見出し画像

賀来飛霞を知っていますか?

こんにちは、ぱんだごろごろです。
今年は、江戸時代中期の哲学者、三浦梅園の生誕300年の年です。

三浦梅園の深遠なる哲学思想を理解するよりも、三浦梅園という人がかつて日本にいた、ということを人々に知ってもらうのが、自分の役割であると思い決めた私、ぱんだごろごろは、今年はことある事に、三浦梅園の宣伝をさせて頂いております。

三浦梅園と言えば、「反観合一」です。
「条理学」です。
一一即一いちいちそくいちです。
まずは、この三つを覚えておいてくださいね。
頭の片隅にでけっこうですよ。

反観合一と言えば、私の文通相手の老婦人が、お父様の形見である、反観合一の書を、梅園資料館に寄贈された、と教えてくれました。

この書は、湯川秀樹博士が、三浦梅園の生家にいらした時に、即興で書かれたものだそうです。

湯川秀樹博士と言えば、ノーベル物理学賞受賞の栄誉に輝いた大学者です。
彼は、三浦梅園の思想を尊敬していたのですね。

それを、老婦人の父上が保管し、亡くなる時に、老婦人に託されたのです。
老婦人の父上は、高名な梅園学者で、母上は梅園の末裔でしたから、老婦人も形見である書を大切に保管されてきましたが、ご自分ももう90歳、大事な形見の書に何かあってはいけないと、この度、寄贈されることを決めたのだとか。

さてさて、ここまで来て、『今までの話とタイトルと、何の関係があるの?』とお思いになったあなた、さあ、ここから本題に入りますよ。

老婦人は、それらを書き綴ったお手紙の最後に、ご主人は十数年前に亡くなったこと、ご主人の祖父は医師だったこと、そのまたお父様、つまりご主人の曾祖父は、医師であると同時に、また本草学者でもあって、東大の小石川植物園に関わった人と聞いております、とお書きになっていたのです。

ん?
本草学者?
でもって、東大の小石川植物園と言えば…。

それって、賀来飛霞かくひかのことじゃないの!?


賀来飛霞(1816~1894)
宇佐市ホームページより

幕末日本の三大本草学者の一人、賀来飛霞については、まず、三浦梅園との関わりから、名前を知っていました。

賀来飛霞の父、泰庵(有軒)は、三浦梅園の門人でした。
彼は梅園から医学を学び、医師として活躍しますが、疫病の治療に当たり、命を落とします。
彼には、二人の有能な息子があり、兄を佐之、弟を飛霞と言うと。

兄の佐之は、シーボルトから西洋医学を学び、島原藩の藩医として活躍した人ですが、やはり本草学者でもありました。

飛霞も、兄の後を継いで、島原藩医として、コレラの治療にも当たったと言われているように、医師としての力量にも相当のものがあったようですが、本質は、本草学者の方にあったようです。

医学校の校長と病院長を兼任していた飛霞は、62歳の時に、東大小石川植物園の取調掛とりしらべかかりに任命されました。
ここで、飛霞は、小石川植物園の植物研究に打ち込み、植物図鑑の解説を書くことになります。

…と、当時から、そこまで詳しく知っていた訳ではありませんが、賀来飛霞の名前は、見たことがありました。

そこで、もしやと思い、調べてみると、「本草学者」「小石川植物園」と、やはりこの人しか考えられません。
お医者さんになった息子さんもいます。
その人が、老婦人のご主人のお祖父様なのでは?

色々調べたことを書き綴った手紙をお送りしたところ、老婦人からは、お返事として、賀来家の系譜が送られてきました。

いやぁ、壮大な歴史ロマンを味合わせてもらいました。

賀来飛霞のことを調べている途中、noterさんの中にも、賀来飛霞ファンがいらっしゃることを発見しました。

ぶんぶんどーさんとおっしゃる方の記事で、note編集部の今日の注目記事にも選ばれています。
ぜひ、こちらの記事もお読みになって、賀来飛霞のことを知って頂きたいと思います。


さらに、もう一つ、賀来飛霞は、少年時代に、杵築藩の重臣兼画人、十市石谷から絵を習っているのですが、師の十市石谷は、草花の写生においては、飛霞の技量は素晴らしく、師である自分も、とてもかなわないと評したそうです。

十市石谷は、中津藩の絵師、片山東籬の弟子ですが、その片山東籬も、三浦梅園の門人なのです。

さらに言えば、片山東籬、十市石谷ともに、三浦梅園の肖像画を描いているのです。

もっとも、十市石谷は、三浦梅園の没後に生まれていますので、実際に梅園の姿を見て描いたと言うわけではありません。

片山東籬画 三浦梅園肖像画<一部>(三浦家所蔵)

十市石谷の描いた三浦梅園肖像画は、杵築藩で御典医だった佐野家が所蔵しているそうです。
片山東籬描く梅園先生肖像画の構図(梅園先生は椅子に座っていて、足先が少し見えている。右側に梅の枝をさした花瓶が台に載っている)にそっくりで、絵の上方には、帆足万里の讃(人を誉め称える言葉)が書かれています。

この帆足万里こそ、1歳で父を亡くした賀来飛霞にとって、父代わりともなった、終生の恩師でした。
帆足万里は、梅園先生が56歳の時に生まれています。
梅園の弟子、賀来有軒の友人でもあった帆足万里は、日出藩ひじはんの家老という重職にありながら、友人の遺児のために心を砕いたのでした。

梅園先生に会ったことのない十市石谷が、なぜ梅園先生の肖像画を描き、帆足万里が讃を書き、佐野家が所蔵しているのか。
(佐野家の佐野玄遷は、梅園先生の門人でした)
佐野家に来歴が残っているのなら、ぜひ知りたいと思います。


老婦人は三浦梅園の末裔で、その夫は、三浦梅園の門人の末裔でした。

そして、老婦人と、賀来飛霞の末裔である男性とのご縁を取り持ったお仲人は、先程出て来た、三浦梅園の門人、佐野玄遷の兄、尚長の末裔でもあったのです。

何だか、すべてが三浦梅園をめぐって集約されていくようで、不思議な気がしました。


豊後の三賢人・・・三浦梅園・帆足万里・広瀬淡窓


今日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。
今週は暑くなりそうです。
体調の変化にご注意くださいね。


この記事が参加している募集

学問への愛を語ろう

日本史がすき

サポート頂ければ光栄です!記事を充実させるための活動費, 書籍代や取材のための交通費として使いたいと思います。