あの日割れた皿の欠片は、今も引き出しの中にある。
私がその超能力者の夫妻と出会ったのは、このネット上のどこか(じつは宇宙の上みたいな気がしている)だった。ふたりは、降霊術をしたり超能力を使って遠隔治療をしたりして暮らしているようだったけれど、私は密かに彼らは吸血鬼だと思っており、私の素敵な吸血鬼たち、とこころのなかでそう呼称していた。待ち合わせをするのも、いつも夕方の4時を過ぎてから(冬の北ヨーロッパでは夜の暗さが降りている)だし、街でふたりを見かけるのも、たいてい夜だったから。彼らにはどこか、他の人間の生気を吸いとって生きているような、太陽のひかりの反射だけで輝く月のような感じがあった。
初めて会ったのもそんな夜のはじめの、俗に魔に遭うという薄暮の時だった。待ち合わせをした古いカフェというより酒場の隅の暗がりの卓で、でもふたりは満面の笑みで待っていた。彼と彼女はいつも中世みたいな装いで、夫の玲央さんは、常に仕立てのよいスーツを着てきちんとウエストコートも身に着けている。この日はとても複雑な文様の、うつくしいタイを着けていた。妻のエカテリーナさんはベルベットのドレス、コルセットを着けているみたいに細い腰。「僕は女性には触れないことにしているんです」玲央さんが優しい声で言って、エカテリーナさんが(代わりに)にっこりと温かく、私が差し出したはじめましての右手を取ってくれた。
私たちは住まいが近かったので逢瀬はいつも急に、じゃあこれから、と食事の約束をしたり、夕方のワインの約束をした。私は超能力のことはよくわからないので、彼らも細に入って私に解説することはなかったけれど、彼らの住む(王宮の側の)古い瀟洒な邸宅で同居している幽霊の話や、ロシア科学アカデミーで研究した話を、私の(それに比べては遥かに凡庸な)主婦談義と交えて、いつもとてもくつろいだ空気で会話した。
ある日。
私のアフリカ時代に知り合った実業の友人が、出張で来るので会いたいと声をかけてくれる。彼はあの頃、自分で会社を起こしたばかりで、欧州でビジネス展開すべくこちらでのカウンターパートを探していた。サラさんの人脈で誰か紹介してもらえないかな、と福永さんは書いてきた。この問いに、私が玲央さんを想起したのは今でも不思議だ。玲央さんの表向きの肩書は、投資コンサルタントだったけれど(実際彼は資産運用で多額の利益を得てはいた)、フィンテック業界でばりばりやっているこの旧知の友と、あまりにかけ離れている、何もかもが。
私たちはお昼に集まって、わが家で昼食をとりながら懇談した。福永さんが伴って来た彼の日本のビジネスパートナーは、アメリカで育ち、かつてプロのリーグで野球選手をしていたというちょっと珍しいビジネスマンで、周囲に柔らかなひかりの粒のように、ポジティブな精神力の強さを発散しているひとだった。トミタ・ケイです、と朗らかに微笑んで、彼はさっと皆と握手を交わした。私たちは(共通言語は英語)、欧州経済の概況について所見を述べ合い、玲央さんと友は投資環境について少し込み入った法律談義をし、私はエカテリーナさんとロシア語でちょっと秘密の話をした。
食後のコーヒーを飲んでいた時だと思う。そろそろ解散かしら、最後に熱いお茶をお出ししようと私が立ち上がった時に、福永さんがちょっと長い話があるのだけれど、とこちらに向き直して真剣な顔をした。脈絡もなくてオチもない話で申し訳ないけれど、と前置きして、彼はゆっくりと話し始めた。
福永さん語る。
「どうしようもなく不安なくらいサラさんのことを思い出したから、話すのだけれど。」
先週、僕はある映画の試写会に行った。原作をとても気に入っていた作品で、ずっとその映画化を楽しみにしていた。物語は、第二次世界大戦下の日本、しかしながらその主題は、組織化された殺戮の時代のバーバリズムではなく、そこに暮らす市井の人々の営みを見つめるリアリズムだった。
ヒロインであるすずさんの少女時代が、いたく僕の気に入った。絵を描くのが上手で、おっとりとしていて、いつもどこか夢見ごこちな彼女が過ごした朧気な時代。しかし彼女が18になった時、その柔らかな霞は唐突に消滅する。でも別段それは悲劇ではなかった。両親のはからいで広島から呉へと嫁ぐすずさんを迎えた家族は、寡黙だけれど心根は優しい夫と穏やかな義父母そして出戻ってきた気の強い義姉と幼い娘という、異郷ながらも温かな環境であった。時代は昭和十年代後期。戦火が迫り生活物資が困窮するなかで、草をつんで料理をしたり着物をもんぺに縫い直したり、ささやかな工夫をこらして日々を豊かに彩るすずさんは、少女時代と変わらずぼんやりとしてユーモラスで呑気な空気を纏っている。しかし、時代は昭和20年の夏に近づいてゆく、坂を転がり落ちてゆくように。観ている僕はそれを知っている。
戦時下を舞台にしつつも、戦闘のシーンはほどんど描かれず、市井の人々のささやかな日常生活が細部に亘って丁寧に描かれ、そのおかげでむしろ、その「日常の暮らし」を奪う戦争の理不尽さが、さらに胸に迫る。国や時代に翻弄されながら、懸命に慎ましく生きたすずさんたちの姿は、現代に生きる人間と共通して僕の心にも響いた。そして映画は、そんな日常の心象風景と重ねて、すずさんや夫そしてその情婦(かもしれない)遊郭の女性との関係やこころの機微が丁寧になぞる。そこで浮き彫りになったのは、すずさんが胸の奥底に抱いていた葛藤や願い。無垢な子どものように見えていた彼女の血の通った陰影が、時には匂い立つように艶っぽく、時にはしなやかにたくましく迫ってきて、僕は言葉が出せなかった。物語の終盤、彼女は大きな喪失を経験する。この切実な内面に触れたことで、その絶望の中で彼女が見出した自分の居場所と希望のひかりがより明るく強く感じられて、僕は目が眩んだ。
福永さんは、ある映画の物語のプロットラインを丁寧になぞって話した、その語りはいつの間にか日本語になっていて、玲央さんが時折小さな声でロシア語に訳していたけれど、いいのよという感じで微笑んで、ある時エカテリーナさんがそれを制した。私たちは久しぶりに、穏やかな日本語の音韻に浸った。それでいて、私は福永さんの語りの本質を掴みかねていたけれど、それは予感と不安とがないまぜになって、この場にある空気を醸成した。そして唐突に福永さんの語りは終わった。「僕はそれでサラさんに会いに来たんだよ。」
ケイさん語る。
ケイさんは、とても神妙な表情で福永さんの話を聞いていた。終わりに「ユウキがこういう話をするのは珍しいね」と口を開いた。そして「僕も話してみようかな、ユウキにも話したことはなかったね、この話は今までは妻にしか話したことはないんだ」。ケイさんの語りは、唐突に始まった。
シナステイジア、共感覚って聞いたことがあるかな。僕さ、数字が色で見えるんだよ。これが僕の人生でいつ始まったことなのかはもう記憶にはないのだけれど、特別なことだとはちっとも思っていなかったよ。みんなにも見えると思っていた。これが一過性の幻覚ではないことは、ぼくは証明できる。僕にとって数字の3は、いつも少し淡い緑色なんだ。つまりね、これはごく無意識的で一貫した性質の経験で、記号的にソリッドなものなんだよね。ひとによってはこの感覚を精神的な病気だとか神経障害だと表現することがあるけれど、僕はハンディキャップだとは感じたことはない。でも、少し精神に負担が掛かりすぎると感じることはある。「神に与えられた感覚」と言われればそうかと思うし、失いたくない能力であるとは感じるけれど、とにかくなんだか重いんだ、精神的に。だからずっとこのことは、誰にも話したことがなかったんだ。妻に会うまではということだけど。
僕が、計算をするときや何かの番号を暗記する時は、単調な数字の羅列が、それは鮮やかな色彩に変化するんだよ、それは本当にうつくしい。きみたちにも、見せてあげたいな。そして同時に、背徳的な幻覚に浸っているような後ろめたさが迫るんだ。精神的に揺さぶられるのは、そのせいかもしれない。それは、本当にきつい時があるんだ。
ケイさんはここまでを一息に話した、それは少しうわ言みたいな独白だった。それから彼は、彼のこころの孤独と孤立(それは自分で築いた壁に依るもの)について短く言及して、少し俯いたので、福永さんがそっと彼の背中に手を置く。そのしぐさの自然さが、彼らが仕事仲間として長く過ごした時間を物語っていて私の気持ちが温められる。
水を飲もうと立ち上がって、時計の文字盤を見たら、数字に少し色がさして見えた。共感覚の鏡像的なエネルギーをケイさんが放っているのかもしれないな、とその時は思った。水道の蛇口からつめたい水をグラスで掬い、ふと手にとった皿(昼食で使ったもの)が、手の中で二つに割れた。不意に。それは祖母から受け継いだ古い伊万里の揃いの皿で、うつくしい金襴手の赤絵だった。あ、と思ったのと同時に、このわが家に伝わった古い皿が、見えない何かから自分を守ったのかもしれないと、浮かんだ。
玲央さんが緑色の瞳で、静かに私を見つめていた。
私のこと。
私の青暗い修羅については、私はどこから話したらよいのか、わからなかった。私には、物心がついた頃から幻覚と幻聴の発作があって、それは深く死のイメージと結びついていた。血の匂いと破壊の心象が、その幻影に長い影を落とす死神の鎌のように、宿命的にこびり付いていた。同時に、私には写真のような記憶があった。瞳をシャッターにして眼前を鮮明に記録した直観像の記憶。ずいぶんと長い間、私には忘却という概念がわからなかった。記憶とは、手に触れられるほど鮮やかに脳の中にアーカイヴされているつやつやの版面のようなものだった。
だから私は、眼前に現れる残虐でおどろおどろしい幻覚と呪詛のような幻聴と、或いは脳内に鮮明に凍結保存されているかつて自分がこの目で見た画像との間の区別が、つきにくいことがあった。
それは、修羅だ。
ちゃんと口に出して言葉にできたのかは、よく覚えていない。何度も言い淀んで、言い直したりしながら、ぼんやりと眺めた壁の時計の針が、ぜんぜん動かないと、どこか他人のように思っていた。
「セイラちゃん」(年下の玲央さんはなぜか私を英語式にこう呼ぶ)呼ばれてはっと正気が戻る。
その日、私たちが別れたのも、夜の初めだった。
あなたがもし、この創作物に対して「なにか対価を支払うべき」価値を見つけてくださるなら、こんなにうれしいことはありません。