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鍵が開くものがたりの扉。台湾発『雨の島』呉明益

しばらく古めの本ばかりを紹介していたので、最新の本をとりあげたい。

呉明益の『雨の島』(河出書房新社)

原題『苦雨之地』

日本での初出は2021年の10月。

あの『歩道橋の魔術師』『複眼人』などを書いた呉明益氏である。
即買いである。
そして、本を手にして、最初のページを開いたときから、至福の時間がはじまった。

この本は、6つの中短編で構成されている。

物語について、簡単に説明しよう。

遠くない近未来。
世界的に蔓延するコンピュータ・ウイルス<クラウドの裂け目>がもたらす『鍵』。詩的な件名で、『鍵』が届く。
それは誰かの記憶を開く扉の鍵だといわれている……。
ドイツ人の養女として育ち、ミミズの研究家となった女性。
鳥の声を手話におこそうとする青年。
ツリークライマーの恋人を失った女性。
亡き妻の残した小説から、幻のヒョウを探しはじめる男。
絶滅したマグロを追いかけ深海までくりだす仲間たち。
市場で鷹を手に入れた高校生の叔父と、彼を慕う少年と。

それぞれの物語が交錯し、一つの大きな長編となっている。


6つの物語は、それぞれに語り口も内容も違う。

たとえば、最初の『闇夜、黒い大地と黒い山』はドイツからはじまる。
森の自然に囲まれて暮らす主人公のソフィー。
5歳の誕生日に養父母から贈られたのは、アルテミアの養育セットだった。

アルテミア? 思わず調べると……シーモンキーである。
むかぁし日本でも流行したことがある。
これだけで、ぐいとひきこまれるではないか。

彼女が愛してやまない泥土とミミズ。自分の身体のこと。台湾で生まれたこと。小柄な体にリュックを背負い、土を見ながら巡礼へと歩き出す彼女のふたたびのはじまりが語られている。

このように、登場人物の誰もが、海、山、動物や鳥という自然と共鳴する境遇にあり、一方で失ったり苦しんだりもしている。その物語は交差して、人々はほかの物語にも顔を出す。呉明益のほかの著書『複眼人』の少年さえ、さらりと登場していたりする。

作者自身があとがきで、これは「長編小説を書くつもりで書いている」と書いている。
同じ雨の島の住民は、知らず知らずのうちにめぐりあっている。
ストーリーはもちろん、こうして緻密に設計された物語の仕掛けも楽しい。


全体に関わるウイルスは、もちろん架空のものだけれど、台湾では<クラウドの裂け目>といい、日本語では<ヤリコミ>。ノルウェー語では・・ドイツ語では・・と列記されているのも、うずうずしてくるくらい楽しい。

物語のつくりも緻密だし、個々の名称にも手抜かりがない。
台湾の原住民族の話や言葉、木や花や虫や鳥や、食べ物の名前も町の名前も、ひとつひとつが(たぶん)正しく表記されている。
ただの木はないし、ただのマグロはいない。すべてに名前があるのだというように。だから、なにもかもがリアルに立ち上がる。

それにしても、本にでてくるあのマグロには、愕然としてしまったが。

詳しくは書かないけれど、そんな驚くようなことも、「いつもと同じ口調で、リズムで」するりと語られている。
そこも、とてもいいんだ。
だから読み手は思わず、一文字一文字、一行一行に、どんな秘密があるのかどきどきしながら読まずにはいられない。

ときおり引用される小説や映画もお楽しみのひとつ。
『不思議の国のアリス』『オン・ザ・ロード』『白鯨』・・たしか三島由紀夫の名もどこかにあった。いやもっと難解そうな本の名前もたくさんでてきているけどね。
映画では、『バットマン』『アルマゲドン』からアッパス・キアロスタミや日本の是枝裕和などなどが、これまたするっと出てきたり。

そのくせ、口調は静かで、言葉は深い。
読み終えた凪がきたあとの底に残る、粒子の静謐さには胸をうたれてしまう。

呉明益(ウー・ミンイー)氏は、台湾の作家だ。

我が最初に読んだのは、台湾の下町を舞台とした『歩道橋の魔術師』(2015年/白水社)
これですっかりとりこになってしまった。
ごちゃごちゃとした歩道橋がつながりあう台湾の下町の情景は、匂いさえ感じられそうなほどリアルで、ノスタルジックで、ジュブナイルでもあり、ファンタジックなシーンにはボルヘスを思い出し・・ああもうたまらん!

この本は人気があったらしく、本国ではドラマ化やアニメ化もされたそう。
日本でも、今年11月(これを書いていたら)河出文庫から文庫化されたことを発見。

そのほか『自転車泥棒』(文藝春秋)、『複眼人』(KADOKAWA)などなど、それぞれに違うおもしろさの本が次々出ている。
でも、氏のあざとさのない語り口は変わらず、ずっと耳を傾けていたい。

さて、もう一度この『雨の島』について。

訳者のあとがきによると、この物語は、2018年の台北ピエンナーレで出展されたものだという。
作者の呉明益は博物画家になりたかったそうで、彼自身が描いたフクロフトミミズやコウライウグイスなどの細密画とともに、各物語の冊子がおかれて、その場で読めるようになっていたそう。

このときの絵が、本にも各短編の表紙のように挿入されている。
この絵がすごい。うまい。
たぶん未知の動植物でも、氏はリアルに描き上げるだろう。
この物語のように。

というわけで、この本は、言葉も、物語も、そしてカラーで挿入された絵も、じっくり咀嚼して楽しめる。
さらにいえば、この表紙の装丁さえも美しい。

もうメタぼれである。

さいごに。
呉明益の『雨の島』。翻訳は及川茜氏。
そのあとがきに、翻訳の苦労がしのばれる。
こうして、一語一句が届けられたんだなあと改めて感じ入ってしまった。

呉明益の本は、いろいろな出版社から出ている。
そのせいだろうか。それぞれ訳者さんが違うのは。
でも、読んでいて違和感を感じたことはまったくない。
てか、これを書くために確かめて、はじめて気づいたくらいで。
うーん、翻訳者さんってすごい。



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