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自分の属性をより良くする?

貴方にはどんな属性があるだろ
優しいだろうか ?
性別は?
割り勘が好きな方だろうか?

私という大きな存在を観察していると
様々な属性を持っていることに気づく

そう感じる

目的と属性

世の中の人もそれに気づき
目的のために属性をどう変化させるか考えていると思うのだ

属性を切り分けることで
属性同士の関係性がわかる
関係性がわかればそれをどう変化させれば良いかわかる気がするのだ
それがいわゆる how toな気がする

そして関係性を見つけ出したり
より細かく見えるかするのが
哲学や、言語化なのではないのだろうか

属性のために
目標を明確にし
目的を上手に喋り
HOW-TOを確立するために四苦八苦するのである

この属性を切り出し
加工するという作業は
リアルな人生に上手く乗った作業に思える

何故なら
属性の加工には
目的があり
やるべきことが定まり
今するべき事を見つけるからだ

まさに人生と言ってもいい
現象に思える

属性と関係性

人間関係は人の話を聞くことが重要だとみんな知っている
頷き方ひ1つとっても
頻度から、顎をカクカクさせる秒数まで導き出されるのだ
(この顎のカクカクは80%ぐらいの人には好印象を与えます)

可笑しな話かもしれないが
顎をどうカクカクさせるかは属性ではない
それは関係性なのである

前に述べたとうり
属性は関係性があるから
変化させるべきものなのである
(多分、正確には属性は変化しない、繋ぎ方が変わるだけだ)

関係性と自分

実態があるのは存在でだけである
そして存在とはここでいう属性である

世界とどう立ち向かうか
そう考える時
僕は関係性によって立ち向かおうとしていると思うのだ
可笑しな話だ

属性は点である
だからこそ、そのままで
いわゆる自信になるである

それなのに私は世界に
点として
(点であるが故に無限に)
立ち向かおうとしないのだ

ただ、それもそのはずである
何故ならいわゆる世界とは関係性である
例えば社会とは
1人1人の人間の集まりに過ぎない
しかし社会を社会とたらしめているものは1人1人の関係性なのである
これは国家もそうだし、会社などコミュニティー全体に言える事だろう

そんな世界とどう立ち向かうかということは
どう関係性を作るかという事になるのだ

社会という概念自体はそれ自体で何の意味も持たない
(良し悪しを持たない)
ただ社会を関係性として捉えたときに
社会は良し悪しや方向性を持つと思うのだ

ここで厄介なのは関係性は一つの概念に纏まらない事だろう
例えば
「カエル」という概念と「石」という概念は別々のものである
しかし「カエル」と「石」は「石に乗ったカエル」という概念いまとまるのだ

木を想像してほしい
その瞬間木には葉は枝や幹があるだろう
だけど「ただあるだけで」しっかりと木という概念を形作っているのである

しかし関係性はそうはいかない
「石にカエルが載っている」この関係性と
「枝に葉がついている」という関係性
これをどう合わせたら良いのだろうか
概念ではなく関係性を合わせたい!

「枝についた葉に石とカエルがのっている」
これは関係性を保持していない

関係性を保持するのは難しいのだ
何故なら関係性を変化させないことは
関係性が繋いでいる概念を変化させず
当然数も変えないことが要求されるからである

石の上にカエル

カエルの上に石
に違いがあるほどに関係性は繊細なものなのである

だが当たり前なことだ
もしこの関係性が大雑把だったら
私は「コーヒーが机の上にあるのか」
「コーヒーに机がぶら下げっているのか」分からないだろう

正しくみるとは

だからこそ世界を"正しく"見るときに
関係性ではなく
点としてそれ自体として捉えようとするのだろう

だから"考える"事に意味を見出さない生き方があるのだる
何しろ考えるとは関係性をコネクリ回す事である
そこには"正しさ"が見つかるのだろうか

それぞれ存在している
それで何の問題もない
しかし
やっぱり関係性を見つけ出したいものだ
正しいとかが問題なのではない
そういうものなのである

タイトルの回収

さて話が少しそれてしまった
今回のタイトルは
「自分の属性をより良くする?」
である
私が特に自分自身に対して思っている疑問について
今回、話したかったのである

つまるところ
「お前が思ってるのは、属性とか要素ではなくただの関係性だろう」
そういう事である

関係性に囚われ過ぎているのではないかという自分への戒めも含めたつもりだった

何故ならば私は
関係性に関係性で立ち向かおうとする癖があるからだ
それでは意味がないのである
関係性のいいところは関係性が結んでいる点を見つけ出すことができる事である

私は点が作り出している関係性にではなく
点それ自体に注目するべきなのではないのかと

最近そう思ったのである

例えば目の前の人と仲良くなりたい
そんなシチュエーションがあったとしよう
そこで私はこう思う

まずは第一印象をよく
笑顔でそれでいてゆったりと話しかけよう
その為に私は顔面の筋肉と
体をなめらかに動かすことに全神経を集中するのだ
これは目的のために関係性を変化させていると言ってもいい

だけどこの関係性どれ一つをとっても私というもの自体ではないのだ
顔面(がどんな表情なのか)は確かに私が好意を持ってそうなだということを象徴しているかもしれない
しかしそれが私なのではない
私のチェストも私の体が生きていることに役立っている
しかしそれ自体は私ではないのだ

世界に立ち向かう時それは
要素ではなく
関係性を包括した
私というぼんやりとした存在となっているのに

私は電車でニンジンを食べる属性があるかもしれない
だけどそれでも"私"という大き概念として生きていることに変わりはないのだ

まとめ

そもそも属性に良し悪しは無いのである
属性は点である
私は自分に方向性をつけたいと思った時に
自らを振り返って「どんな関係性」の中にいるかを見つめ直す必要がある

特に「私」ということを意識する対人関係において
「どう関係性を捉えるか」という事に飲み込まれるのは
"自分"という大きな概念から属性(要素)を取り出すステップが希薄だからなのではないだろうか
どんな工程で導き出したのか分からない
だからどう自分に組み込めば良いのかもよく分からない

関係性が独り歩きしている
いやむしろ
ぼんやりとした感情の拠り所が
関係性になっているのだ

私は感情を点にまで落とし込めるようにしなければ

最近そう思った
ではでは





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