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温泉と芸術 | 髙瀬きぼりお展

文:石井潤一郎
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ある時、日本語の学習者からこう訊かれた。

——「温泉」と「銭湯」はどう違いますか?

日本語を教える仕事をしていて楽しいのはこういった時である。目の前の「日常」に亀裂が走り、見知らぬ「謎」が姿を見せる。ああ一体、わたしはどれだけのことを知ったつもりになって生きているのだろう。わたしの頭の中に桶を打つような音が響いた。

言語体系というのは一つの宇宙(ユニバース)である。ひとつの言語を使用することによって、わたしたちは意識空間の中に(その言語で語りうる)宇宙の隅々までを描いてしまうことができる。

『サピア=ウォーフの仮説』で有名なアメリカの言語学者、ベンジャミン・ウォーフ(Benjamin Whorf)によれば、アメリカン・インディアンのホーピ族が使う言語には、「時間」という単語が存在しないのだという。

彼らの言語には「過去」「現在」「未来」「持続」や「継続」といった、時間に対する働きかけを示す語彙も文法も、構文も表現も存在しない。では彼らの世界が崩壊しているかというとそんなことはない。ホーピの人々は実際に、他の言語と同じように、宇宙の観察可能な現象を実用的に正しく隅々まで記述することができるのである。つまり「時間」という概念を一切使用することなく、彼らは彼らのやり方で、想像力で知覚を拡張させながら——つまり他の言語と同じように「矛盾」と理性的な折り合いをつけながら——「破綻のない宇宙」を眺めるているというわけである。

他言語を学ぶということは、他の「宇宙観」を識るということかもしれない。日本語の学習者は、日本語の奇妙な言い回しや認識方法に首を傾げながらも、日本のユニバースをその認識の中に取り込んでいる。「おかげさま」が一体誰なのか、という疑問を抱きながらも、「おかげさま」のおかげで仕事がうまく行く、日本語の宇宙を生きている。

さて「温泉」と「銭湯」の問題である。

温泉とは旅館の大浴場で、銭湯は町の風呂屋だろうか?そんなことはない、箱根や別府では、町の「銭湯」が「温泉」の水である。

——水、そこにヒントがあるかも知れない。「銭湯」とは文字通り銭で湯を売る商売で、つまりそこで水質は問われない。対して「温泉」とは水質である。なるほど、「森の中で人知れず、こんこんと湧く温泉」というのはあっても、「森の中で人知れず、こんこんと湧く銭湯」というのは存在しない。温泉の水を引いてきて売ろうと、水道水を温めて売ろうと「湯」を売ればそれは立派な「銭湯」である。

髙瀬きぼりおの作品を観るときに、わたしは「森の中で人知れず、こんこんと湧く温泉」のことを考える。髙瀬の創作は、決して販売を目的として制作されているものではない。成り行き上、売れることはあっても、それは「こんこんと沸いている髙瀬」をギャラリーが展覧会に引いて来たという話である。

このことは、髙瀬の創作が「営利を目的としていない」ということは意味しない。「営利を目的としていなくとも作品を作る」ということである。そんなことは当たり前だ、と思われる方も多いかもしれないが、美術作家にとって、これはなかなか大変なことである。

髙瀬のステイトメントにはこう記してある。

たとえばセルリアンブルーをキャンバスに塗り、それを「青」と呼んでみる。(・・・)これはいったい何か。ぼくが呼ぶとおり、これは「青」なのか。それとも「絵」なのか。「青」ならば「絵」なのか。(・・・)店で売ってるありふれた工業製品を、メーカーの想定した通りに組み合わせて、ギャラリーと呼ばれる室内の白い垂直の壁にそれを置いた時、ひとはそれを美術作品とみなすことになる。だけどよく考えると、作品に隣接する白い壁もまた、誰かが塗ったものなのだ。ぼくの「青」との違いは、移動可能かどうか、という所にしかない。「青」は白でもよかったのだから。

髙瀬きぼりお ポートフォリオ

髙瀬の作品とはこの「問い」をギャラリーに運び込むところにある。壁にかけられているのは「青」でも「絵」でもない、他ならぬ髙瀬の「問い」なのである。絵画、あるいは美術とは、リビングルームにかけられて、温かさの心地よさで一日の疲れを癒してくれるかもしれない一方、地熱や地質や鉱脈やその他のさまざまな具合によって、絶妙に溶解したミネラルが含まれる、精神に作用する温泉水であるかもしれない。

誤解を恐れずに書いておくならば、ギャラリーで販売されている美術作品が、すべて温泉水であるとは限らない。そして、温泉水がすべての「症状」に「よい」効果をもたらすとも限らない。

美術館展示品の起源が、異文化征服の証として、彼らの「神」を祭壇から引き摺り下ろし、戦利品として展示台の上に並べるという行為であったとしたら、つまり美術館の展示品が、異文化の神から聖性を剥奪し、純粋な視覚の餌食にしてしまう「偶像破壊」的な行為であったとするならば、マルセル・デュシャンによって行われたことは、聖性など纏わぬ日常的にありふれたものを、美術館という神殿の、展示台という祭壇の上に掲げることによって、聖性を獲得させる「偶像崇拝」的な行為であったと言えるかもしれない。

髙瀬は問う。美術作家によってキャンバスに塗られた「色」が、他の誰かによって色を塗られた壁にかけられる意味とはなにか。それはまるで、水道水を張ったスイミングプールのど真ん中に、山奥から汲んできた温泉水を、桶に入れて浮かべておくような、深遠な美術的行為なのではないだろうか。

Kiborio Takase exhibition

2022.02.11-03.13 Fri / Sat / Sun
Open 12:00 - 17:00 at KIKA gallery


石井潤一郎(いしい・じゅんいちろう)
https://junichiroishii.com/
1975年生まれ。美術作家。2004年よりアジアから中東、ヨーロッパの「アートの周縁 / インターローカルな場」を巡りながら20カ国以上で作品を制作・発表。2020年よりICA 京都(Institute of Contemporary Arts Kyoto)で、レジデンシーズ・コーディネーター としてAIRのネットワーク作りを行う一方、KIKA galleryのプログラム・マネージャーと してアーティストの展覧会作りにも関わっている。京都精華大学非常勤講師。

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