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これからの「ふるさと」との付き合い方

最近、悩みはじめたことがある。正確に言うと、昔からちょっと悩んでいたけれど、「そろそろ本格的に悩んだほうがいいのかもしれない」と思いはじめたことがある。

それは、将来、ふるさと富山とどう付き合っていけばいいか、ということだ。

■「縮小」する祖父母の家

先週末、富山に帰省し、父方の祖父母の家に泊まった。庭の畑、玄関口の石畳、線香の香りが漂う仏壇、涼しさと懐かしさが染み込む畳……。「ああ、いいなあ」とため息をつく。

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幼い頃は社宅暮らしで現在の実家は市街地のマンション、東京では賃貸や社宅暮らし。大人になるにつれて、祖父母の家の良さがわかるようになった。海と山に囲まれた田舎にある一軒家は、素朴でありながらも豊かな暮らしの象徴として、いつしかわたしの憧れとなり、誇りとなっていた。

しかし近年、足を運ぶたびに寂しさと一抹の不安を感じている。

数年前に祖父が他界してから、少しずつ祖父母の家が「縮小」しているからだ。

わたしのふるさとが、縮小している。

■老いていく祖母と父の、苦渋の決断

祖父母の家は富山県の港町にある。富山市内のわたしの実家からは、車で約1時間。山奥ではないが田舎の土地で、買い物に行くにも病院に行くにも車が必須だ。祖父が亡くなってからは、父が毎週祖母のもとに通って生活面をサポートしている。週末に一週間分の買い物と趣味の畑仕事、家の管理や諸手続きを手伝うのが常だ。

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祖母は85歳を超えても元気で足腰が強い。孫のわたしよりも歩く速度が早く、一緒に歩いているとスタスタと先にいってしまう。趣味は掃除と畑仕事。働いていないと落ち着かないらしい(見習わなければならない)。

しかしそんな祖母も、やはり少しずつ老いてきているらしい。特に祖父の死後一人暮らしになってからは、体力や気力、記憶力の低下を自覚するようになった。

一方で、手伝う父も還暦を過ぎて数年たつ。定年後の再雇用先で月から金までフルタイムで働き、土日は朝から運転して畑仕事と生活の諸々の手伝い。相当の体力が必要だ。帰省時には、祖母の家から帰ってきた後ぐったりと疲れて眠っている父をよく目にするようになった。

家は生き物だ。一軒家の維持管理は楽ではない。庭も畑も家も、人がこまめに手入れをしなければ荒れていく。そして手入れには時間と手間と体力と、お金がかかる。

そこで祖父母の家では、管理するものを少しずつ減らしはじめた。

これから自分たちがますます老いていったら。
いつか祖母がいなくなったら。

将来を見据えての、苦渋の決断だ。

畑で育てる野菜や果物を減らし、面積を縮小した。庭にあった木を切った。祖母も父も心苦しい思いだが、仕方がないと自分に言い聞かせている。

■残したいけれど、住むことはできない家

父と母は、今のところ祖父母の家に住む予定はない。生活の利便性や病院へのアクセスなどをふまえると、現在住んでいる場所がベストだと考えている。祖母がいなくなった後も、ときどき通って管理を続ける予定だ。庭の畑仕事を老後の趣味にしようと考えているらしい。

妥当な判断だと思う。

歩いていける範囲にコンビニやスーパー、駅がないこと。

地域の医療の中心を担う病院で祖父が亡くなったとき(休日だった)対応できる先生が一人もいなかったこと。1時間以上待ってようやく「ご臨終です」と言われたこと。

思い出すと、住むのはちょっとなあ…と考えてしまう。


だからといって、売るのも嫌だ(もっとも、売れるかどうかはわからないが。)。放置して荒れてしまうのも嫌だ。亡き祖父のこだわりに溢れた愛着のある家だし、残したい風景がたくさんある。

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わたしですらそう感じるのだから、父にとってはもっと大切にちがいない。だから通う決断をした。

でももし、父や母が病気になったら。体が不自由になったら。亡くなったら。どうすればいいのだろう。

たとえ健康だとしても、ある程度の年齢になったら車の運転は危険だ。一般論にのっとれば、自粛したほうがいい。娘としても心配だ。1時間も運転して通うなんて、あと何年続けられるのだろう。

ふとした瞬間に、不安になってくる。

■「当事者として考える」ということ

わたしは長女で、妹が一人いる。二人とも大学進学を機に上京し、二人とも関東で就職した。

父方にいとこはいない。父の兄弟、つまり叔父にあたる人はいるが、叔父には叔父の家があるし、父が運転できないほどに老いた頃には、彼だって同じくらい老いている。

なんらかの理由で両親が家を管理できなくなったり住めなくなったりしたら、管理なり処分なりするのは必然的にわたしたち姉妹になるだろう。

わたしも妹も、祖父母の家が好きだ。実家が好きだ。心のふるさとであり、帰る場所であり、失いたくはないと思っている。守りたいと思っている。

でもわたしたちは、都会で暮らすことを選んだ。

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年に2・3回だけ帰って、たいした手伝いもせず、宿のように家を自由に使う。数日間だけ、客のように居座る。

「たまに来る分にはいいところだなあ。でも暮らすのはちょっとなあ」

なんてことを言って、去っていく。

これを繰り返してきた。

地方創生が叫ばれはじめてから何年も経った現在も、東京一極集中の傾向は高まり続けている。

ニュースを見ると歯がゆい気持ちになるし、地方の廃れた商店街を見るとさびしい気持ちになる。空き家問題の特集を見て、「なんとかならんもんかねえ」と思う。地方活性化のために精力的に活動している人を見ると「すごいなあ。がんばってほしいなあ」と思う。

そんな自分の態度には、共通するものがある。

全部全部、他人事だった。
都会に出ていった張本人だけど、他人事だと思っていたのだ。

祖父母の家が、ふるさとが縮小するのを見て、わたしは「悲しいね」「寂しいね」と言った。「え、これもなくしちゃうの?」と言った。

「じゃあ、だれが管理するの?」父に言われた。

嘆くことならいくらでもできる。

でも家を守り続けること、ふるさとを守り続けることは、生半可な気持ちでは、できはしないのだ。

わたしもちゃんと当事者として考えなければならない。

最近ようやく、そう思うようになった。

■前向きに考えはじめた、「ふるさと」との付き合い方

先週末の帰省で、やっぱり富山はいいところだと思った。祖父母の家は最高だと思った。庭の写真をたくさん撮った。畑の野菜とくだものを観察した。

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父の旧家があった山奥の土地(実は父が高校に上がるまでは、もっと田舎の山奥に住んでいた。「街」に下りてきたのだ。)に行って、樹齢100年以上の木の幹を撫でた。若い頃の祖父母も子どもの頃の父も、戦中戦後の貧しい暮らしも。みんな見てきた、大きな欅だ。

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(この巨木も、管理コストその他諸々の問題があり、今年の冬まえに伐採することになっている。)

ふるさとの風景は、少しずつ縮小している。
でもやっぱり、美しい。失いたくはない。

そう思った。

だから東京に戻ってきてからは、考えている。

たとえば将来、わたしが二拠点生活をするとか。夫が単身赴任のあいだは富山に住むとか。料理も人をもてなすことも苦手だから難しいかもしれないけれど、どうにか人の手を借りて、民泊やゲストハウス、古民家カフェにするとか。

なにか良い方法がないかと、考えている。夫とも話し合いはじめた。

同年代の友人にも同じような悩みを持つ子がいるのだけど、その子がこう言っていた。

「(実際に動くのが)来年でも10年後でも、考えているのといないのでは大きくちがう気がする」

と。

そうだ、ちゃんと考えよう。

ふるさとをどう残すか。どう生かすか。どう関わっていくか。
どこで、どう生きていくか。

これからも人生の課題のひとつとして、前向きに考えていきたいと思う。いろんな事例を勉強して、可能性を探るところからはじめてみたい。


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