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芸術の【秋】という季節ではないけれど...フィルハーモニーを聴きに

 あれは先週のこと、オットに「フィルハーモニーを聴きに行こう!」と誘われた。あまりに突然のことで、しかも平日(火曜日の夜)だしと多少躊躇はしたが、オットは私の返事を待たずとも行く気満々。よく話を聞けば、仕事の関係でご招待があったらしい。曲目にスターウォーズとあるのも、そのシリーズのファンであるオットには魅力的だったのだろう。滅多に無い機会なので、私も誘いに乗ってみることにした。

 チケットは4枚。家族4人で、とのお計らいのようだが、予備校生である息子は今回は留守番。代わりに娘の大学の友達を誘ったところ、映画好きな彼女は大層喜んだらしい。出発は夜8時とのことなので、午前中は前日に半分やり残していたシャワールームの大掃除などして過ごし、夕方はいつもより早めに夕飯の支度にとりかかった。

 オットと娘が仕事から戻る時間を考えたら、出発前にしっかりと夕食を摂ることは微妙だった。息子には普通に白米を炊飯し、私たち用には出発前に摘めるように、前日の残りものの炊き込みご飯で小さめのおにぎりを作った。(それも、いつもより早めに帰宅した息子に幾つか食べられてしまった。)身支度を整え、カタツムリたちの餌も取り替えて準備は万全。ほぼ予定通りに家を出て、娘の友達のヴァネッサをピックアップした。全ては順調に思われた。

 ところが、帰宅ラッシュの渋滞がまだ収まらない時間帯な上、大規模な工事に車は何度も迂回を余儀なくされた。劇場は行ったことのないショッピングセンター内にあったが、街中にあるのだし30分位で到着出来るのでは、と楽観視していたが甘かった。オットの苛々は運転にも影響する。加えて後ろのギャルたちの絶え間ないトークも耳につく。私はといえばエアブレーキを踏みっぱなしで、目的地に到着する前に大分気力を消耗してしまった。

 ともあれ、係の女性と待ち合わせていた劇場の入口前には開幕時間(9時)の10分前に滑り込んだ。予めWhatsAppでシェアされていた女性の写真では残念ながら本人は見つけられなかったが、あちらから探しに来られてひと安心。お手洗いを拝借し、劇場の席へと向かう。

 私たちに割り当てられた4席は、4階の客席の列のほぼ真ん中にあった。舞台からは遠くはあったが全体を見渡せる良い席だと思った。(ヘッダーの写真は席からの眺め。)時間ギリギリに着いたので席は既にほとんど埋まっていてた。座席の前の通路を恐縮しながら通らせてもらった。客席の急な勾配、ぎっしりと詰まった様子は、装飾などは別としてもオペラ座の怪人を鑑賞したニューヨークのブロードウェイの劇場を彷彿させた。後で調べたところ、この日の劇場のキャパは1439席とのことだった。意外に大きかったので驚いた。

こちらはブロードウェイの劇場。娘はアレルギーがあるので着席するなりカーペットに反応し、鼻を啜りっぱなし。今だったら白い目で見られていたかも。

 演奏は予定通りに9時に始まった。予め与えられた情報はBACHIANAフィルハーモニーwith João Carlos Martins(ジョアン・カルロス・マルチンス)と、演奏曲目のスターウォーズのみ。詳しいことはよく分からないが、久しぶりの音楽会に気持ちは高揚した。因みにブラジルではマスクの着用義務が解除となり、周りを見渡しても使用率は2、3%という感じだった。(私はウォーキング時には外すこともあるが、室内ではまだ用心する。)

 オーケストラが舞台に揃い、若手の指揮者が出て来て、曲の紹介をした。割とあっさりとしたmc。最初の曲はスーパーマンだった。続く曲たちは

ジョーズ
ET
インディジョーンズ

など、どの世代でも馴染みのある映画音楽ばかりだった。ここに来てやっと重鎮のご登場。客席よりひときわ高く鳴り響く拍手の音。「ホゥオゥ〜」との雄叫び、口笛などそれはそれは賑やかで面食らう。遠くてお顔はよく見えないが、この方がジョアン・カルロスだと悟った。

 ここに来てシンドラーのリストの演奏が始まることになる。若手指揮者にジョアン・カルロスはいくばくかの助言をし、彼はその後舞台左側に置かれたグランドピアノに向かう。今までのアドベンチャー感満載な曲たちから一変、メロディーがしんみりと胸に響き渡る。この次にいよいよスターウォーズの演奏に入るわけだが、もうお分かりであろう。セットリストに選ばれた曲たちは、偉大な音楽家ジョン・ウィリアムズの作品ばかりだった。

 ジョアン・カルロス・マルチンスはブラジル、世界が誇るピアニスト&指揮者でもある。以下彼のmcをかいつまんで記載する。

 ジョアンは御年82歳。ブラジルサンパウロの生まれである。幼い頃からピアノを習い始め、21歳でニューヨークのカーネギーホールデビューを飾った。しかし、若きピアニストの人生は決して順風満帆ではなかった。25歳の時、ニューヨークのセントラルパークでのサッカーの練習試合で怪我を負い、右手指3本が筋萎縮を起こすダメージを受けた。その後数年間は音楽家としての活動から遠ざかっていたが、リハビリが功を奏して、1978年、38歳の時カーネギーホールで見事に復活を果たした。

 しかし不運は続く。1995年に遠征先のブルガリアで暴漢に襲われて頭部に大怪我を負い、再度右腕に障害が残った。度重なる手術、治療により翌年にはカーネギーでの再復帰公演を果たした。しかし、2000年に受けた手術が元で、左手と右手の指一本しか使えない体となってしまった。きちんと両手での演奏をしたのは、1998年のロンドンでの公演が最後だと仰っていた。

 その後は左手のみの協奏曲で海外公演も行ったが、非常に稀な病気に襲われることとなり、遂には左手も不自由となった。とうとうピアニストとしての活動は断念し、マエストロ(指揮者)に転身、後進の育成にも務めながら今日に至る。

 シンドラーのリスト以降、スターウォーズの曲目六曲は全てジョアン・カルロスの指揮で演奏された。病気の影響でタクトは掴めない。両腕を振りかざす渾身の指揮は、とても体が不自由とは感じられなかった。演奏で会場はもちろん拍手喝采、スタンディングオベーションだった。その後ピアノソロで一曲演奏。曲名は残念ながら失念。。一瞬ニューシネマパラダイスのテーマ曲『愛のテーマ』を弾きかけて、「これじゃない」と訂正されるハプニングがあった。

 ジョアン・カルロスのmcはゆっくり、はっきりとしていて外国人の私にも分かりやすいポルトガル語だった。今まで何度となく話されて来た経歴なせいか、お年の割に記憶も明瞭で感心させられた。何より、ユーモアを交えているところが微笑ましく楽しかった。

 ジョアン・カルロス・マルチンスといえば、リオのパラリンピックでの開会式のブラジル国歌の演奏が記憶にある方もいらっしゃることだろう。


 今は、存在しながらもその機能を失った指の働きを補うため、Bionic Glovesという特殊な手袋の力を借りながら細々と演奏をする。


  これは、若かりし頃の演奏姿。なかなかの迫力である。バッハの演奏を得意とされていたようだ。

 この日の最後に特別ゲストが出演されたことも書き記しておきたい。平日の夜で観客は大人ばかりだったが、ひと昔前の少年、少女達によって会場が大いに沸いたことは言うまでも無い。会場が靄っているのは、このゲストの銃が火を噴いた直後だからである。

ストームトルーパーはジョアン・カルロス・マルチンスの問いかけにちゃんと応えるナイスガイだった。

 70分の公演時間と聞いていたが、幕が閉じて時計を見たら11時になっていた。時間を気にする事なくあっという間に過ぎた2時間だった。やはり生演奏は良い。管弦楽の演奏はもちろんのこと、パーカッション部隊が忙しなく動く姿もジロジロと眺めては堪能した。言葉はなくともそれぞれの国の言葉に翻訳され、各々の心に響く音楽の素晴らしさに改めて感動したひとときだった。まさに明日への活力をいただいた感じ。また、決して平坦とは言えなかったジョアン・カルロスの人生ではあったが、どんな時でも希望の光を見失わずに歩み続けることの大切さを教えていただいた。

 劇場を出ると、隣接するレストラン街は慌ただしく店じまいをする時間となっていたようだ。ここで何かを食べて帰る選択肢はもはやない。真っ直ぐに家路へと急ぐことにした。帰路も何故だか経路案内に翻弄されぐるぐると果てしなく抜け道を探す。私がエアブレーキを踏み、疲れを知らないギャル達が声高に話し続けるのは行きと全く一緒。夜は更に更けていたから、信号での停車時には殊更周りに注意する。ヴァネッサを送り届けて自宅に到着したのは0時10分前だった。シンデレラの馬車がカボチャに変わる前に滑り込みで帰宅しホッとした。長い1日が終わった。久しぶりに心地よい疲れを感じた夜だった。

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