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世に住む日々。

早朝7時。札幌市内の繁華街を歩いているとビジネスホテルがあった。路肩には黒のワンボックスカーがハザードをチカチカしながら停車していて、その脇にはインド方面出身と思われる風貌の男性が立っている。彼と目を合わせながら「話しかけてくれないかな」と考える。もちろん話しかけられることはない。彼の前を素通り。

今日は朝早く起き、車を2時間走らせ富良野に向かった。仕事で訪れたのだ。夫婦が経営する会社は自宅兼事務所のつくりになっており、居間の棚には成人したお子さんの古ぼけた写真と2022年に生まれたお孫さんの写真。次のアポイントがあるのでお尻の時間を気にしながらお話をする。お昼の時間をまたぎ、いよいよここを出ないと次に間に合わない。奥さまが探るように「イトーさん、このあとよければお昼ご飯でもいっしょにどうですか?」とおっしゃる。行きたいのは山々なのだけど、次のアポイントがあるので難しい旨を伝える。次に会うときには必ず食事に行きましょうと返事をすると夫婦は嬉しそうだったから私も嬉しい。

おしっこがしたくなったので高速道路のサービスエリアに立ち寄る。男子トイレに入ると小綺麗な立ち小便器がいくつも並んでいるのでそこに立つ。遅れてとなりにやってきた60すぎのおじさんが勢いよくおしっこをする。おしっこの音がやけにデカいのでさすがに気になり見てみると、便器と股間のスキマでは象のような放水量のアーチが描かれていた。


車を走らせながら横目に景色を見ると、いやに天気がよかった。遠くに夏山。手前に田園。空は見渡す限りどこまでもはてなく広がっていて、触り心地のよさそうな雲がいくつも浮かんでいる。

「雲ってある一定の高さを境目にして、その高さより下に落ちてくることはないな。なぜだろう?」

気象に関する知識がまったくないので、それ以上考えることをやめアクセルを踏み続けた。


うんこをしながらトイレットペーパーをつかむ。トイレットペーパーって2枚の紙が重なったパターンのものが多い気がする。それはなぜだろう。紙に厚みを持たせるのって、もしかすると難しいのかな。

札幌に戻って道を歩いているとサングラスをしているアジアからの観光客がいた。白人がサングラスをするのには合理的な理由がある。瞳の色素が薄いため日光が角膜を傷つけることを防止するためだ。アジア人の瞳の色は黒やブラウンが多いから、合理的に考えるとサングラスをする差し迫った理由がない。ちょっと前までの私なら「アジア人がサングラスをするなんて」とちょっと小馬鹿にしていたが、さすがの晴天、路面に日光、光の反射が目にまぶしい。サングラスがほしいなと思うけど、まだ少しだけ恥ずかしい。


行きつけの喫茶店には顔見知りではあるけれど、深く会話をしたことがない女性店員さんがいる。「アップルジュースをひとつ」と頼んでも「アップルジュースですね、440円でございます」と言ってくれるだけ。「今日は天気がいいですね」とか「休憩ですか?」という一歩進んだ会話が展開されることはない。もしも私が話しかければ、いつもより少しだけ距離が縮まりそうな予感がするけれど、今日も追加で話しかけることはない。



書くことがないなりに日々を観察し、何か愉快な展開が期待できそうな事象はないかと目を配る。インド人が話しかけてくることはない。お客さんとランチに行くこともない。サービスエリアの個室から赤ちゃん象が出てくることもない。雲が頭に落ちてくることもない。サングラスを実際に買って自分の目のビフォーアフターをレポートのように記事化することもない。喫茶店の女性店員が「あの」と言って連絡先を渡してくることもない。


ないないない。なんにもない。
だからここは日陰だろう。


景色の日陰に光をあて、それをこうして書き記すことに特別な意味があるとは思えない。でもこれを読んでくれる人がおそらく「数人はいる」という事実だけが私を支えている。

いつも読んでくださる方、本当にありがとうございます。


<あとがき>
見た物について感じたことがなんらかの深さと立体感をともなって文字になるなんてことは滅多になく、文章として捻り出すことの難しさを感じています。しかしこれを書いて思ったのは、今日書いたことは文章じゃないとダメだということです。画像化してインスタにあげてもつまらないし、動画にすることもできません。それぞれの脳内にイメージの輪郭を描くことができるのは文章だけだと思うわけであります。今日も最後までありがとうございました。

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