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賀来飛霞あれこれ

こんにちは、ぱんだごろごろです。
今日は、暑かったですね。
午後から、横浜・元町にある美容院に行く予定だったので、準備を終えた後、スマートフォンのメールのチェックをしていたら、ぴこんとお知らせが。

「ぶんぶんどーさんが、あなたの記事を紹介しています」

出掛ける前でしたが、すぐにぶんぶんどーさんの記事へと跳びました。


ぶんぶんどーさんの紹介記事


こちらの記事の中で、ぶんぶんどーさんは、私(が前回書いた記事)との出会いを、こんな風に書いて下さっています。

このタイミングで、こんな出会いが訪れるなんて思ってもみなかった。やはり、賀来飛霞とは不思議な縁を感じる。一気に心が晴れて、また生きていけそうな気がしてきた。

上記の記事より引用

落ち込むことがあった時に、大好きな賀来飛霞を知っている人(注:私のことです)と出会い、鬱屈が吹き飛んだ、と。
賀来飛霞への興味、その作品への愛着が、生きる原動力になっているところがさすがです。
ぶんぶんどーさんは、本当に賀来飛霞が描く植物画がお好きなのですね。
賀来飛霞研究は、ぶんぶんどーさんのライフワークなのかもしれません。


私の本草学との出会い


さて、賀来飛霞は本草学者ですが、なぜ私が、本草学と聞いてピンときたのか、どこで本草学という学問を知ることになったのかについて、書こうと思います。

それは、中津文彦著の『天明の密偵』という小説を読んだことによります。


日本民俗学の先駆者として知られ、各地の風俗・民俗などを日記体で詳細に書き記し、200冊以上の書物を残した菅江真澄(1754~1829)。
三河・吉田宿の御師の次男に生まれ、国学者で藩の御用商人でもあった植田義方のもとで勉学に勤しんだ彼は、岡崎へ出て和歌を、名古屋では絵画と本草学を身につけた後、30歳で古里を後にして長い旅に出る
彼は何を求めて、信濃、出羽、陸奥、そして蝦夷地へと旅をしたのか――。彼を蝦夷地へと駆り立てたものは何だったのか――。

「BOOK」データベースより抜粋

学問の習得において優秀だった菅江真澄は、恩師に頼まれ、スパイ活動として、蝦夷地を目指した、というのが、作者の設定です。

この小説は、時代設定が、三浦梅園の生きた時代とも重なるため、興味深く読みました。

そして、旅をするために一番役に立ったのは、彼が身に付けた本草学だった、というところも印象に残っていました。

本草学というものは、今で言う薬学と医学を合わせたようなもので、本草学を修めた者は、薬草に詳しいだけでなく、医療行為の心得もありますから、病人に治療をすることで、礼金をもらい、それを旅費に宛てて、旅を続けることができるわけです。

国学や漢籍の知識があり、和歌にも長けていた彼は、各地の風流を解する裕福な家の主たちに気に入られ、その家に逗留しながら、土地土地の風物を観察しては書き記し、また病人がいれば治療をしながら、旅を続けます。
果たして、彼の旅の結末は・・・?

男子一生の仕事にするに足る何かを求めながら、それが得られず、恋にも破れ、立身出世を夢見ながら、とうとう叶わなかった男の一生を描いた、たいへんにスリリングで面白い小説ですので、お勧めです。


「天明の密偵」


賀来飛霞を検索したら


ふと、賀来飛霞について、改めて検索してみました。

すると、1ページ目に、何と先日書いたばかりのぱんだごろごろの記事が載っているではありませんか。

数日後には、はるか下の方に行ってしまうかもしれないので、記念にスクリーンショットを撮っておきました。

最初のページの上から三番目に、ぱんだごろごろの記事が。


noteがSEOに強いというのは、本当なのかもしれません。

ついでにエゴサーチ


たまに、ぱんだごろごろで検索してみます。
初めの頃は、上がってくるのは、「ごろごろパンダ日記」とか、「パンダがごろごろ」ばかりでしたが、今回、1ページ目の1番目に、自分が出て来ましたので、感動して、スクリーンショットで撮りました。



今日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。
明日も暑い日になりそうです。
水分補給をして下さいね。


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