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葱のにゅうめん #夜更けのおつまみ

雨の中を歩いていた。アスファルトに落ちて地面を流れていく雫も鳴り止まぬポツポツという音も、その日はいつもと色がちがった。満員電車に揺られているときですら嬉しかったのだ。恋か愛か知らないが、盲目である。

遠くに看板が見える。暗い雨の道を照らすように、白く淡く光っていた。


「仕事が終わったよ。飲みに行く?」

夜の8時過ぎ、夫からメールが届いた。突然の誘いだった。

家で仕事をしており、平日は昼も夜もひとり。いつも適当にご飯を用意して食べているわたしにとっては、金曜日に夫と夕飯を、それも外で食べるなんて大事件だ。ましてや誕生日でも記念日でもない「普通」の日に。

金曜夜に街へ繰り出すことも、外で男性と待ち合わせることも。

遠い記憶の彼方にある懐かしい光景だった。


待ち合わせ場所は、魚料理の和食居酒屋。数年前まで夫が近くに住んでいて、常連だった店だ。二人で初めて飲みに行った店でもある。

ガラス戸の隙間から店内を覗くと、カウンター席で談笑する夫と店主が見えた。気持ちを整えてから暖簾をくぐり、ガラガラと扉を開けた。

スーツ姿の夫の隣に座る。出会った頃にタイムスリップしたかのような心地になり、少しだけドキドキした。

どうして外で飲もうと思ったの?と尋ねると、金曜だからね、と返ってきた。そんな金曜日もあるらしい。詳しくはきかなかった。

わたしは腹ごしらえをしてきたから、先に飲み始めていた夫のつまみをほんの少し分けてもらった。秋刀魚の刺身に、鯵の南蛮漬け。いわずもがなビールによく合う。

魚を堪能してからメニューを眺めていたら、夫が一言、

「にゅうめん、おいしいよ」

と言った。

にゅうめん。角も棘もない丸い響きに癒されると同時に、腹を満たしたはずのわたしに食欲が湧き起こってくる。

雨で冷えた体に、葱がたっぷり乗ったあつあつのにゅうめん。ぴったりじゃないですか。「葱の煮麺」というメニューの漢字表記にも風情があって惹かれてしまう。元常連の言葉と自らの腹の余力を信じ、さっそく頼むことに決めた。 

運ばれてきたにゅうめんからは、想像以上に香ばしいかおりと湯気が漂っていた。焦げた葱の苦味と甘みに、繊細な麺。細くて柔らかいから、するすると胃の中に入っていく。風味豊かでありながらもさっぱりとした出汁に、ごま油がほどよく効いていた。

五臓六腑まで沁み渡る、とはまさにこのこと。にゅうめんの熱は全身を巡り、心の端っこまでじんわりと温めてくれた。半分くらい食べて、残りは夫が食べた。「おいしいね」と言い合った。

お酒の力でぽーっと体が火照ってきた頃、わたしはにゅうめんをすする夫の隣でぼんやりと考えていた。

そういえば、あの日初めて、この人と食べ物を分け合ったんだな、と。

食事が主目的のランチやレストランのディナーと比べ、お酒と一緒に楽しむおつまみは同じメニューを人と共有することが多い。

一人一皿ではなく二人で一皿。あるいは二人で二、三皿。同じタイミングで同じものを食べ、感想を言い合う。次は何にする?とメニューを見ながら考える。ときには主張し、ときには譲る。ときには一緒に贅沢をする。

うちは夫が酒飲みだから、家でも外でもご飯というより飲みのメニューになりがちだ。あまり意識したことはなかったが、わたしたちはいつも自然とおつまみを一緒に選び、分け合いながら暮らしてきた。

思い返せば、あまりのおいしさに言葉を失い、目を見開いて訴え合うこともあった。逆に想像とちがう味で、無言で顔を見合わせることもあった。最後の一つをどちらが食べるか争うこともあった。しめ鯖を一緒につつきながら、別れ話をした夜もあった。

先に食べた相手の反応で期待値が高まったり、下がったり。雰囲気や会話の内容によっておいしくなったり、味がしなくなったり。飲みを何度も重ねるうちに、互いの好きな味がわかったり。

同じものが体の一部となる一体感を得られることもあるが、だからこそ余計にちがいが浮き彫りになることもある。

おつまみが関係に変化をもたらし、関係によっておつまみの味わいが変化し、そのなかで相手と自分のことがちょっとずつ見えてきたのだと思う。


こんなことをとりとめもなく考えていたら、「そろそろ出ようか」と声がした。会計の札を見ると、お酒代が割り引かれている。料理場の店主が「結婚祝い」と言って微笑んだ。

一緒に生きることは、一緒に食べることなのだと知った。



【2019/12/16 追記】

お読みいただきありがとうございました!こちらの作品で、キリンビール×ポプラ社「#夜更けのおつまみ」投稿コンテストの大賞を受賞しました。これからも食べ物と文章をたのしみながら生きていきたいと思います。


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