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世界にパネトーネを拡めたBauducco(バウドゥッコ)ファミリー

 始まりは欧州に住んでいる方とのコメント欄でのやりとりだった。あちらでは秋の声を聞く今時分になると、クリスマス用の菓子が店頭に並び始めるとのことだった。北半球はつい最近まであんなに猛暑の日々が続いていたのに...もはやクリスマスの準備なのか、と衝撃を受けた。

 ブラジルで典型的なクリスマス用の菓子といえば、甘い発酵パンのパネトーネが真っ先に頭に浮かぶ。(ヘッダー写真をご参照。)こちらではBauducco社のパネトーネが最もポピュラー。クリスマスの時期のスーパーでその黄色い箱が山積みにされている様子は、年末の風物詩のようなものだ。

これは全てBauducco社のパネトーネ。価格がお手頃な箱入りのもの、少し高級感があって贈り物に最適な缶入りのもの、定番のドライフルーツ入り、生地にポツポツとチョコが入り込んだチョコトーネなど、バリエーションも豊富

 Bauccoという名前から、てっきりイタリアが発祥の食品会社だと思い込んで「では、Bauduccoのパネトーネも見かけるでしょう?」と何気なくその方に訊いた。でも返信は「イタリア語のようだが聞いたことはない」とのことだった。

  なんだかとんでもない思い違いをしたようで、慌ててWikipediaの検索(子供たちが小中学生の頃、調べ物にwikiを使ってはいけないと散々先生が仰っていたにも関わらず)にかけてみた。やはり私の思い違いであったようだ。

 BauduccoについてのWikiをざっと訳してみるとこんな感じだった。

 1906年、イタリアのトリノでBauducco社の創設者Carlo  Bauducco(カルロ・バウドゥッコ)は生まれた。

 カルロは、14歳の時に手に負った怪我が理由となり、青年期も第二次世界大戦の最前線に駆り出されることはなかった。代わりにブラジルにコーヒー農園を持つ兄がいる、知り合いの元で働いていた。

 知り合いの兄が里帰りした際に「ブラジルには手作りフランスパンの店は沢山あるが、パンを製造する機械がない」という話を聞きつける。

 そこで40台のパン製造機をブラジルに送り、機械が売れたかどうか朗報を待った。1948年、返事がなかったため痺れを切らし訪伯、機械の売り上げがコーヒー農園に投資されたと知り、その一部を回収することに成功した。

 サンパウロはイタリア移民の街でありながら、その当時はパネトーネが浸透しているとは言い難かった。そこで、「これぞ商売のチャンス!」と閃いた。妻子を連れての移住を決意し、1950年には腕の良い菓子職人をサンパウロに呼び寄せた。ブラス地区で始めた小さなその店が後のBauducco社の始まりとなった。

Wikipediaより抜粋、翻訳


 1972年にカルロが亡くなった後もBauducco社は成長を続けた。今では国内に4ヶ所、米国のマイアミに1ヶ所の計4ヶ所の生産拠点を持ち、世界の50ヵ国に向けてパネトーネを輸出しているそうだ。

 私も日本帰国中に、シュラスカリアレストランで山積みになった黄色い箱を目撃したことがあった。米国内からの輸出なら、輸送コストもそれなりに抑えられることだろう。「クリスマスのパネトーネ」は、宗教に関係なく、近年日本でもじわじわと浸透してきた印象だ。

 Bauduccoの躍進はまだまだ続く。最近では一口サイズのチョコトーネをプロデュース、クリスマス時期に拘らずとも、スナック感覚でいつでもどこでも、気軽にパネトーネを口に出来るまでになった。

Bauduccoの最近のヒット作、Chocottone Bites

 そして今や、ショッピングセンター内の店舗で、一年中Bauduccoのパネトーネをいただくことすら出来る。

これもなかなか画期的なアイデアだ。


 自社製品だけにとどまらない。日本のヒット商品、「コアラのマーチ」のブラジル国内販売権を獲得し、Bauduccoの社名を入れて販売することにも成功している。日本からの輸入品のコアラのマーチの価格はコストが掛かって大変割高だ。(オリジナルである輸入品は東洋人街の日本食料店でも購入できる。)日本の技術を使って作られた美味しい菓子が、お手頃価格の国産品として手に入る。これは良いアイデアだと思う。日本贔屓の若者を中心に、国産のコアラのマーチは伯人にも大人気である。


***


 海外からの移民の方々の、涙ぐましい努力の話にはジーンと来る。たまたま今朝、アメリカに移住された、日本人アーティストの記事を読んだのだが、「人生に折り返し地点などないし、折り返す必要もない。歳によって異なるかもしれないが、人にはいつも夢はあるはずだからそこに向かって進んで行けばいい」というようなことを仰っていた。

 なるほど、人生で成功を収めている方の話にはそれなりに説得力はあるが、どう考えても今の私の年齢は人生の折り返し地点をとっくに過ぎている。(どう頑張っても100歳以上まで生きられるはずがない。

 この世を去る時に大層な軌跡は残さずとも、自分を温かく受け入れてくれたこの国の役に立つようなことができないものか、と少しずつ考えるようになった。

 とりあえず、この遠い未知の国を皆さんに知っていただくこと。note界で読み専に近かった私が、こうしてコツコツとなんとか文章を綴るようになった。まだまだ皆さんに興味を持っていただけるには至っていないかもしれない。でも、自分にとっては小さな第一歩を踏み出したと言ってもいいのではないかとも思う。

 私が日本を離れる時、会社の上司が仰ったお言葉の意味を今になって噛み締めている。「あちらでは君の出来ることを何かしないといけないよ。例えば公園に日本の桜の木を一本植えることでも構わないのだから。」

 私がこちらに移住して丸28年。もしもあの時に桜の木を植えていたら、果たしてどのくらい成長しているのだろうかとふと考えた。それだけ長い間故郷を離れているのだな、と思ったら改めて胸がいっぱいになった。



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