庭の桜と、ミッションスクールで学ぶ意義
こんにちは、ぱんだごろごろです。
東京で、桜の開花宣言が出ましたね。
例年より早いのだとか。
庭の桜
我が家の桜は、一昨日から咲き始め、もうすでに満開です。
あっという間に散りそうなので、写真を撮って来ました。
「陽光」という名の、濃いピンク色の、鉢植えの桜です。
ついでに、庭のパンジーも撮ってみました。
これから、ムスカリが花盛りになり、チューリップも丈がぐんぐん伸びてくると、庭もいっそう華やかになります。
春の庭は、楽しみが続きますね。
ミッションスクールで学ぶ意義
今日、美容院から帰ってみると、母校の大学の同窓会から、会報が届いていました。
会報は、年に3回ほど送られてきて、大学で行われた行事や、同窓会の活動について知らせてくれます。
メインの特集のページは、大学の歩みと歴史や、各時代で起こった重大な出来事など、興味深いテーマが取り上げられることが多いので、必ず目を通すようにしています。
今回、その中に、特に注意を引かれた箇所がありましたので、今日はそのことについて、お話ししたいと思います。
私は、浄土宗のお寺の幼稚園、公立の小学校、私立のカトリックの中学、高等学校、プロテスタントの大学、大学院と、小学校以外は、宗教に関わりのある学校で学んで来ました。
特に、中学、高等学校時代に、キリスト教のカトリックの教えに触れ、学んだことは、自分にとって、今も良い影響を及ぼしていると思います。
私自身は、バリバリの仏教信者と言うよりは、浄土宗の檀家の家に生まれたことで、根っ子がお寺とつながっている、ゆるい仏教徒です。
ですが、6年間、多感な時代に、「人間の尊厳」というテーマのもとに、
「高い人格」「広い教養」「強い責任感」という校訓を掲げた、女子校で学べたことは、幸運なことでした。
進学する大学を選ぶ時に、何を学びたいか、ということの他に、私が条件として考えたのは、中学・高校と雰囲気の似た学校であること、でした。
その結果、私は、プロテスタントの女子大を選んだのです。
なぜ、ミッションスクールで、12年間も過ごしたのか。
ここで、ようやく、本題に入ります。
同窓会からの会報の中で、特に注意を引かれた箇所、
それは、二代目の学長のお言葉でした。
この学長の教育理念を表す言葉に、「Something」というものがあります。
この「Something」こそ、私に学校を、「居心地がいい」と思わせたものではないだろうか。
学長が「Something」について、述べていることを、わかりやすく言うと、以下のようになります。
『口に出しては言えないが、感じ取れるもの』
これは、その人の持つ、雰囲気のことでしょう。
「同じ匂いがする」などという言い方をしますが、人の持つ雰囲気は、その人格が醸し出すものです。
ミッションスクールで学ぶ学生たちの持つそれは、
「宗教の持つ理念に触れた生活から、醸成されるもの」
と言ってもいいのではないでしょうか。
学長は、他にも、
「その人が立ち去った後に余韻を残すような奥ゆかしさ」
を、好ましいとされたそうです。
そのような雰囲気を身に付けるのは、容易なことではないように思われます。
ですが、大学における、宗教的生活が、学生たちの人格を鍛え、磨いて、慕わしい人格をかたち作るものと、学長は、信じていたのでしょう。
中学・高校時代から、大学・大学院時代に至るまで、私がずっとミッションスクールで学び続けたのは、そこに
「Something」
があったからではないか。
ミッションスクールで学ぶ意義は、実に、この「Something」を身に付けることにあるのではないか。
そんな風に思っています。
今日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。
あなたのお住まいのところでは、桜が咲き始めましたか?
花粉症でなければ、私もお花見に行きたいのですが・・・😢
サポート頂ければ光栄です!記事を充実させるための活動費, 書籍代や取材のための交通費として使いたいと思います。