見出し画像

【私は誰よりも未熟な母親】#52

”子どもと遊ぶ”が仕事の
小児の作業療法士ミキティです。

私には
”知ってもらいたい家族がいる”

私が関わる障がいを持つ
お子さんとその家族。
その家族のストーリーから
いつも沢山の学びがあります。

その一部を皆さんに
知ってもらいたくて綴っています。
(過去の投稿はコチラで読めます)

1.足元は剥がれた胎盤からの血の海だった


予定日より3日前の大晦日、
前日の検診も問題なく経過も順調。
お正月料理を何にしようか
1人、赴任先の社宅で考えていた。

そんな中、自宅で突然の大量出血。
社宅は階段がない4階。
1階までなんとか降りる間にも
出血は止まらない。
”病院へ着けばきっと大丈夫”
初めての出産で状況がよくわかっていなかった。

今、思えば、あの時、お腹の赤ちゃんは
必死で私にSOSを出していたのに…。

夫の運転する車で病院にたどり着いた時は
足元は血の海で、意識は遠のいていた。

自宅での突然の出血は常位胎盤早期剥離
(全分娩の0.5~1%の確率で母体に発生する)
によるもので、
胎盤が分娩前に子宮から剝がれてしまっていた。
その中でも重症で、子宮内に大量の出血が起こり、
お腹の中の赤ちゃんに酸素がいかない状態になっていた。

「お母さんの命だけは絶対助けますからっ!」
「血が止まらない場合は、
 子宮ごと取らないとダメかもしれません!」

ぼんやりとした
頭の遠くで聞こえた声。

『赤ちゃんを助けてください…』

なんとか声を絞り出した直後に
私は挿管され、
全身麻酔で意識のないまま、
超緊急帝王切開により
娘は産声を上げず静かに
この世に誕生していた。

2.一命をとりとめ 知らぬ間に母になった私



目覚めた翌日。
ぺたんこになったお腹。
夫も赤ちゃんもそばにいない。

産科病棟にいるにも関わらず
とても静かな空間だった。

産科医の先生から話があった。

身体の半分の血液が入れ替わるほど
大量の輸血をして一命を取り留めたこと、

子宮も何とか残せたこと、

そして
赤ちゃんは治療のため、
別の病院に搬送されたこと。

娘と一緒にいる夫から
メールで画面に大きく
映し出された娘の写真が送られてきた。
「元気に頑張ってるよ!」と
文字が添えられている。

”よかった…”と心の底からほっとした。

まさか、数日後の面会で、娘が
出産時に命に関わる状況であった上に
今も大変な状況が続いていることは
その時は全く知る由もなかった。

3.小さな頭に巻かれた包帯、滲む血の跡



自分の治療がひと段落した5日後、
娘の入院先に転院。

やっと娘に会える。
みんなに聴こえそうな位、
高鳴る胸の鼓動を抑えながら
夫と一緒にNICUの扉を開ける。

そこで目に飛び込んできたのは
想像とは大きくかけ離れた光景だった。

ひときわ大きな冷却治療用のベッドの上で
挿管され、沢山の菅に繋がれている。

アラームが鳴り止まない中、
投薬で昏々と
眠り続ける紫色の肌をした娘。

小さな頭に巻かれた包帯には
血の跡が滲んでいる。
超緊急帝王切開でついた大きな傷跡。

自分だけが知らなかった
あの時のオペ時の壮絶さを想像させる。

あまりのショックで、
その場に泣き崩れてしまい、
暫く立ち上がることが出来なかった。


4.『ごめんなさい…』 娘にかけた最初の言葉 


”私は何て事をしてしまったのか…。
娘の人生を台無しにしてしまった…”

初対面の娘に
初めてかけた言葉は
『ごめんなさい…。』その一言、だった。

後日、ドクターより
「後遺症による障害は重度の脳性麻痺」と告げられる。

「物事を考えることが難しいかもしれません」
「手足さえも動かせないかもしれません」
「目も見えないかもしれません」
「耳も聞こえないかもしれません」

夫とともに懸命に救命してくれた
命の恩人のドクターに

『こんなに苦しい状態とわかっていて
どうして助けたんですか…』

と言ってしまったほど、
現実を受け止められない。

毎日の面会も辛く、
この子を幸せに出来る自信がなかった。

”もう、無かったことにしてしまいたい”

救急車のサイレンを聞く度、
あの日のことが蘇る。
フラッシュバックが落ち着くまでには
2年ほどかかった。

今でも、人生の中で一番後悔してること。

”あの時、救急車を呼べばよかった…
そうしてたら、
違う結果になっていたかもしれない” 



5.ベビーカーからの落下



退院後、
夫の赴任先の見知らぬ土地で孤独な育児。
毎日の投薬管理、3時間ごとの搾乳。
誤嚥に気をつけながら
1時間かけて母乳を飲ませる。

身体も弱く、入退院を繰り返す。
寝てばかりで表情が乏しく
楽しませ方もわからない。

楽しませるにしても
本当に何も分からないかもしれない…
と否定的にも考えることもあった。

想像とはかけ離れた育児。

前を向く夫の気持ちについていけず
自己嫌悪から毎日泣きながら過ごしていた。

そんな中、1歳半頃
娘がベビーカーから落下した。

初めて大きな声で激しく泣いた娘。
慌てふためき脳外科へ連れて行く。

『万が一の事があったらどうしよう。
私の不注意でごめんね、ごめんね…』
待合室の椅子で娘を抱きしめながら
何度も何度も謝っていた。

その時、産まれて初めて、
娘が私の顔を見て、
ニコっと笑ってくれた。

何度も何度も、私を励ますかのように…。
”お母さん、私は大丈夫だよ。
泣かないで。お母さんこそ大丈夫?”

そんなメッセージを渾身の力を込めて
笑顔という形に変えて送ってくれた娘。

麻痺による筋緊張で
顔の表情も硬く、
笑顔を作る事さえ大変なはずなのに。

何も分からないかもしれなかった娘は、
そうではなかった。

毎日の生活の中で色々な事を、
とてもよくわかっていた。
表出が少し難しい、
ただ、
それだけのこと、だった。

この出来事により、
気づかされる。

”今まで、自分は何をやっていたのだろう” と。
この子がとても大事な存在であるということ。
「今まで、寄り添ってあげられなくてごめんね」


”小さな変化を見逃すまい”
”娘の一番の理解者でありたい”

その後、積極的に娘とコミュニケーションを
取るように意識しながら、
リハビリも学び始める。

未就学期に通園していた整肢園の園長先生が、
「お母さん、育児は楽しまないとね。」と
そっと、声をかけてくれた事も大きかった。

産まれてからほぼ無表情だった娘が
ふんわり笑顔を見せてくれる機会が増えた。

成長とともに小さな声で呼んでくれるようになり、
娘と一緒に過ごせる毎日が嬉しく、楽しい。

将来への不安は常にあるけど、
今、目の前にいる、
ありのままの娘を
まるっと受け入れて
可愛いと思えるようになった。

6.残された子宮と、きょうだい


あの時、奇跡的に残してもらえた子宮。

胎盤が剥がれ、
血が止まりにくい体質だと教えてくれた子宮。

育児を楽しめるようになってきた頃、
もう無理だろうと諦めていた
”きょうだいを作ってあげたい”
その気持ちが湧いてきた。

そして、待望の妊娠。
長期入院し、輸血の準備など
万全の状態で臨んだ帝王切開。

今回は意識があり、
オペ中はトラウマがフラッシュバックし
恐怖で震えと涙が止まらなかった。

産声をあげて産まれた次女に
やっと会えた時、
その震えは止まり、
言葉では言い表せない感動が
私を包んだ瞬間だった。

次女(凜)は現在2歳になり、
母の私が困ったり、疲れてしまった時に
こう言ってくれます。

「りんちゃんがついてるから、
ママだいじょうぶだよ〜」
「かぞくだから、だいじょうぶ」

その度に、あのときのベビーカーから落下した時に
笑顔で心の声を聞かせてくれた優と一緒だなぁ、と。

子どもたちの持つ愛のパワーに
いつも支えられている、
相変わらず未熟な、でも少しだけ強くなれた母です。

7.小児科医でもあるがその前に父親である


あの日、小児科医で当直明けだった
夫である自分は
勤務先の病院の手術室で
超緊急帝王切開で妻が出産した
自分の娘の心肺蘇生
をしていた。

まさか、妻と子どもがこんな事になるなんて
思っても見なかった。

頭の中は真っ白で、
”頑張れ、頑張れ、頑張れ、頑張れ…!”

心の中で叫びながら一心に長い時間
胸骨圧迫(心臓マッサージ)をしていた。

ただ、ただ、生きて欲しかった。
目を開けた我が子に会いたかった。

アプガースコア0/0
誕生直後に人工呼吸器

”すぐに気付いてあげられなくて
ごめんね、苦しかったね…”

退院後も一日中眠り続ける。
娘にとって、妻にとって、家族にとって、
この選択は正解だったのだろうか?

娘の出産後も小児科医として勤務し、
以前と変わらず
帰宅時間が遅かったり、当直がある。

ある時、妻が言った。
「お医者さんは沢山いるけど、
お父さんは1人しかいないんだよ。」

その一言にハッとする。

妻も娘の看護に限界となっていた事、

娘の主治医として
ずっと診ていくと思っていたが、
医師としての視点から見てしまい
父親になりきれていない
自分がいることに気づいた事、

そして夫婦として2人目の子どもも
欲しいと思っていた事。

そこで自分は臨床現場を
諦めると決めました。

8.妻への感謝



なかなか、気恥ずかしくて、
普段は伝えられていないけど、
この場を借りて『ありがとう』を伝えたい。

小児科医として障がいのある子を
沢山見てきて、すぐに娘のことを
受け入れてしまおうとしたけど、
そのせいで、
妻に寄り添ってあげられなかったのかもしれない。

振り返ってみると、
障がいのある子を家族で育てていくことの
本当の意味での覚悟が足りなかったのは
僕の方かもしれない。

僕は臨床医を続ける事が難しくなったけれど、
妻はそれ以上に色々なことを
手放してきたのかもしれない。

いつの間にか、小児科医の僕よりも
優の体調の変化に敏感に気づく様になった妻。

いつも子ども達のことが優先で、
自分のことは後回し。
育児やケアで満身創痍(まんしんそうい)の時もある。

命懸けで優を産んでくれてありがとう。
凜を産んでくれてありがとう。

これからも夫婦と可愛い娘たち2人の4人で
幸せな家庭を築いていこうね。

9.優へ



沢山のお友達、人との関わりの中で、
楽しい毎日を過ごそうね。

明日がくることは
当たり前ではないからこそ、
1日1日を、
今、この瞬間を目一杯、楽しもう。

優は凜ちゃんのお姉ちゃんになったけど
もっと甘えていいんだよ。

いつか突然遠くにいってしまうような、
万が一、そんな時が来てしまったとしても、
「あー、楽しい毎日だったなぁ」
「この家族に産まれてきて良かったなぁ」
って思ってもらえるように…。

幸せかどうかは、
優自身が決めるものだよね。

いつも、いつまでも応援し続けるよ。

ママもパパも凜ちゃんも、
ありのままのあなたが大好きです。

沢山の素晴らしい出会いや経験、
愛をありがとう。

優しいこどもたち、私たちのところに
産まれてきてくれて本当にありがとう。

ママとパパより



写真撮影 福添 麻美






























この記事が参加している募集

子どもに教えられたこと

作業療法士(OT)は 実は子ども達のサポートも しているリハビリ職。 これらの記事が読んで頂いた方の 子育て・療育のヒントになればと思っています。 子ども達は今この瞬間が 生きてきた人生で一番成長している時。 記事を通してみなさんと 関わる事が出来たら嬉しいです✨