音楽の記憶 #noteリレー「日常にある煌めき」
私は音楽を聴くことが何よりも好き。特にここ数年はどちらかといえば苦手と思っていたジャンルの音楽(ジャズ)を楽しむようになり、その変わりように自分でもちょっと驚いている。
ジャズを聴くようになったきっかけはNY在住のジャズピアニスト、大江千里さんのSenri Jazz。4年ほど前に千里さんのnoteを見つけてからそのご活躍から目が離せなくなった。
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私と音楽との最初の出会いはいつだったのだろう。
子供の頃の遠い記憶が甦る。そういえば90歳になる父の、若い頃からの趣味はレコード鑑賞だった。
人付き合いを好まず、多趣味というわけでもなかった父だが、日曜日には自慢のレコードプレーヤーの蓋を開ける。そしてその日の気分でセレクトしたレコードに嬉々として針を落とした。
父が聴いていたのはもっぱらクラッシック音楽だった。ピアノ、弦楽器、オーケストラ、それにウィーン少年合唱団など。演歌を含め、流行歌というものを全く聴かない人だった。
幼少期の私にはクラッシックの良し悪しなどまるで分からなかった。かかっている曲をひたすら聴く。聴くというか、まるで洗脳のように聴かされる。ただそれだけだった。父からのウンチクも一切なし。曲名も何一つ知らなかった。
この知識が何の役に立つかなんてもちろん全く意識していなかった。でも、後々学校の音楽の授業で習う曲のほぼ全てを知っていて驚くことになる。
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私が5、6歳だったある日、事前に告知をされることなく突然我が家に一台のオルガンが届いた。(これは朝の登園前に母によって撮影された写真。)
このオルガンは私が生まれて初めて手に入れた楽器だった。両親がオルガンを私に買い与えた理由は、近所に住む知り合いのところにピアノのレッスンに通うことになったから、だった。
「自分はピアノを習ったことがないから、あなたにはピアノが弾ける人になって欲しい」、と母が言っていたような記憶がある。今思えば音楽好きの父も同じことを思っていたのかも知れない。
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知り合いとのレッスンは一年ほど続いただろうか。私にとっては初めて自分の音楽と直に触れ合うキラキラな時間だった。最初のうちはレッスンも簡単で、教則本もスイスイと進んで楽しかった。
両親がオルガンを処分してアップライトのピアノに買い替えた頃、「ピアノの先生を変えることになった」と又突然母に言われた。次の先生は、習っていた先生の恩師でご自身は芸大のピアノ科卒、たくさんの生徒さんを音大に入れる実績がある方だったそうだ。
その頃の私は「大きくなったらピアノの先生になる」と両親に宣言していた。ピアノ教師といえば音大のピアノ科で学ぶことは必須。そのためにはなるべく早いうちに良い先生のもとで学ばせた方が良い、との考えだったのだろう。
でも、それからというものピアノのレッスンは徐々に楽しく無くなっていった。とにかく先生が厳しかった。おさらいのために最低でも1日に2時間の練習時間を、というのも遊び盛りの小学生には酷だった。
家での練習中、近所の友人数人が遊びの誘いにやって来た。「ピアノの練習中だからまた今度。」母がやんわりと誘いを断っていた。残念な気持ちになりながら練習に戻る。ふとベランダを見やると、柵に掴まりながら練習を見学する友人たち(団地の一階住まいだったので。)。練習に集中するどころではなくよそ見ばかりしていた。
「家での練習時間をいかに短縮するか」、ということに知恵を絞っていたのもこの頃。家の時計の針を一気に15分位進ませては、ズルがバレて母に叱られていた。練習中に不必要にお手洗いに立つのを父に見つかって咎められたこともある。
でも、音楽そのものは決して嫌いではなかったのだ。父のレコード鑑賞に付き合うことも、リコーダーを吹くことも。学習発表会で鉄筋や木琴を叩くことも。どれもワクワクする時間だったのに、ピアノの練習だけは辛くて仕方がなかった。
小学校の中学年の頃にはピアノに加えてソルフェージュや楽典も習うようになりピアノのレッスンの日がますます憂鬱になった。同じ年頃の子供達4、5人での理論の授業の後、順番にピアノの個人レッスンを受けて帰る。私は一番最後の番になることが多かったから、他の生徒たちのよくおさらいされた練習曲、それに対する先生のお褒めの言葉を聞いてはますます気分が落ち込んだ。
中学3年になった年、毎年恒例のピアノの発表会が何かの試験と重なることが分かった。それを機に私はキッパリとピアノを辞めた。やる気のないまま決して安くはない月謝を両親に払って貰うことが心苦しくもあった。
オルガンと弟と一緒に写真を撮ってもらった時のキラキラ、ワクワクする気持ちを私はすっかり失くしてしまっていた。ピアノを辞めることに未練は全くなかった。両親も私の気持ちを尊重してくれたし、内心ホッとしていたことだろう。もっと早くに決断すれば良かったのに、ズルズルと言い出せずにいた自分を呪った。
これはその前年、中学2年で参加した、最後のピアノの発表会の音源。先生がレコードにして下さっていた。トロイカの曲の記憶は全然無かったので、YouTubeで検索してみた。
そう、こんな曲だった。私にしては結構高度な曲を演奏していたのだな、と今になって妙に感心した。確かこの曲はどこかで失敗したから、家でレコードをかける気もしなかったのだっけ。レコードはこちらに持っては来たけれどプレーヤーがないので再生できないまま保存している。
トロイカがどんな曲かご興味のある方はこちらから↓↓↓
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ピアノを弾かなくなってからも長い間、レッスンで先生に叱られている夢を見ることがあった。(それは何と、結婚後も子育て中にもあった。相当トラウマだったのか。)でも最近になって気づいた。「いつの間にかそんな夢を見なくなったな」、と。自分がピアノを弾く事を手放し、ジャズピアノを楽しむようになったからではないかと勝手に分析している。
もともとはSenri Jazzから始まったジャズ鑑賞ではあるが、今では詳しい友人のオススメでスタンダードの曲も楽しんでいる。ウォーキングをしながら、掃除や料理など家事をしながら。。「音を楽しむこと」は例えこんなご時世でも私にとっての癒し、日常にある煌めきそのもの☆
一方、あれほど音楽好きだった父はここ2、3年ですっかり聴力が衰えてレコード鑑賞を楽しむことが出来なくなった。今となっては生き続けることが奇跡の連続。父にとっての日常にある煌めきは今は何なのだろう、とふと思った。
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辛い時も聴くと気持ちが明るくなる曲。On the Sunny Side of the Street ( by Diana Krall )私のお気に入りの一曲だ。
♫♫♫
今回、note界の女神、verdeさんからnoteリレーのバトンを引き継ぐ幸運に恵まれました。
頂いたお題は「日常にある煌めき」。あまりに突然なことで激しく動揺する私に、「好きな事をのびのびと書いて下さいね♫」とverdeさんは軽やかに励まして下さいました。
ほぼ読み専の私に書く機会を与えて下さり心より感謝しています。ありがとうございました♡
女性らしい細やかな表現力で読者を魅了するverdeさん。エッセイも小説も読み応えがたっぷり。ジャズのエッセンスをちりばめた小説「コルトレーンの囁きVol.1〜10」は私のイチオシ小説です。
そして私のようなモノの乱入で乱れてしまったペースを取り戻すべく次の走者として選ばせていただいたのは紫りえ♪さん。
猫野サラさんのアイコンの、にっこり微笑むりえ♪さんはほんわかとした優しいイメージ。看護師さんというお仕事柄、その笑顔に癒される患者さんたちがたくさんいらっしゃることでしょう。
りえ♪さんの作品はエッセイ、ポエム、実話に基づくフィクションなど多岐に渡りますが、日常を描いた作品のその一つ一つに温かさが感じられます。
娘さんをモチーフに書かれたポエム「Dear Girl」はなんとプロのシンガーソングライターの方によって曲が付けられています。結婚式にピッタリな楽曲で思わずジーン。
そしてりえ♪さんといえば「旅する日本語」コンテスト。果敢にも全てのお題に挑戦された方は、noterさんにもそんなにいらっしゃらないのではないでしょうか。。
羽田空港にパネルが展示された受賞作、「ナニタベル」はこちらからどうぞ♡
今回、紫りえ♪さんにお渡ししたお題は「涙がにじむ理由」です。古くからの大江千里さんファンでもあるりえ♪さん。最新の千里さんのエッセイに絡めたこのお題はまさにりえ♪さんにピッタリ。どんなお話が飛び出すか今から楽しみです♡
sakuさんの企画に参加させていただく機会を得て、ずっと自分の心の奥近くに仕舞い込んでいた古い映像を再生することが出来ました。又、その時の自分の感情を思い出すことも出来て気持ちが軽くなりました。
リレーを通じて人との繋がりの温かさを実感するステキな企画でした。ありがとうございました♡
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