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2023-07-12 常識とか普通について考えたこと

そんなの常識だろ。
普通こうだろ。
自分の周りでは見たことがない。

みたいな論調をインターネットをしていると割とよく観測する。
その度に僕はアインシュタインのこの言葉を思い出だす。

常識とは 18 歳までに身につけた偏見のコレクション

アルベルト・アインシュタイン

B型だからとか、変わっるとか、変なヤツとか言われて育ってきて、まぁ美術系の学校の門を叩いたような人間なので
「きみの思う普通と僕の思ってる普通は違うんじゃないかな?」
「自分の意見を常識って断言できるなんて自分が世界の中心だと思ってるんじゃないか?」
なんて穿った考えるクセがついているのかもしれない。

一方で、そのような言動をとる人が多いように感じる。
厳密には僕の観測範囲なので、インターネットの中にいる日本人って事になるんだけど。

何度か考えることがあって、単一民族国家のDNAとみんなの意見化ってでだいたい説明できるんじゃないかと思った。

単一民族国家のDNA

日本は島国だったのでアイヌとか琉球とかもあるんだけど、ざっくり言えば日本語でコミュニケーションが取れる似た風習を持つ単一民族の歴史が長い。
だから価値観が近い事を前提にした”空気を読む”とか"行間を読む"みたいなハイコンテクストカルチャーな訳だけれど。

だからこそ、自分の思う価値観は周りの人も同じように思っている筈であるって前提を無意識の内に持っているのだと思う。
だから臆することもなく自分の意見を常識とか普通だとしてしまうのだろう

昔の遠く離れた人とコミュニケーションを取る機会が少なくオラが村の中でとか、1億総ナントカ時代とかならまだ通じたかもしれないけど、価値観が多様化してる時代ににおいて世代や教育レベルや属してるコミュニティが異なれば当然価値観に微妙な差がある訳で、常識とか普通って言われても違うくない?ってなる訳。

昔だって長門の人の常識と会津の人の常識はだいぶ違っただろうけど、出会う頻度も議論を交わす頻度も少なかっただろうし、当時は "違う国" って感覚だっただろうから、そう問題が表面化することがなかっただけなんじゃないかな。 

つまり、日本人は自分の周りと意見や価値観が同じだと思って言動しがちな性質を持ってるんじゃないかって事。

みんなの意見化

 これは雑に言えば主語がでかくする問題かな。
古の昔から日本人に効くとして言われる「みなさん〇〇してますよ」構文。

これは2つの心理が無意識に働いてるんじゃないかと思う。

1つ目は、自分の意見を普通とか常識って、みんなの意見だ!総意だ!って見せることで説得力とか正統性を持たせようとする意識。

2つ目は、常識とか普通とか、自分の周りとかって言うことで ”私個人の意見” って感覚を薄くすることで意見への責任を軽くするとか放棄しようする意識。
何か意見を言いきった後に「しらんけど」って付けるのを無意識的にやってるようなイメージかな。(僕は「しらんけど」構文も好きじゃないけどね。)

自分の意見を言い切りたいし説得力を持たせたいけど、責任は持ちたくないみたいな感覚から発生してるんじゃないかな。

〇〇新聞とか株式会社〇〇所属とかプロフィールに書いてるのに "発言は個人のものです" って書いてる人と同じ心理だと思う。
自分の意見に説得力を持たせたいから肩書を使うけど、会社から怒られるとかクビになるとか自分に不利益になる責任を負いたくないみたいな。

みんな安全なと所から投げられる石は好きでしょ?
キリスト様だって「罪を犯したことのない者が石を投げなさい」って言ったくらい人間に無意識的に備わってる機能なんだと思う。

恥ずべきことではないのだろうけれど、自覚しておいたほうが良さそう。
そう考えると、僕は通ってた高校で「自由とは自由の名の下に行った行為に対して責任を負わなければならない」って教えてもらったのとても良かったなって思っている。

インターネットとの相性の悪さ

この日本人の持つ周りと意見や価値観が同じだと思う性質とみんなそう言っているって説得力を持たせようとする性質ってインターネットとすごく相性が悪いんじゃないかと思った。

インターネットは自分の意見を強化してしまう

よく言われているようにインターネット検索は自分の検索した事しか出てこず、自分の意見を強化するような結果を返してくる。
そういう自分の意見と近いサイトばかりを見ていると、行動を元にした広告やオススメも意見を強化したり過激にするようなコンテンツが出てくるようになる。
SNS でも同じような意見の人をフォローしたりする事で、さらに自分の意見と同じ意見が周りに溢れているという状況になり、自分の意見が普通・常識だという感覚が強化されてしまう。

本当は「自分の意見が ("君の観測範囲では") 普通・常識だ」って状態なんだけど。

つまり、自分の立っている位置が偏っていても、自分の位置を中央値だと感じちゃうんじゃないかなって話。

特に「自分の周りでは全く見たことがない!」みたいな論調はまさにこの理論なんじゃないかな。(自分がそうではないってのを、みんなそうではなって言い換えた主語を大きくする合わせ技の可能性もあるけど)

インターネット検索やターゲティング広告・SNSによって自分の位置が中央だと誤認しやすい

政治の例え話でアレだけど、極右・極左の思想に染まってしまった人は、そこが普通 (中央) だと思ってるから、中道左派も極左に見えたり、中道右派が極右に見えちゃうのも同じ原理だと思う。

主語を大きくすることがグループ間の対立を激化させる

ハイディ・グラントの「人に頼む技術」に拠れば、人は無意識で少しの差異で身内とそれ以外に他者を分類し、身内に甘く身内以外には冷たく接する性質があるらしい。
身内(仲間)には優しいヤンキーとか居るよね。同じ理屈なんだ。

ユーゴスラビア内戦でも民族的に大きな違いはなかったのに、トラブルが発生すると宗教って小さな差がマリアナ海溝より深い対立軸になってお互いに憎み合うような泥沼の戦争になってしまった。

SNS でも見られるような意見の違う相手に、赤とか〇〇戦士とかチー牛とか非モテとか女さんとか… まぁよく思いつくなって蔑称のラベルを付けて身内と敵グループとで正しいかみたいな 0 か 100 かオール・オア・ナッシングな口論に発展しているのを見かける。

多くの場合は状況や前提に依るから、両者が歩み寄って60なのか80なのか落とし所を探る以外難しいものが多いと思うのだけれど。
政治とかってそもそもそうだよね。
って思うのだけれど、自分と近い意見の人が自分の観測範囲に多い状況だから自分たちグループの意見が正しい。みんなで敵グループを倒さねばって心理が働きがちなんじゃないかな。

グルーピングが対立を激化させる

そういう意味で口論してる人たちは特定の人ってより敵と認定したグループを打ち負かそうとしているように感じる。
集団心理に近い話で、特定の個人でなくなると気が大きくなるとか、周りのみんな (同じ意見の人たち) もやってるからと罪悪感も薄くなる。
って考えるとグループ間の抗争が激化して、お互い引くに引けなくなる泥沼の戦場が発生するのも必然な気がしてくる。

常識ってなんだろう?

ここでもう一度アインシュタインの言葉を思い出そう

常識とは 18 歳までに身につけた偏見のコレクション

アルベルト・アインシュタイン

人は自分が経験してきたことや認知できる範囲での出来事や自分が体験してる社会のルールから自分にとっての常識や普通を創り出しているのではないだろうか?

例えば、バブル時代を過ごした世代と就職氷河期世代と斜陽な日本しか知らない世代とでは、社会人とはみたいな常識も異なってると思う。

インターネットやスマートフォンが当たり前の社会での常識と、携帯電話が普及する前の常識だって当然ぜんぜん違うだろう。
携帯電話が無い時代の人達はどうやって待ち合わせしてたんだろう?ってスマートフォンがあるのが常識の人には想像もし難いんじゃないかな?

すべての人に生まれながら人権があるなんて概念も今の日本では当たり前に受け入れられてるけど、江戸時代の人にとってはおそらく常識ではないし、内戦中のシリアやタリバン政権下のアフガン、北朝鮮で暮らす人にとっては今でも常識ではない概念かもしれない。

流行りの LGBT だって、現代でこそ同性愛は普通だけど、ほんの少し前。キリスト教が強かった時代では同性愛は罪だとされてた。
第二次大戦中にドイツのエニグマを解読した英国のアラン・チューリングは同性愛の罪で逮捕され療養所に隔離されて生涯を閉じた。
なんだったらロシアやチェチェン、いくつかのイスラムの国では今でも同性愛は違法だ。
日本も文明開化で西洋の考えをインストールしてからタブー扱いになってた。平安時代にBL小説源氏物語が書かれたり、戦国時代なんかは信長と蘭丸みたく男色(ゲイ)は崇高なものだとされてたにも関わらず。
欧州だって、キリスト教が広まる以前の古代ギリシャやスパルタでは同性愛は普通だった。

異文化な人が隣り合わせな新大陸や欧州では考え方が異なる人が居るのが常識としてローコンテクストなコミュニケーションが基本になってるってのも、彼らの文化圏で生きる人にとってローコンテクストなコミュニケーションが普通って感覚。とかも同じような理論で説明できそう。

小難しい話をしなくても、ほんの80年くらい前は服は布を買ってきて作るのが常識だったし、ほんの100年くらい前では男の髪型は ちょんまげ がイケてる身分のステータスってのが常識だったよね。

下着の概念が広まったのだっておそらく昭和〜戦後にかけてなんだ。
そう考えると、ほんの数十年前の日本人は下着の概念がないから下着がエロいとか思わないから下着泥棒とかも居なかったんんじゃないかな?
代わりに畑にまく肥(人糞)が売買されるのが常識で、肥泥棒なんてのが存在する社会だったんだ。 

それくらい常識なんてものはコロコロ変わってるし、今僕たちが感じてる常識なんてものはほんの数十年の社会の中で獲得されたものでしか無いと思えてくる。
だから、社会の変化が早くなればなるほど、常識ってものの変化も早くなるからほんの10年、20年くらいの差でも常識とか普通って思える感覚が異なってくるんだと思う。

多様性社会の中で

これは僕の考えだけど、
多様性のある社会ってのは自分の常識はこうだけど、そうじゃない別の常識をもった人や文化もあるよね。って事を認知して認めてお互いに譲歩できる社会だと考えてる。

だから、常識外れだと思うような意見や行動を見た時に、カッとして常識的に〜とか普通は〜みたいな脊髄反射的な反論をするんじゃなくて、僕はこれが普通だと考えてたけど相手はそうじゃなかったのかな?って一呼吸して考えるだけで随分世界もインターネットも平和になるんじゃないかと思ってる

まぁ感情に訴えかける強い言葉や属性に対する攻撃やレッテル貼りのような言動のほうが注目を集めやすく、人の心を揺さぶるのはプロパガンダや広告の歴史の中で確立された確かな手法なんだけど…
それはインプレッションを稼ぎたいとか、承認欲求を得たいとか、そこから設けに繋げたいって相手の思う壺なんだ。
いちいち心を動かされてたら無限に SNS に時間泥棒されてしまうだけだしね

COTEN RADIO で知ったのだけれど、ゲッペルスのプロパガンダの研究の中でも「知識人ではない層に対して感情が揺さぶられるように訴える」のが最も効果的って言ってたらしい。

これ知ってると、強い言葉に心が揺さぶられそうになった時に
「あっ。ここで揺さぶられたら僕は知識人じゃないな。」って立ち止まれるようになるかもしれない。

まとめ

  • 常識は自分が体験・観測した範囲から作られている。自分だけの常識

  • 自分にとっての常識と異なる常識を持った人や文化があることを知ろう

  • 常識は〜とか普通は〜とか言いたくなったら、一度立ち止まって俯瞰してみるのが良い

  • 常識は〜とか普通は〜とかって意見は、自分はこう思ってるの言い換えでしか無い

  • 常識は〜とかで言い争ってるグループの対立に首を突っ込むのは心の平穏の敵でその戦いは虚無な時間泥棒

思ったことを日記的に書こうと思ってたけど、結構ガッツリ書いてしまった。もっと気楽に書いていきたいね。

ユーゴスラビアを背景にしたお話は氷菓の米澤穂信の「さよなら妖精」がとても好きだ。紛争が背景にある哀しい話でもあるけれど

哲学的意味はありますか?

マーヤ さよなら妖精-米澤穂信

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