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「100年後に残したい」モノ

礒川 将兵

今、この体験記を読まれている皆さんは、研究所や喜界島に何かしらの興味を抱かれている人ではないかと思います。サンゴ礁研究所、喜界島と聞いて、皆さんは何を連想しますか?一面のサトウキビ畑?満天の星空?喜界島特有のサンゴ礁段丘?オオゴマダラやアカショウビンといったユニークな動物?エメラルドグリーンの海と多種多様なサンゴ礁?それとも最近発見されたアオサンゴの群生でしょうか?この中には、私が喜界島に3週間滞在して見ることができなかったものも、見ることができたものもあります。そして、見ることができたもの全てが今住んでいる東京にはないもので、私の中の貴重な思い出となりました。ですが、この体験記にはターイモのことを書こうと思います。なぜなら、浦原(うらばる)集落で見た美しいターイモ(田芋)水田の景色が、私の島での滞在の中で最も印象に残ったものだからです。

 島での滞在も折り返しを過ぎた頃、中央公民館で研究所主催の公民館講座に出席する機会がありました。講師は薩摩硫黄島に住む玩具花火研究所の大岩根尚さん。「地球に遊んでもらう」というテーマのもと、自然の中で遊ぶことや、私たちの生活と地球環境との関わりについてお話しいただきました。ターイモの話が持ち出されたのは、講座の一環で行われたグループディスカッションの発表時でした。「喜界島で地産地消をどのように実践できるか?」という大岩根さんの問い掛けに、「ターイモ!」と元気よく答えたお年寄りの男性が私の隣のグループにいました。昔島民はよく食べていて、葉・茎も食べることができる、男性はそう説明していました。島民の伝統に根付いた食材で、採った全てのパーツを余すことなく利用ができるターイモに私は興味を持ちました。

 早速研究所のスタッフにお願いして、翌日夕方案内していただいたのが浦原のターイモ畑でした。目の前の水田にびっしりと並んだターイモの苗 – 茎を高く伸ばし、大きく広げた葉の上では、昼間降った雨が水玉となってキラキラと輝いています。その青々として瑞々しい姿は、それまで毎日のように見ていたサトウキビと対照的をなしとても印象的でした。集落を奥に湧水源から引いた貯水池があり、そこから冷たく綺麗な水が各々の田圃に分配されていきます。また、集落が一望できる山手の高台には保食神社、水神社があり、御神前には今は使われず雑草だらけになった土俵があります。昔は、「村遊び」と称して、子供たちによる相撲試合が御祭神に捧げられていたとのことです。自然から恵まれた水を利用し食物を栽培し、神事を通して食物神、水神に感謝する – 当時の人たちにとって田イモ栽培、水がとても大切だったことがうかがえます。

浦原は島最大のターイモ産地です。この作物の生育には水利の良さが絶対条件であり、栽培域は島北東部の伊実久に始まり百之台段丘を沿って南西部の上嘉鉄に渡り分布しています。半世紀前には嘉鈍、志戸桶でも栽培されていたとのことで、島での消費を主目的として栽培されていたようです。採った芋はウムムッチー、ウムデンガクといった島の郷土料理の食材となり、フワリと呼ばれる葉茎部は調理して食べることも苗として再利用することもできる優れた作物です。今回の滞在では、ウムムッチーやウムデンガクを食べる機会はありませんでしたが、幸いにも浦原でターイモ農家の方からフワリの一部を譲り受けることができ、湯掻いて酢味噌和えとしていただきました。簡素で朴訥とした味ですが、繊維が豊富で歯ごたえがあります。島で消費するための食糧を島民自らが栽培し、収穫物を余すことなく消費する – 世界中でSDGsが叫ばれはじめた現代から遡って50年前もの話ですが、かつての喜界島のターイモ栽培にSDGsのモデルケースを見出すことはできないものでしょうか?

そんな島の食文化を支えてきたターイモですが、水利の悪さ、サトウキビを中心とする農政への転向、生産者の高齢化、大手小売業の進出に伴う食文化の変遷などにより、年々栽培面積は減少し、現在は半分以下となってしまったそうです。「雑草を手作業で除去するのにとてつもない時間と労力がかかる。異常な自然現象や除草剤で苗が枯れてしまうこともある。」 — そう教えてくれた最前のターイモ農家の方は、還暦を過ぎていることが伺えました。また、収穫されて店頭に並ぶものはいずれも高価で、島民にとっては容易に手を出せない代物となってしまったといいます。将来、この喜界島で島民がターイモを栽培することをやめ、ターイモを食べることをやめてしまう日が来てしまうのでしょうか?

 喜界島サンゴ礁化学研究所は、「100年後に残す」という理念のもと、2014年にこの島に設立されました。100年後に残したいサンゴ図鑑、人類が排出した二酸化炭素量のデータ、国立公園 – 研究所に携わる(もしくは携わった)様々な人の「残したい」想いが、プロジェクトやイベントとして形になっています。また、次世代の科学者、教育者を育成することを目標として、子供達に「感じる」「見つける」「伝える」「残す」ことの大切さを教えています。私は島での3週間で、一面のターイモ水田が造り出す浦原の景色の美しさに「感」動しました。島の郷土料理の材料となり、葉・茎・芋全てを利用できる持続可能な作物としての可能性を「見つけ」ました。そして今、私は研究所のデスクに座って、この体験記の原稿を書きながら、「どうすれば田イモの素晴らしさを世界へ発信することができるだろう?」と、頭を悩ませています。なぜかというと、この素敵な作物のことを一人でも多くの人に「伝える」ことが、喜界島での田イモ栽培を「100年後に残す」ために今の私ができる精一杯のことだからです。
 
 読者の皆さん。皆さんにとっての「100年後に残したい」モノは何でしょうか?浦原の美しいターイモ水田を見るため、そして皆さん自身の「100年後に残したい」モノを見つけるため、喜界島・研究所を訪れてみませんか?

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