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第1話 神武天皇の生誕地の巻


【いっしょに〝記紀〟を旅しよう!】神武東征 第1話は神武天皇じんむてんのうの生誕地です(日本書紀・古事記  共に神話から始まるのですが、神話については適当なタイミングで書こうと思います)。 

 神武天皇の生誕地は日向国ひむかのくにで、現在の宮崎県高原町たかはるちょうに伝承が残ります(宮崎県高千穂町にも伝承有)。神武天皇は幼少の頃 狭野尊さののみことと呼ばれていました(日本書紀)。生まれ育った地名を幼名とする風習がありこの地が伝承地となったのでしょう。

 2年前に訪れたのですが、生誕の地といわれる狭野神社さのじんじゃ末社まっしゃ 皇子原神社おうじばるじんじゃ皇子原公園おうじばるこうえんの中にあり古墳の上に建っています。以前は公園のメイン施設が「神武の館」で、展示もあったそうなのですが今は木育遊具施設やカフェにかわっていて神社のすぐ横をゴーカートが走っています。しかも千木ちぎは折れ、賽銭箱も壊れていてました😢

今はどうなっているのでしょうか。。。
皇子原公園

皇子原神社

 

 一方、神武天皇を祭る狭野神社さのじんじゃは参道の玉砂利がきれいに掃き清められていて清々すがすがしく参拝することができました。

 狭野神社

玉砂利たまじゃりの「砂利」は細かい石を意味する「さざれ」がなまったものと言われ、「玉」は魂や御霊みたまの「タマ」に通じ、「立派な」とか「きれいな」を意味する美称。


狭野神社
狭野神社ご朱印


 高原町たかはるちょう都城市みやこのじょうしの境にある御池みいけには、神武天皇が幼少の頃、皇子港の水辺で遊んだという話しが伝わります。あいにく雲がかかって山頂は見ることができませんでしたが、天孫降臨てんそんこうりん伝説の高千穂峰たかちほのみねが湖面に映る美しいところです。

御池みいけ


 「狭野尊さののみことは年少の時の御名である」と日本書紀にほんしょきしるすだけで、〝記紀きき〟には神武天皇の具体的な生誕地の記載はありません。ただ、幼少期を狭野(現在の高原町たかはるちょう)で過ごした後、15歳で宮崎市の宮崎神宮みやざきじんぐう摂社せっしゃ 皇宮神社こうぐうじんじゃのある小高い丘の地に宮居されたと社伝や神皇正統記じんのうしょうとうきなどの書物に伝わるそうです。


    話しはかわりますが、宮崎県には古墳がたくさんあります(都道府県別では9番目)。中でも西都原古墳さいとばるこふんは有名ですね。しかし古墳時代初期で言えば西都原より宮崎市内にある生目古墳群いきめこふんぐんのほうが大きな前方後円墳が造られました。生目1号墳いきめいちごうふんは奈良の箸墓古墳はしはかこふんの1/2の相似形だと言われていますし、生目14号墳が西殿塚古墳にしとのづかこふんの類型、生目3号墳は行燈山古墳あんどんやまこふん(崇神天皇陵治定)の類型と。

 古墳時代前期において九州地方最大、しかも奈良大和政権と同じカタチをした古墳を築いた権力者がここに居たわけですね。神武天皇が生まれ育ち、天下のまつりごとを行うために旅立った(神武東征)と〝記紀きき〟の描く大和政権の古地こち(ルーツ)にです。

神武東征じんむとうせいは〝記紀〟編纂者の創作だという説がありますがはたしてそうでしょうか?  生目古墳の存在は、遠く離れた大和やまとと日向に深い関わりがあったことを示す一例だと思うのですが、皆さんはどう考えますか?

 

 宮崎の旅は妻と一緒に行きました。妻は歴史にはあまり興味が無いので神社や古墳ばかり訪れているわけにはいきませんので、途中いろいろ立ち寄りました。

 狭野神社さのじんじゃの近くにはトトロもいましたよ😁

高原町のトトロ


そして宮崎市内で昼食を食べたのは、、ここ発祥の店なんですね。

チキン南蛮の由来
おぐら本店
おぐらのチキン南蛮



 古事記こじき 、日本書紀にほんしょきをあわせて〝記紀きき〟と呼びます。そのゆかりの地を旅していっしょに日本の国の成り立ちを見て考えていこうという企画です。こんな感じでやっていこうと思います。何かご意見ありましたら教えて下さい。よろしくお願いします🙇

次回は引き続き宮崎の神武天皇ゆかりの地です。お楽しみに〜!

 



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