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よい「教材」、よい「問い」

記事のタイトルについての話をする前に
読者のみなさんには、
中学生になったつもりで、
中学校の古典の授業では定番となっている兼好法師の『徒然草』の第11段を読んでいただきます。

神無月のころ
栗栖野といふ所を過ぎて
ある山里にたづね入ることはべりしに
はるかなる苔の細道を踏み分けて
心細く住みなしたる庵あり。
木の葉に埋もるる懸樋のしづくならでは、
つゆおとなふものなし。
閼伽棚に菊・紅葉など折り散らしたる
さすがに住む人のあればなるべし。
かくてもあられけるよと
あはれに見るほどに
かなたの庭に
大きなる柑子の木の
枝もたわわになりたるが
周りをきびしく囲ひたりしこそ
少しことさめて
この( ★ )なからましかばとおぼえしか

【口語訳】
神無月のころに、栗栖野という所を通り過ぎて、とある山里に人を訪ねて分け入ることがあったのですが、遠くまで続いている苔の細道を踏み分けて行くと、もの寂しく住まう庵がありました。木の葉で覆われている懸樋のしづくが落ちる音以外には、まったく音を立てるものがありません。閼伽棚には菊の花や紅葉が折って置いてあるのをみると、やはりここに住む人がいるからなのでしょう。
俗世間を離れ、こんなふうでもやっていくことができるのだなぁと、この庵の住人の生き方に心をジーンとさせていると、向こうの庭に、大きなみかんの木で、枝がしなうほどに実がなっているその木の周りを厳重に囲いで囲ってあったのには、少しがっかりして、この( ★ )がなかったらよかったのにと思いました。

『徒然草』 第11段 神無月のころ

さて、
読者のみなさんへの「問い」です。

古文中の( ★ )に入る言葉は、次のどちらでしょうか?
  A 囲い(囲ひ)    B 木

 (スクロールをやめ、
   ぜひ、シンキングタイム!)


国語科の教科書でも取り上げられることの多い第11段の「神無月のころ」。
もちろん教科書では、上記のように(  )抜きにして掲載されていることは、ありません。
しかし、
指導者が、よい「問い」をつくるために、教科書にあるものをよりよい「教材」に作りなおして子らの前に提示することがあります。
この第11段を深く読み解くためには、上記のような(  )抜きにした教材にして発問をする必要があるのだということです。

さて、
読者のみなさんは、AとBのどちらだと考えましたか?
この授業を実際に行うと、
多くの子らが、
「A」であると答えます。
でも、兼好法師がこの第11段でしるしたものは、
「B」なのです。
子らは「えっ、ちがうの?」「てっきりAだと、思ったのに」と、こちらの予想どおりの戸惑いを見せます。
指導者の「しめしめ」の瞬間です。
指導者が、よい「問い」によって子らを戸惑わせたのです
ここで、一気に子らの「考える必然性」がアップします。

そして、指導者は、この授業で最も重要な次の発問をします。

 ( ★ )に入る言葉は、なぜ「囲い」ではなく、「木」なのでしょうか? 
 説明しなさい。

読者のみなさんは、どう説明しますか?

学校で使用する教科書は、たしかに優れたカリキュラム集であり、優れた学習単元集であり、その学年の指導事項を網羅した教材集です。
しかし、実際に子らの学習の場にのせるときには、最もそれが有効に活用されるような、指導事項がよりよく達成できるようなよい「問い」を生み出し、必要ならば最もふさわしい「教材」「資料」に作り直すことが必要です。
実は、こうした吟味、準備のことを「教材研究」というのだと考えます。

手前みそにはなりますが、
第11段の(  )抜き教材と、先ほどの「問い」は、よい「教材」とよい「発問」のとてもよい事例だと思っています。

さて、
さきほどの「問い」の解答です。
仮に「この囲いがなかったらよかったのに…」とした場合、兼好法師の心の中は、「この囲いがあったおかげで、この庵の住人の生き方に心をジーンとさせた私が、人の物欲のあらわれをこの囲いに見てとってがっかりすることになったではないか…。ふん、囲いなんて、見たくなかったわ。興ざめだわ。」となります。自分の気分を害されたことに不満を抱く兼好法師となりますね。
一方、「この木がなかったらよかったのに…」とした場合、兼好法師の心の中は、「この木があったおかげで、人間社会から距離を置こうとするこの庵の住人ですら、木になるみかんを人に盗られまいとする心をよび起こしてしまっているではないか。この木がなければ、この庵の住人は、もっと心静かにここで暮らしていけただろうに…。」となります。この庵の住人を思い、人が持つ捨てがたい物欲に気づく兼好法師となりますね。
やはり、「木」でないとダメなのです。
兼好法師の人物像にまで迫る発問であると言えます。


教師がめざす「教材研究」は、
いかに子らにうける「おもしろい活動」を用意するかではなく、
いかに学習を深めるよい「教材」とよい「問い」を用意するか
でありたいと思います。
これが、授業づくりの「キモ」の部分です。

いっしょに勉強しましょう。

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