見出し画像

【短編SF】ブラックホールできみとあう

 その日、彼女は握りしめた手で胸をおさえてつぶやいた。
「ぽっかり穴があいちゃったの」
 黒いワンピの胸をぐいと持ち上げるようにあてた白いこぶしは、まるでさっき供えた花のようだ。
 緑が幾重にも重なり幹が黒々として奥深く、木漏れ日が彼女に降り注ぐ。すぐそばを選挙カーの雄叫びが走り抜け、近くの中華料理屋のファンから油ぎった匂いがただよってこなければ相当にいい舞台設定だったけど、そんなことかまわない。
 ぼくはちぎった線香の巻紙を迷わずそこらに放り投げ、彼女の細い腰をひきよせたんだ。
 顎の下で彼女の声がくりかえされた。
 お願い。どうにかして。穴があいちゃったのよ。
 ぼくが埋めてあげるよ。いくらでも。なんどでも。どうとでも。
 このよこしまな思いで埋めてあげるよ。
 そんなわけで、まだ明るいうちから裏通りのホテルにしけこんだぼくらをきみは許さないだろうか。
 彼女は抵抗せずについてきた。ぼくがどの部屋にしようか、値段とのおりあいも頭のなかで素早く組み立て迷うあいだ、彼女は地球の命運をになうボタンをたくされているかのように、小さな手を強くにぎりしめたままおとなしく待っていた。
 部屋にはいってもぼくは迷う。
暗いほうがいいかな。全部を消すのはなにかな。
 彼女がシャワーをあびているあいだに、ぼくはひととき黙とうをしてきみに聞く。
 同じじゃないほうがいい。
 きみの声が聞こえた気がして、ぼくは、すっかりその気になる。あとはまかせてくれたまえ。
 ぼくは手をのばして照明のスイッチを次々と押す。
 青白い灯りは気にいった。
 どうだいこれはプラハの夜だ。謎の本をめぐりさがすぼくたちの夜。
 そんな話をきみから聞いた。異次元にとりつかれた男の話だ。ならば彼女に同じ話をしたとしてもおかしくはない。ならばこの話題は避けておこう。じゃあ何をと思うまもなく、バスルームの扉が開いた。
 ぼくは下着一枚になってシーツの中で待ち構えた。
 さあおいでとばかりに、上布団を三角にめくりあげる。
 バスローブを身につけた彼女は、黙ってベッドに横たわる。髪の先から水滴が落ちて、枕がみるみる湿る。
 すかさず彼女にキスしようとすると、彼女はまたしても小さくつぶやいた。
 あなが。ぽっかり穴が。
 機械じかけのような言葉の連打。おいおい、この場にきてそれか。頼むよ。
 握りしめたままの彼女のこぶしをおしひらくと、そのなかには青い木の葉。
 さっき訪れていたきみの墓石にへばりついていた木の葉だとすぐにわかった。ビルのあいだの小さな墓地で、彼女は石についた木の葉を一枚一枚ていねいにとりのぞくと、花をおいて手をあわせていたっけ。
 でも、ぼくたちは知っている。 きみはこの中にはいない。これは単なる訣別のための儀式だ。とつぜん姿を消したきみをせめて形だけでも弔うための、夏の日の行事だ。
 望んだのは彼女で、ぼくらは忠実に儀式を遂行した。
 そんなこと知るものか。ぼくは生きて、彼女の前にいる。しかも、まごうことなき渋谷のラブホテルで。前進あるのみ。

 ぼくは彼女の手から木の葉をもぎとると、するべきことをするべく、彼女の秘密の花園を隠すバスローブのえりもとに手をかけた。すると、彼女はぼくの手首をそっとおさえて、またしても口にした。
 でも、穴があいちゃったの。ぽっかりと。
 かんべんしてくれ。
 気が長いぼくもさすがにいらだって、とっとときみの呪縛から彼女を解放すべく、バスローブの腰ひもをはずして一気に開く。
 そして、一切を了解した。
 彼女は上も下も下着をつけたままであるばかりか、とんでもないことになっていた。

 穴だ。
 彼女のおなかには、ぽっかりと黒くて大きな穴があいていたんだ。

 ななななな。
 言葉にならない言葉を出すぼくに、彼女は両肘をついてわずかに上半身をおこすと、勝ち誇ったような顔でいった。
「ほらね」
 いきなり声がオンになる。
「ほらねって、なにこれなにこれ。なんなんだよ」
「だからぁ穴があいたんだってば」
「び、病院に」
「病院なんて。病気じゃない。わかるでしょ」
 わからない。いや、わかる。いや、わかりたくもないっ。
 きみがいなくなったあと、彼女は長く泣き続けたのだといった。そのことは誰もが知っている。正確にいうと、かれこれ二週間は飲まず食わずで泣き続けたという。風呂にもはいらずメールにもこたえず、着のみ着のままでひたすら泣いた。人間を構成する水分の半分がなくなったと思うくらい涙を放出した。
 そうして身も心もからっぽになった彼女に、突如としてこの穴が出現したのだという。

「やっぱり、これってアレだよね」
「待って。まさか感情が具象化したとかいうわけ?」
「ほかに考えられる?」
 ほんとに穴があくなんて、どんだけきみに惚れてたんだ。
 とはいうまい。口が裂けてもいうものか。
「だって、穴だよ。ハラにでかい黒い穴があいちゃってんだよ」
「そう。穴なんだよね。びっくり」
「痛くない?」
「べつに。ふだんは服を着てるし、自分でも見なければ穴のことなんて忘れちゃうくらい。でもやっぱり気になるよ。ビキニ着れないし、温泉にもいけない。やあ困った困った」
 身に穴あくほど感情爆裂したというわりには、情緒も緊迫感もない。
 ぼくは彼女の顔と彼女の穴を文字通り穴があくほど見つめた。いや穴はもうあいているか。
 スイカくらいのばかげた穴は皮膚の断面さえみせず、いきなり黒くうがたれて空洞になっていた。内臓も骨も見えない。まるで隕石でも落ちたみたいに。いやそれとも、ブラックホールか。両方見たことなんてないけれど。
 彼女はおざなりにガウンをまとうと、あぐらをかいてぼくに向き直った。
「見てもらいたかったんだ。ねえ、どうしよう」
 ほんとうにどうしよう、だ。この穴のおかげで、ぼくたちはベッドの上でほぼ全裸だというのに、ただ向き合っているだけじゃないか。これは不健全で後ろ向きだ。
 とにかく、彼女は困っている(らしい)。そして助けを求めている(ようだ)。このぼくに。でなければ、この事態をこのような形でぼくに打ち明けたりしなかったろう。
 そこまで思いをめぐらすと、ぼくはいくぶん自信をとりもどした。
 受けてたとうじゃないか。
眼も、口も、鼻の穴も、耳の穴も、へそも、女がもつ隠されたみっつの穴も。全身を覆う無数の毛穴も平等な穴だ。ひとつ増えたくらいなんだ。
「なに。怖い顔して」
 ぼくは宣言する。
「なんとかしなきゃ。いや、しよう」
 彼女のために。それにもちろん、ぼくのために。
 
 きみは突然いなくなった。
 あのかびくさい部屋と、ぼくたちを残して。
 きみの部屋を覚えているとも。何度いっても必ず一度は道に迷う、いりくんだ路地のすきまにある小さなアパートの二階。いまどき珍しい木枠の窓があり、開けると手がとどくところに隣の家の壁があるので昼間でも薄暗く湿っていて、きのこの栽培にもってこいの立地だった。おかげでぼくは、きみは細菌学の研究を身をもってしているのかと本気で思っていたくらいだ。
 きみが理工学部で、かなり優秀な人材だとあとで噂で知った。ネットでも有名な教授が引きこもりになったのは、きみとの論争で消耗したせいだという声もあったくらいだ。口も態度も悪くめったに人づきあいをしないきみがぼくに気安かったのは、宇宙やら素粒子やらやたら壮大なものを扱いながら、きわめて狭い人間関係やら予算やらのごたごたにあけくれるきみの環境とは無縁な、人文学部にとりあえず在籍し、ひたすらバイトにあけくれるという希薄なぼくの存在性のためだったんじゃないのか。
 たしかに、ぼくはきみと妙にうまがあった。
 お互い相手の出身や興味やものの見方なんてどうでもいい。ただ、いっしょにいて疲れない相手だった。それにきみの部屋は大学に近かったし、いつも発酵した飲み物がそろっていた。おかげでぼくたちは四六時中時空を超えては神の視点になったものだ。
 あの日もきみはしこたま酔っていて、壁にかけたぼくの上着に向かって熱弁をふるっていた。たぶん今とりくんでいる課題のことなんだろう。まえに重力における特異点がどうのといっていたから。
「まいったな。まずいことになった」
「なにがまずいんだ」
ぼくがこたえると、「そこにいたのか」と、きみはやっと本体のぼくに気づいたらしく振り返った。
「世界の終わりが近づいてるんだ」
「彼女すきだよな。今度遊園地でライブがあるって」
 きみはぎょろりと飴玉のような眼をぼくにむけた。どうやらアーティストの話じゃないらしい。
「お前には見えないのか。あれが」
 上からの言い方をされてむっとした。
「貸した金を返さないやつと、酔っぱらいとは幻を共有できない」
 冗談ごかしてじつは本気で請求したつもりだったけど、いつものようにきみは聞いちゃいない。とことん勝手なやつだ。
「あのときからだ。あいつと最初にあったときからはじまった」
 あいつとは彼女のことだ。それは、すぐにわかった。彼女ときみがあったとき、ぼくもすぐそばにいたわけで、つまりぼくが最初に彼女にあったときでもある。
 あのプラズマをお前も見ただろといわれたけれど、もちろんぼくには見えなかった。ふたりは偶然の出会いから化学現象をおこし、銀河創生に匹敵するエネルギーを発したという。なんて話をぬけぬけともう何万回も聞かされて、おかげでぼくの線香花火みたいな恋心はすぐにぽたりと落ちてしまった。
「はじまったのは、きみたちの関係だろ。ぼくは知らない」
「ちがう。それがトリガーだったんだ。ほんとうは前からあった。でも連中は気づかない。まいったな。おれだけがわかってしまった。天才は孤独だ」
 こういうものいいが研究室できみが敬遠される原因だと指摘してやろうと身構えた。
「ああ。でもここんなことになるなんて。いや、でも蒸発するか。うん、たぶん平気だろ。すまん。万事解決した」
 そういって勝手に話を打ち切ると、きみはごろりと横になった。めんどうなのでぼくも深追いはしない。
きみは背を向けたまま、ほとんど聞こえないような声でぼくにいった。
 あとはまかせる。
 え。と振り返ると、もうきみはすうすうと寝息をたてていた。
 ぼくは夜間警備のバイトの時間になったので、そのまま部屋をでた。
 ぼくの財布にこそ、どうやらブラックホールがあるらしくて、みるみる金がなくなっていく。きみと出会ってますますひどくなった気がするけれど、きみはもっと金がないので疑ってはいない。働くのがぼくだけというのが、やや不満だったけれど。
 次の日、上着を忘れたことを思い出して、きみの部屋にいった。きみは不在でぼくの上着がなくなっていた。部屋はぼくがいたときのままの湯飲みやコップがおかれたままで、学生証も財布も手つかずに残っていた。財布には三ケタ程度のコインのみ。どれもこれも、いつものことだ。 
あの夜以来、きみを知らない。
 あとでもう一度部屋にいったけれど、パソコンのデータはすべて消えていた。あらゆるところから借りている本がダンボール箱いっぱいに見つかった。金目のものは、もともとなかった。
 きみに血のつながった身内がいないことは、そのときはじめて知った。
学生のひとりやふたり、いなくなるのはよくある話。なのかな。たぶん。学内でひとしきり騒動にはなったけれど、すぐに静まった。
 残されたのは、ぼくと彼女だけ。
 彼女は黙っていなくなるはずがないといいはって、学食の冷蔵庫やマンホールの蓋までぼくにあけさせて、きみの行方を捜していた。
 ぼくにはなんとなく、きみが帰ってこない予感はあった。だって、そういうやつだろ。きみは。なんてことは彼女にはいわなかった。
 そして時がたつのを待った。何度もいうが、ぼくは気が長い。
 もし彼女にあいた穴が、きみへの思いからきたものならば、きみを見つけることが正しい対処法かもしれない。かも、じゃなくて、きっとそうだ。
 だとしても、もうぼくはきみを捜そうとは思わない。きみなら、よくパソコンの壁紙にしていたマウナケアかクロゼ、アタカマ、それとも南極の非武装地帯にでもいそうな気がする。そんなところにあたりをつけて、彼女をひきつれて旅にでるのも魅力的だ。でもそのあいだずっと、こんなふうに指をくわえて彼女と添い寝をするなんてまっぴらだ。
 そのかわりというわけで、せめて彼女の思い出話にはつきあってあげることにした。
 きみと彼女の日々の記憶。それで、彼女の穴がふさがるのならお安い御用だ。
 きみの部屋に、彼女は自分のものを残さない。よくある恋人どうしのように、歯ブラシや着替えをおいて、マーキングなんかしない。(それをやっていたのは、むしろぼくだった)
「あのひとはね、あたしがどんだけ荷物をたくさんもっていても、気にもしないでずんずん先にいっちゃうの。だから背中ばかり見てたわ」
 知ってるさ。ぼくはよくそんなきみたちを遠くから見ていたんだから。
 声をかけずにやりすごそうとするのに、きみのほうが目ざとく見つけて手をあげる。それでぼくは、ああいたんだみたいな顔をして答えなきゃならなくなる。
 きみは彼女といても、ぼくをカヤの外に押し出そうとはしなかった。むしろ前よりも強く引き止めるんだ。それで結局は、ぼくときみが前をゆき、彼女がうしろからついてくる細長い二等辺三角形ができあがる。
 それでもきみが、誰よりも彼女のことを気にかけていることをぼくは知っていた。きみ以上に。
 きみがどこかから借りてきたポンコツ車にのって、三人で旅にでたときは愉快だったな。ありがちな青春映画みたいで、いま思い出すとちょっと甘く恥ずかしいけど。ゆく先々の浜辺にテントをはって、自堕落に笑いころげて食べて寝て。ここがアリゾナでも火星でもなく、ただの日本の片隅だってのもいい感じだった。
 夜の焚火を囲みながら、きみがこぼれるエネルギーの行方について語ったことを覚えている。彼女は眠たげにきみにもたれて、ぼくはさめたコーヒーをいつまでも飲み干せず、決して美しくも正しくもない自分がまだ生きている理由を考えて迷走していた。
 夜明けにそっと起きだして岩場に隠れるふたつの影に、気づかないふりをしたぼくをだれかほめてくれ。
 そしてきみはいなくなり、ついにめぐりきたこの瞬間。
 なのに、彼女のおなかには穴があった。
 これは、きみのせいなのか。だとしたら、きみ本人よりもタチが悪いぞ。
やっぱりもう二度とあらわれてくれるな。今のぼくはきみに何をするかわからない。
「おなか、すいちゃった」
 甘い思い出は涙とともにすっかり洗い流したらしく、すぐに話はつきて彼女はいった。ぼくたちは部屋をそのままキープして外にでた。
 驚いたことに、外はまだ明るいじゃないか。
「天気いいねえ」
 彼女とぼくは手をつないで狭い坂道をかけおりた。
 通りにはミニシアターや、小さなプロダクションなどがひしめいていて、遅番でやってきた働くひとたちがやってくる。ぼくたちは道行くひとたちのなかにまぎれた。
 くそ甘いドーナツが食いたいという彼女といったん別れて、ぼくは街をさまようことにした。

 表通りからちょっとはずれると、小さなビルやアパートがひしめきあう通りになる。昭和の時代の女の名のついたスナックの看板も味がある。その奥にある小さな公園で、ぼくは朝からやめていた煙草を一服吸った。
 きみと最後にあったのは、この公園をねぐらにしている浮浪者の男だった。
 そいつはぼくがきみの部屋に置き忘れていった上着を着ていた。おかげでぼくのかわりに、何度も知らない連中に呼びとめられて困ったと非難がましくいった。
 やつは、きみからぼくの上着をもらったのだと主張した。そのあと、吸い込まれるように公園の片隅の街灯の届かない暗闇に消えたという。
 たまげたね。ほら、あっちだよ。いっしゅん赤くて透き通ってさ、ぺらんぺらんの平たい姿になって貼りついたんだ。ああ貼りついた。見えない黒い壁にね。そんでひゅううっと小さくなって、あやまあってあいだに黒い小さな点になったさ。そのまま景色がぐるんぐるんまわって、吐きそうになって気がついたら朝になってた。
 男がさした場所は、近づくだけで犯されそうな公衆便所だ。
 ぼくの上着を返そうともせずに(もちろん返してほしくもなかったけれど)、ろれつのまわらない舌で彼はいった。今も目ぇまわっててさ。ぐるんぐるん。ほんとさあ、点になったんだよ。
 酔っぱらいと金を返さないやつは信じない。
 口にだしていいながら通りを歩く。大勢のひとがいるのになにも聞こえない。
 特異点。ふいにその言葉を思い出した。
 なにがなんだかわからなくなることだときみはいっていた。
「そんなものはないんだけどね」
 そういって、きみは親指と小指であごヒゲをつかむと、勢いよくぬいた。
「ゾウリムシに心はあるだろうか。わからない。わからないことさえ説明するのが面倒だから特異点がどうのって言葉で置き換えてるだけだ」
「だったらぼくにとっちゃ、きみが特異点だよ。そのヒゲどうすんだ」
「欲しいのか」
「いらないよ」
 こじゃれたカフェでゾウリムシの話をしながらヒゲをぬく男なんかに、どうして彼女が惚れたのかわからない。そしてそういう話をはなから理解するつもりもない彼女が、どうしてきみに惚れたのかも。
 あなたたちはふたりでひとりだよね。
 ぼくたちのようすをみながら、彼女がおもしろそうにいう。
 はたとぼくたちは顔をみあわせる。
 ぜんぜん似てないのに、なんか似てる。どっちかがどっちかをうつしてるみたい。
 ハンバーガーからはみでたケチャップを口の端につけたまま、彼女はいった。
 彼女はどんなものでもこの世で最高のごちそうのようにうまそうに食べるし、絶対に残さない。一日十時間睡眠を死守し、よく笑いよく怒る。彼女は、日陰で育った軟弱なぼくたちに太陽の光と熱を思い出させた。
 あのとききみは、なにかいいたげな顔をした。
 実際なにかいったのかもしれない。
 ふと立ちどまる。
 通りの人の波が、ぼくを中心に二股にわかれた。
 きみは、こうなることを予言してたんじゃないか。世界の終わりは主観的なものだ。彼女との関係のおしまいだ。だからぼくにまかせるといった。都合がよすぎるだろうか。
 ぼくはアウトドアショップでいくつか買い物をすませると、彼女が待つドーナツショップに向かった。彼女は黒ワンピから別の服に着がえていた。きっときみが見たら罵倒しそうな(でもぜったいに好きな)短いデニムスカートとレースだらけのビスチェ。
 そのうえ、パニーニサンドやマフィンやサラダやプリンやビールにワインをいれたデパ地下の大きな紙包みを抱えていた。
「準備オッケー」
 彼女は笑って手をだした。
 そうだな。今夜は長くなりそうだ。

 再びホテルの部屋に戻ったぼくらは、ひとしきり食い散らかして、ついでに映画なども見た。なぜか超能力を手にしたあげくに自滅する学生たちを描いたB級映画がやけにおもしろく、ついふたりして最後まで見てしまう。彼女が「大変だねえ」と自分のことも忘れてつぶやくのを聞きながして、ぼくは彼女のむきだしの肩に手をのばす。なぜというならば、そこがホテルのベッドの上だからだ。
「待って」
 彼女はそういって、ぼくの手をかわすようにひらりとベッドからおりると、デパ地下の紙袋の底をさぐった。
 手にしていたのは、鋏だ。
 さすがにぎょっとすると、続けて五〇センチ四方の肌色の皮革をとりだす。
「はい? なんでしょう」
「蓋をするの」
 彼女は鼻をふくらませていった。
「これで穴をふさいじゃえばいいかなって」
 どうよすごいでしょといわんばかりに、ぼくを見る。
「蓋だって? これで?」
「うん。丸く切ってぺたりって」
「両面テープで?」
「う、ん。まあ。それしかないか」
 それはないんじゃないかと思ったが、本人がいいんならいいのだろうか。
「なんかいいたそう」
「う。ええと、根本的な解決法じゃないと思うけど」
「じゃあどうすればいいの」
 ぼくが穴をふさぐ役目だといわんばかりに彼女は口をとがらせた。
「そうだな。まず、もう一度穴を見せてくれないか」
「そっか。そうだね」
 彼女はあっさりと服を脱ぎ捨てた。なにも全裸になることはないのに、下着まで全部脱ぎすてた。いいのか。あれもこれも見えてるよ。
 そして、何にもまして存在感がある黒い穴。
 見せてといったからには、しかたなくなかばやけくそで穴と対峙する。黒く深くうがたれた、おなかの穴と。
 おそるおそる穴に指を触れる。穴の縁は人工ラバーのようにつるつるしている。ダッチワイフとか知らないけれど、こんな感じだろうか。やはり何事も経験しておくべきだった。
 さらにその先に手をいれる。本来は皮膚があるべき穴の境界面をこえると、いきなりなにも見えなくなる。まるで黒い気体に手をいれるかのようだ。ゆっくりとさらに手を漆黒の闇にさしこむけれど、手ごたえがないままずぶずぶとはいっていく。しまいには腕一本、肩まではいった。腕の感覚がまったくない。いつまでたっても穴の底にも、覚悟していた粘液でべたつく内膜の感触もない。
「どう?」
「なにもない。どうなってんだろ」
 それよりぼくは、すぐ目の前にならだかに広がる彼女の下腹部のほうが気になってしまう。
「お風呂でシャワーの水いれてみたことあるんだけど、いつまでも入り続けるんだよ」
 彼女の天真爛漫な勇気にあきれた。
「そんなことしたんだ」
「だって平気なんだもん。あふれたりもれたりしない。ヘンだよね」
 水さえあふれない底なしの穴か。もしかしてこれはワームホールで、異空間に通じていたら? 
 不安になってあわてて腕をひきぬく。
 ちゃんとぼくの腕は肩からついていた。
 ライトで中を照らしてみる。なにも見えない。
 耳をすませる。なにも聞こえない。
「おーい」
「わっ」
 びくりと彼女が震えた。
「ごめん。響いた?」
「ううん。びっくりしただけ。ねえ、こんな話なかった? 空から『おーい』と降ってくる」
「星新一な。……ん」
 そのとき、穴の奥でちらりと何かが光った気がした。気のせいかと穴に顔を近づけた。
 なにもない。それに穴の中は息ができることがわかった。真空ではないようだ。
 穴に顔をつっこむという、この奇妙な体勢で本来の主旨がよみがえった。なにしろ顔をあげれば、ぼくの目の前には、彼女のおっぱいがアップである。ひとは脳で考えるというけれど、それは後づけハードディスクみたいなもので、ほんとうの「ぼく自身」はもっと原始的で欲望に正直だ。そしてそれは正しいと願いたい。
「どうしたの? なにかあった?」
「いや。なにも……ただ、もう限界だ」
 ぼくはシャツを脱ぎ捨てると、彼女をくみしいた。
「いちおう聞きたいんだけど。ぼくがこうしたらだめかな」
「だめじゃないけど、穴は?」
「こっちが聞きたい。穴があるからだめなのか。穴は大事か」
 彼女は目を丸くして、それからにっこり笑って両手を首にからめてきた。
「だからきたのに」
 よし。きみの不在が穴をあけたのなら、ぼくの存在で穴をふさいでやる。
 これでもかといやらしいキスをして、ありとあらゆるポーズをさせた。彼女はやはり抵抗しなかった。
 汗ばんだ彼女の背中からは穴が見えない。でも、あるというのはわかる。
 うっすらと新月のように影が浮き出ているんだ。
 どんな体位にしても穴が気になるので、結局はふつうが一番だと気づいた。肌を密着させると穴が強く吸いつく気がして、ぼくはよつんばいになってふんばった。
 相当に体力がいるセックスを2ラウンド続けてやった。
 けれども、穴は穴のままだった。
 ぼくは1千メートルを全力疾走したように荒く息をしていた。額からたれた汗が、あっと思うまもなく彼女の黒く丸い穴のなかへ吸い込まれていく。
 彼女は指で穴の縁をふれながらいった。
「なんだか、前より大きくなった気がする」
 そういうと、彼女はぼくが捨てさせた木の葉を穴に落とした。
 ぼくは無力感にがっくりと崩れ落ちる。

 シャワーを浴びてもどってくると、彼女はシーツにくるまって平和に眠っていた。
 薄くあいた唇にキスをすると、ぼくはそっとシーツをめくった。
 ごめん。これからが本番なんだ。
 あの穴は歴然とそこにあった。
 たしかに最初にみたときよりも大きくなっている気がする。縁の周辺がなんだかせわしなく動いているように見えるけれど、疲れてるせいだろう。手で触れるとあいかわらずダッチワイフの皮膚的感触がある。ぐいと両手で広げると、思っていた以上に伸びていく。これなら大丈夫だろう。
 ぼくは買ってきたロープをとりだした。クライミング用の一番細いロープで、ぼくはその先をバスルームのノブに強く結びつけた。反対側の先端をゆっくりと彼女の穴におろしていく。ロープは、いつまでもどこまでもはいっていく。ロープがふれる皮膚の縁のところには、念のためタオルをあてておく。ぼくはロープを握りしめると、そろりと片足を穴にいれた。どこにも届かない。もう片方の足も穴にいれてみる。太ももで止まるか思ったけれど、案の定という感じで穴は抵抗なく伸びて、すぐに腰まで穴に入り込む。宙に足がぶらさがる感じがしたが、えいと身体を穴に落とした。


 ぼくはロープを頼りに、穴のなかを慎重に伝いおりはじめた。
 穴の中では重力がきかないのか、落ちるという恐怖はまったくおこらない。けれどもロープは下向きに伸びていて、ぼくはイチ、ニと手を次々ずらしてはロープを伝いおりる。
 穴の中は真っ暗だった。
 どこまで広がっているのか、なにがあるのかもわからない。
 自分の手もとさえ見えないなか、ぼくはひたすらおりていく。
 それは、永遠とも感じる長い時間に思えたし、ほんの数分もたっていないようにも思えた。時の感覚がないにもかかわらず、それであせることも不安にもならない。心はさえざえと澄み渡っている。
 退屈しのぎにさっきの映画のことや、書きかけの脚本のこと、浮浪者にうばわれた愛用の上着のことを考えたりもしたけれど、わずかの思考さえおこったとたんに塵のように消えていく。なにもかもなかったことのようだ。
 それでもぼくは、これだけは信じて疑わなかった。
 きみはここにいる。ぼくは、きみにあいにいくのだと。
 やがて、ロープが終わりに近づいていた。そうとわかったのは、ロープの先端がきたところで、足がふわりと底らしきところに着地したからだ。
 足元がぼんやりと丸く明るい。
 見上げると、遠い満月のように穴の入り口があった。ホテルの安っぽい照明器具の一部がやけにはっきりと見えている。
「おおい」
 ぼくは穴のなかで叫んだ。最初は遠慮がちに、やがて大声で叫んだ。
「おーーーーーーーーーーーーい!」
 返事はない。なにも見えない。足元はぼんやりとうす暗く、やわらかい皮膚のようだ。ミクロの決死圏じゃないだろうな。彼女のものでも、白血球にだけはおそわれたくはない。
 ぼくは次第に大胆になって、ロープから離れて歩いてみた。ロープの先端にはあらかじめ蛍光塗料をつけておいたので、薄くぼんやり光っている。それが目印だ。
 宙をさまようような不安があった。
 赤ん坊は足元が見えなくても躊躇せず歩き出すというけれど、ぼくはもう大人で足元が見えないのは怖い。それでもいつまでもひとつ所にいるよりも歩くほうが落ち着くのだ。
 こうしていつも迷ってしまうんだけどな。
 ひとりつぶやいて苦笑する。
 あのときもそうだ。きみとは時々山にのぼり、よく道に迷った。あれは北アルプスだったか。

 どこをどう間違えたのか、陽が落ちても山頂の山小屋につかなかった。あせってはだめだと思いながらも、みるみる暗くなる視界に逆らうように歩くうちに、ますます道は見えなくなった。浮石の多い岩場にペンキのあともなく、背負う荷は重く、ヘッドランプは壊れている。ビバークする場さえないのに、きみはのんびりと鼻歌なんぞをかましてる。咽喉がからからになっていた。きみが水筒を隠し持っていると悪意をもってにらみながら背中を追いかける。
きみはためらうことなく足を踏み出す。いつ、どんなときでも。
 危ないぞとぼくがいうと、きみはくすくす笑った。鼻歌はドラえもんだ。
 その歌がいきなりやんだ。
 きみの気配が消えた。すこし前を歩いていたはずなのに。足音も息づかいも聞こえない。ひっと息すく思いで、ストックで足元をさぐれば道らしきものはすぱっと切れていた。
 嘘だろ。
 コツンと小さな石があたって、崖の底へ落ちていく音が聞こえた。
 あのとききみは。
 ぼくは、ええとどうしたっけ。背後の岩壁に背をつけた。声をだそうと、きみの名前を呼ぼうとした。息があがる。酸素が足りない。
逃げるようにぼくは足を踏み出した。一歩一歩と次第に早くなっていく。
 光も通さない深淵のなかを猛スピードでかけ抜けた。
 早くこいよ。
 真っ暗な穴の中で、きみの声が聞こえた気がして顔をあげると、いきなり木の扉が出現した。枠だけの、例のドアのような。
 
 ノブにふれると、ドアを形づくっていた光の粒子がしゃらりと散った。
 きみがいた。
 いつものしわくちゃのシャツを着て、窓辺の席にすわっていた。
「お」
 言葉が続かない。
 きみは、ひょいと手をあげていった。
「よう。きたな」
 たしかにきみの声だ。ぼくが夜間のバイトからあがると、いつもそういって部屋にいれてくれた。
「ここにいたのか」
「ああ。遅かったな」
 その山小屋は、どうしてこんな高地でこんなことができるのかというほど味のあるたたずまいだった。よく磨かれた木でできたテーブルやいすは手作りだろう。曇った窓ガラスの向こうに根雪が残る山々がうっすらと見えて、そのそばには小さなガラス瓶にいけられたつる草のオブジェがさしこまれている。赤々と燃えた薪ストーブ。そのうえにしゅんしゅんと湯気をたてるやかんがある。
「世界で一番うまいお茶を飲ませるカフェだよな」
 きみはやかんからカップにお湯を注いでぼくにさしだす。飲むと、砂糖をたっぷりいれた甘い紅茶だ。
 ゆるゆると身体がほどけていくようだった。
「よかった。無事だったんだな」
「ああ。これに呼ばれて」
 そういってきみは、手をあけて見せた。
 くちゃくちゃになった木の葉だ。
 じゃあここは。
 困ったような顔をしてきみは笑った。
「彼女の穴の中だよ。このカフェもおれの姿も、お前が具象化したもんだ。そのほうがわかりやすいからだろう。窓辺にあった花は忘れたようで適当なことになってるけどな」
「どういうことだよ」
「ひとつひとつの次元は無数に重ねられた薄い層の一枚にすぎない。別の層では違う姿になってる。でもこの次元ほど、あれもこれも具象化して名前をつけたりしない。きっとそうしないと、散らばった粒子が同じものを同時に認知することができないからだろう。でもここはまだ、ヒトの意識の入る余地がある。わかった?」
 わかるか。
 紅茶をのぞきこんでも、何もうつらない。
 はじけろと念じると、雫が零れ落ちた映像をスローモーションで逆回転でしたようにカップのなかの紅茶が散った。
 ぼくたちが考える空間の常識はここにはないんだろう。ここはつまり。
「ピンポン」
 きみはぼくの思考まで読む。
「特異点」
「ギリで。その周辺ってとこだろうな。なあ、ヒトが犬や猫とちがうのはどこだと思う? サルでもいい」
「毛の数、じゃなくて……道具をつかうとか」
 きみは楽しそうにいう。
「間違っちゃいないよ。ヒトは知恵がある。だから道具をうみだせたし、それで労働のエネルギーも軽減できた。その原動力は想像力だ。これは異常な事態だよ。無からエネルギーを生み出してるんだ」
「ぼくは文系なんだ。講釈はいいからさ、帰らないのか」
「いっただろ。おれは実体がないって。ここをつくったのはお前だよ。つなぎとめるものがないと、もとの小さな塵にもどる。ほら、こうして」
 周囲の空気がごそりと動いた。
 ぐにゃりと情景がゆがみ、細いスリッド状になっていく筋もの次元の断面がせわしなく重なり動き回っていた。やがて漆黒の渦になり、ぼくたちを中心にぐりんぐりんとまわりはじめた。あまりに猛スピードで動いてるとはわからないのに、たしかに生きて活動していると感じる。頭で? 皮膚で? わからない。
 きみは平然と、耳をすますように回転する闇を見つめていた。
「おれはさ、見つけたんだ」
「なにを」
「穴だよ。薄い層をつなぐ細い細い線の入り口。小型のブラックホールみたいなもんだな。すぐに蒸発して消える。はは。どこにだってあった。吹き出物みたいなもんさ」
「きみはそこに入ったっていうのか? 吸い込まれちゃったのか」
「いやあ」
 きみは肩をすくめた。その仕草もよく見かけたもので、ぼくの記憶のままだ。
「ただ望んでしまったんだな。彼女と積み立てたポイントと引き換えに」
「ショップカードかよ」
「似たようなもんだ。じっさい想像力を超えるエネルギーだったんだな」
そういうきみの身体が次第に足元から透けていく。
「わわ足が」
「ヘンな声だすな。足がなんだよ」
「消えてくよ! きみの身体が」
「そうか」
 なんてことはないみたいにきみはいう。
「たぶんさ、おれはいなかったんだよ。この世界には。逆だったんだ。人間の想像外のものだったのに、別の入り口からまぎれこんだんだ。でもまた別の入り口を見つけた。やばいと思ったけど引き寄せられてしまう。もといた場所に戻ろうとする。ほかのものも全部のみこむかと思ったけど、せいぜいおれひとりぶんくらいだった。なにもいうひまもなかった。たぶんその穴はもう蒸発したけどね。でもまさか、彼女に出現するとはな」
 きみの顔の造形がくずれていく。透明になったり歪んだり。
「いいたかったのは。なあ」
 きみの眼が残りぼくを見つめる。よせよシュールすぎる。
「穴はどこにでもある。見せるのは想像力で、動かすのはラブだ」
「うわ。きみがそんな恥ずかしいこというなんて」
「お前がわかる言葉に翻訳しただけだよ。別の次元にそんな言葉はない。そもそも思考も言葉もない。ある、か、ない、だけだよ。おれがもし彼女とあわなければ、そんな異質なエネルギーをもつことはなかった。それとも、もっと早くに戻っていたか」
「こっちに戻ってやれよ。きみだって彼女のエッチなビスチェみたいだろ」
 一瞬いっきにきみの姿の輪郭が浮き上がった。すごいエロ指数だ。
「くそったれ。さっきまでおれを打ちのめそうと思ってたくせに」
「今もだよ。きみみたいに穴といや、彼女のでもブラックホールでもほいほい入る下劣な野郎は許せない。でも、彼女が望むなら……許してやる」
 ひらひらと固形のものがぼくの手に落ちる。あの、木の葉だ。
「ばかだな。あいつは最初からお前を見ていた」
 え。
「おれは知ってた。でも知らないふりをして、彼女を離さなかった。彼女も気づかないし、おれも意識したわけじゃないけど、ちょっと操作したんだろうな」
「卑劣な宇宙人だな」
 つかみかかろうにも、きみはもう透明な紙人形のようになっている。
「そういうな。楽しかったよ。ずっと。お前とまたバカ酔いしたかったよ」
 ぼくは、今度こそ本気でいった。
「帰ろう」
「だめだって。一度入り口にはいったら、もう造形かわるんだよ。選んじまったんだ」
「うるさい。どうにかしろ。いかさないぞ。きみには貸しがあるんだ。おれが血の汗流して稼いだ金を返さないと宇宙の果てまでついてまわるぞ」
「ああ。待ってる」
 もう君は声だけになっていた。
「彼女の身体の生命力にはブラックホールもびっくりだよな。さすが我らが女神だ。でもそろそろいったほうがいい。やばいことなってるぞ」
 顔をあげると、はるかかなたの天井にへばりついている満月が、次第に欠けていくのが見えた。
 穴の蓋がしまりはじめてるんだ。
 黒い闇に強く押し流されるようにしてぼくは走り出した。
 ぼんやりとオレンジ色にともるロープを握らせたのも影だ。
 彼女をたのむ。
 いっしょに……いいかけた言葉は暗闇に押し込まれた。
 穴が急速に縮んでいくのがわかる。それにつれてぐいぐいと身体が押し上げられていく。すざまじい力にちぎれそうになるのを重量のある闇がかばってくれてるのがわかる。
 きみか。
 きみがぼくを返そうとしている。もとの世界で待つ彼女のもとへ。
 惚れてたくせに。酔いつぶれるほど逃げ出したいほど惚れてたくせに。
ねじくれ引きちぎれそうになる。声が出ない。
 やっとの思いで上をみあげると、すでに穴の入り口は細い三日月状になっている。
 あんなすきまから出られるものか。
 強い圧力におされて身体が丸くなる。そのままどんどん引っ張られていく。
 もう光の筋が少し見えるだけ。
 帰らなくちゃ。彼女にきみのことを伝えなくちゃ。
 きみは(ぼくは)、ぼくは(きみは)、ぼくたちは、二人できみを愛していたと。
 そうだよ。ブラックホールができるくらいのエネルギーを集めてね。
 でも、もうまにあわない。やっぱりおれたちは離れられないのか。

すっぽーん。

 ぼくはホテルの天井にぶちあたって、床に転げおちた。
「え? なになに」
 彼女が寝ぼけまなこで起き上がる。
 見るともうあと数センチで彼女の穴はふさがりかけている。ぼくたちは息をのんで穴を見つめた。皮膚が少しずつのびてゆき、細い細いすきまをふさぐ。つなぎめもなく。
「穴が消えたね」
「うん。消えた」
 きみと、きみの嘘といっしょに、穴は消滅した。
 彼女が穴をさがすように自分のおなかをなでる。
「あのひとも?」
「うん。ぼくは、引きとめたのに」
 彼女の手に自分の手を重ねて、もうただのへそでしかない穴のまわりをなでる。ぼろぼろと涙があふれてとまらない。不本意ながら。
「引きとめたんだよ。だって」
 彼女は小さくうんうんと頷くと、ぼくの頭を抱いた。
「わかってる」
 だってぼくは、ぼくたちは、きみがすきだった。きみが思ってる以上に。
 また会おう。ブラックホールで。

                                  END.

画像は「みんなのギャラリー」からお借りしました。Thanks!

#宇宙SF

この記事が参加している募集

#宇宙SF

6,051件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?