことある人から、鳴ってる。旋律が奏でられている。ずーっと鳴ってる。
それは平面的な、規則性のあるものや、事務的な縛りや社会性とはまるでかけ離れた、生活臭のする手垢混じりの音。こちらが放った音。それに呼応する音。音。音。ざわめき。

その音に背中を押されるように、東京にいる間に一曲つくろうと思った。思ったんだか思わされたんだかわからないけど、なんか今作んないと駄目だなと感じた。

夏がゆるやかに立ち去ろうとしている。ここ連日降った雨で気温がグッと下がって過ごしやすくなった。明日明後日はわからないけど、今日は涼しくて秋を感じる。鈴虫が家の周りで鳴いてる。五感全部で季節を感じている。

ひとりになって、止まっていた時間が少しずつ動き始めた気がする。じわりじわりと。
自分の感覚すべてで生活が進んでいく。なんの為とか、いちいち理由づけされない生活。

思えば音楽をやる為とぼんやり考えて上京して来たけど、強い志しなどまるでなかったし、今も別にない。ただなんで音楽をつくるのかってことが最近なんとなくわかって来た。それはまず第一に、自分の中で鳴ってる音を聴いて確かめたいから。自分の中で鳴ってる音は自分の求める音だと思う。別に誰かの為じゃない。それがどう鳴っているか、どんな音色かをMacのデフォルトで入ってるGarageBandの中のサンプル音源やループの中から出来るだけ近い音を探り入れる。あっ、こんな音だな!と発見する。それを重ね合わせる。たかがガレバン、されどガレバン。
東京に来たての時に最初につくった音源は、音源とはまるで呼べるものじゃなかったけど、いやもっと言えば、録音の原体験はカセットテープレコーダーだった。テープレコーダーのRECボタンをガチャっと押してギターと声を吹き込んだだけのもの。それだけで十分だった。東京へ来る前はそうやって実家の部屋でちまちまと録音をしていた。ほんとに折り紙とかダンボールで切り貼りしてなんか作ってる感覚。自分の手を使ってなにかをつくるのはすごく原始的でざわざわする。

上京してわりとすぐに、今は片岡フグリ名義で活動してる友達とその当時一緒に『クロエ』というバンドを組んでいて、ぼくはドラムを叩いていた。フグリから貸してもらった4トラックのカセットMTR(マルチトラックレコーダー)で初めて多重録音をした。その年の11月頃だったと思う。
ひとり高円寺のスタジオに入り、備え付けのドラムセットに座り自分の中で鳴っているビートを叩いた。へっぽこなドラム、イモ臭いビート。そこにエレキギターの音を重ねた。今となっては音質と演奏は酷いもんだったしまるで聴けたもんじゃないけど、重ねた音を聴いた瞬間、震えた。うおおおおおお!!っと。自分の中の音が具体的な音像となって現れた。何故そこに興奮したかって、その稚拙な自分とまがまがしたエネルギーとがすべて音となってうち出されていたから。良くも悪くも、現状の自分がそこにいた。曲は『歩く人、あくる日へと』という曲だった。

明日も仕事 どうにもならん
やる気はないぜ 死ぬ気もないぜ さらさら

未だにレコーディングスタジオでエンジニアにお願いしてレコーディングなどやったことないけど、この切った貼った感がやっぱり自分の心をくすぐるし、やってて楽しい。これはやってみないとわからない。

残りの1ヶ月半、パソコンを借りれるのはあと1週間ちょい。それまでにMVまで完成させたい。
昨日から録音に取り掛かって、ひと晩で大体の枠組みは出来てきた。木彫りのお面でいうとおおまかな面取りをした感じ。そっから細かな部分を少しずつ足したり削ぎ落としたりして調整していく。ひさびさにずーっと家に籠もっての作業。
この作業って実は結構人生にも似てるなーと思ってて、なんだかわからないままとりあえず動いてみて、失敗したりやり直したり諦めたりでなんとなくではあるけど元々なんだかよくわからなかった自分の輪郭が少しずつ捉えられるようになってくる。ピントが合ってくるっていうか。そうすると進むべき道がなんとなく見えてくる。あーこっちかー、って。

早川義夫の『MyR&R』の歌詞で「覚えた事は 自分を知ろうとすること」とある。
確か高校だったか、「自己表現」という授業があったんだけど、その時はその重要性に気づいていなかったし、自分が一体どういう人間で、どう生きていけばよりよい道が拓けるのかをもっと早い段階で模索しておけばよかったなどと考える時がたまにある。だけどたかだか高校の鼻タレ小僧にゃそこまで考える余裕なんてなかった。スケボーして片想いとかして銀杏BOYZとか聴いてうわあああとかなってたけどその時その時をそれなりに楽しんでたししょうがないっちゃしょうがない。ていうかそれも含めて輪郭として刻まれている。

まあでも、その時は稚拙だったとはいえ、いま東京にいてふるさとから「そろそろ帰ってこいよ〜」と囁かれて、その声が耳に届くくらいになったのならまだマシなのかもな。うっすらだけど聞こえてくる。呼んでる。それならもうそこに従うしかないっすね。

結構その時その時に「うわーまるで映画観てるみたいだなー」って瞬間がたまに訪れたりする。おんもしろい。
出会いが加速していく。木々が芽吹いていく。枯れていく。波が押し寄せては引いていく。覚醒剤はいらない。合法に開いていく。かといってスピリチュアルでもオーガニックでもヴィーガンでもピースフルでも右でも左でもない。ただただ人間臭く、汗臭く、生活臭く、地に足をぺたりぺたりとつけて噛み締めて踏みしめていく。ただ生きている。ただ生きていく。余計な飾りつけとかパッケージングとかも極力必要なく、自分に合った形で、何にもとらわれずと言うほどの強さも持たず、たまに流されもしつつ、迷いつつ、立ち止まりつつ、そんな感じ、そんな感じ。

悟りとか達観とかはないし、瞬間的な発光、点滅にだけ事実があって、そこに寄り添ってただ波のように漂い、ただそれだけ。そぞろ歩き。ある木。終わる気はない、気は確か、貸した本は貸したまま。ままごとのようになにかをつくり、含み、飲み込み、吐き出し壊し、ご安心くださいとシンクに呟く区役所の職員のインク滲んでジーンズにこびりついて、幾度も行く旅人はビート鳴らし寝台車に乗る、ルートは決めず、滅菌の現代に雑菌となりはびこり、りんご皮むき君の夏に寄り添う、嘘を含んででんぐり返し、新芽に水をたっぷりあげて天にのぼったりバッタになったり、泣いたり笑ったり。余計なことはしない。余計なことしかしない。いっそ急いで立ち止まる。そこですべてを見る。見える。見える。見えてくる。


昨日新曲の仮歌を吹き込んでみたら、すーっと力みのない自然な声が出た。今まで何度も試しに吹き込んではみたもののなんかしっくり来ないなーと思ってたけど、その原因は「力み」だったことがわかった。自分は今まで力んで歌ってたんだなって気づいた。力んで歌ってたっていうか、力んで生きてたのかもしれない。

なんとなく腑に落ちた瞬間だった。

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