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誰も地獄に落ちないし、誰もバチなんて当たらない


昔は悪いことをしたら、バチが当たると教えられてきた。

だから、誰かに嫌なことをされたら、きっといつかそいつにはバチが当たるし、不幸になるんだ、そう思って人を許してきた節がある。



でも、ほんとうにそうだろうか。

私もこれは意地悪だと思いながら、気に入らない友達を避けたことがある。
誰かを羨んで陰口を言ったことだってある。


でも、バチが当たったと思ったことはない。

自分に置き換えてみると、不幸なことがあったときは人生山あり谷ありだなと思ってたし、幸も不幸も順番にやってくるもんだと思ってやり過ごしてきた。


きっとみんなそうなんじゃないかと思う。


そう思うとほらやっぱりあいつにはバチは当たってない。

もっと言えば人を傷つけてる最中の人間に情なんてない。だから、たとえ傷つける側の人が日常で嫌なこと[例:鳥のフンが落ちてきた]があったとしても、それは[あの時あの子にあんなことしたからだ]なんてことにはならない。

客観的な視点で見た時に、[嫌なことしをしてきたあいつにバチが当たった]と思い込んで自分を落ち着けることはできるが相手がバチが当たったと思っているかといったらほとんどの場合そうではないと思う。


例外として、人を傷つけたことによって自分がその人に省かれたり、傷つけられるということはあると思う。
それ以外の直接的な不幸はやってこない気がする。



つまりやってやり返されてを繰り返すことでしか、
自分が被った不幸と同様の不幸を相手に与えられないし。

と、思うと目には目を歯には歯をというハンムラビ法典を作った人は同じ思考の持ち主なのかもしれない。



ただ、こんなことを考えているうちにバカらしくなってきて怒りがおさまることがほとんど。


そして何よりも、こんなことを考えていると気がついてしまう。自分の日常の不幸は私の無意識に眠っている誰かに与えてしまった不幸が巡ってきてるんじゃないかと折れた小指を見ながら思う。



小指が折れることぐらいは甘んじて受け入れよう。
私の無神経が誰かを傷つけていたかもしれないから。


でもやっぱりバチが当たったとは思えない。


いや、この日記で残しておきたかったことはバチが当たるか当たらないかではなくて…


私を傷つけたあいつもそれなりに苦しむ日は来るだろうけど、それは私との関係性の延長にあるわけではない。
それに、あいつに不幸が訪れたと私が思ったとしても、当人には屁でもないような損失だったという可能性もある。


とすると、幸も不幸も誰かと同じ基準になることなんてほとんどないから、他人の不幸を願うことは時間の無駄である。



ただ少しだけあいつより幸せになってやろうとは思う。


おい、私の恋心を搾取したお前!地獄に落ちろ!!

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