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書物の転形期:和本から洋装本へ

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このエッセイでは日本で洋装本が登場してから定着するまでの時期、すなわち十九世紀後半から二十世紀初頭までを対象として、書物の技術と当時の新聞広告や目録の記述などとを照らし合わせつつ… もっと読む
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書物の転形期23:パターソンの洋式製本伝習8:パターソンとは何者か2

19世紀東アジアの洋式製本事情  東アジアの外国人居留地の製本事情もカナダの新開地と似通っていた。1840年代に開港した中国には、日本よりひと足早く洋式製本術が伝播していた。上海ではNorth China Herald新聞社が文具や書籍の販売、修復などの広告を出している(The North China Daily News, 1871.9.18)。居留地の商業活動に使われる日誌や帳簿には、罫引(ruling)印刷と帳簿製本の技術が必須だったこともすでに述べた(書物の転形期1

書物の転形期22:パターソンの洋式製本伝習7:パターソンとは何者か1

パターソンとは何者か  W・F・パターソン(W. F. Paterson, 1844-?)は、日本に本格的な洋式製本術を伝えたとされているが、来日するまでの彼の経歴はおろかフルネームすらわかっていない。残されている資料の大半は滞日中の公文書であり、加えて彼が製作に携わったと考えられる洋装本が二十点程度あるのみである。彼についての直接的な資料は、すでに佐藤祐一『明治初期政府印刷局における洋式製本技術の伝授と受容』(東京大学大学院人文科学系研究科文化資源学研究専攻文献学専門分野

書物の転形期21 パターソンの洋式製本伝習6:印書局の北米コネクション3

チップマン商会とC. S. ボイントンの雇用  チップマンは印書局の設備購入と外国人技術者の雇用に大きく関わったが、彼がいつ来日したのか正確なところはわからない。1872年4月6日の"The Japan Weekly Mail" には、1872年4月3日に上海から中国の諸港を廻って横浜に入港したNew York号の乗客にH. S. Chipmanの名が見える。これが初の来日だったのか、それとも横浜の商会から中国に渡航して商談などを行った帰途だったのかは不明である。  細川

書物の転形期20 パターソンの洋式製本伝習5:印書局の北米コネクション2

バンクロフト書店とチップマン  チップマン・ストーン商会は米国人C. S. Chipman とN. J. Stone が経営する貿易会社である。「居留地人物・商館小事典」(横浜開港資料館編『図説横浜外国人居留地』、有隣堂、1998)では米国貿易商会の前身とされ、「1871年来日したチップマンの店に起源を持つ。当初は主として書籍や文房具を販売していた。1875年チップマン、ストーン商会となり」とある。しかし、1874年版の "The China Directory" にはチップ

書物の転形期19 パターソンの洋式製本伝習4:印書局の北米コネクション1

細川潤次郎の渡米 五月二日 ○民部権少丞細川習米利幹地方ニ用ユル農具其他新奇ノ械器査検ノ事ヲ奉ハリ同国サンフランシスコノ展覧会ニ赴ク (『民部省日誌』明治四年辛未第四号、1871)  1871年4月23日、後に印書局の初代局長となる細川潤次郎は、米国の農具や機械類を調査するためにサンフランシスコの博覧会に出張を命ぜられた。細川は土佐藩出身で高島秋帆に学び、維新後は1869年から開成学校の権判事を務め、同年の新聞紙条例や出版条例の起草にたずさわった気鋭の官員だった。細川

書物の転形期18 パターソンの洋式製本伝習3:居留地の製本師3

横浜居留地の製本  横浜の居留地で確実に製本された本は、欧字新聞社が発行していた逐次刊行物や各種案内であろう。居留地の需要に即して編纂された出版物である。  "Japan Herald Directory"(Japan Herald Directory and Hong List) の1872年版(Japan Herald, 1872)は、外形が縦24.8㎝×横21.7㎝、厚さ0.6㎝、本体用紙は縦24.3㎝×横20.8㎝、厚さ0.4㎝の薄冊である。 Japan Hera

書物の転形期17 パターソンの洋式製本伝習2:居留地の製本師2

横浜の洋式製本師 伊藤泉美は横浜居留地の中国人印刷業についての論考の中で、開港当初の横浜では印刷業を身につけた者は引く手あまたであり、そうした状況の中で香港や上海で印刷技術を身につけた中国人が進出してきたと述べている。そしてその中には、英字新聞社等に雇われるのではなく、独立して店を構える者もいた。  伊藤論によれば、中国人の印刷業者は印刷・製本・文具の三種を兼業している。これは前回見た中国の居留地の状況と同様である。そして、その印刷業は製本から始まっているということも、中国

書物の転形期16 パターソンの洋式製本伝習1:居留地の製本師1

香港の洋式製本師 1872年9月20日、印書局が設立された。現在の国立印刷局のルーツの一つである。そして翌1873年5月29日に英領カナダ人W. F. パターソンが製本師として雇用された。  前章で述べたように、居留地ではすでに洋式製本が行われていた。印書局がそれらの工房や製本師に頼らなかった理由については後に検討するとして、まずは当時の居留地における製本師事情を確認しておきたい。  1840年代に開港した中国には日本より一足早く洋式製本術が伝播していた。居留地や租界の製

書物の転形期15 洋式製本の移入12:小括

パターソンの伝習以前における洋式製本の移入  従来、日本の洋式製本は印書局に招かれたパターソンの伝習によって始まるとされてきた。しかし、それ以前の洋装本の存在もしばしば指摘されてきた。本章の目的は、曖昧模糊としていたパターソン伝習以前の洋式製本移入の実態を、系統立てて記述することだった。初期の洋装本を一つ一つ掘り起こし、ためつすがめつする作業で明らかになったのは、パターソンの伝習以前に洋式製本は確実に日本に移入され、1873年にはすでに民間で国産の洋装本を製作できる職人や工房

書物の転形期14 洋式製本の移入11:一般書と民間製本

法律書の製本 維新後は矢継ぎ早に法令が出され、改正や廃止が繰り返された。官公庁がいち早く洋式製本を採用したのが、『大蔵省布達全書』のような、布達や法令をまとめた法令集だったことは示唆的である。金属活字による文字の縮小と、緒紙袋とじの半分以下の厚さになる洋紙両面刷りは、情報密度をそれまでの板本から飛躍的に向上させたが、それを書物としてまとめる洋装本の技術もまた、右肩上がりに増加する情報をコンパクトにするためには不可欠だった。  1870年、明治政府は現在の刑法に当たる「新律綱

書物の転形期13 洋式製本の移入10:一般書と民間製本

医学書の洋式製本 辞書は洋式製本を採用することで用途に応じた機能的利点があったが、明治初期のほとんどの一般書にはそのような動機がなかった。その中で比較的洋装本化が早かったのは、医学書と法律書である。  医学は旧幕時代から蘭学や洋学の中心だった。すでに述べたように、東京大学医学部の前身である大学東校は、1871年に須原屋伊八から解剖学用語の専門辞書『解体学語箋』を、「ボール表紙本」に近い簡易な平綴じ製本で刊行した。大学東校の御用を務めた須原屋伊八は、出版界の一大勢力であった須

書物の転形期12 洋式製本の移入9:辞書と民間製本

『附音挿図 英和字彙』 『東京製本組合五十年史』には次のような記述がある。 明治六年に、日就社から刊行された「附音挿図/英和辞彙」は、柴田昌吉と子安峻の共編に成る背革装の洋式四六四倍本で、俗に日就社辞典として知られていたものであるが、その当時はまだボール紙が日本に輸入されていなかつたので、表紙の芯には、張子紙(浅草紙を重ねて締めつけたもの)に、押圧をかけて使つたほどで、その革表紙は上海まで人を遣つて箔押しをさせたといつた大げさなものであつた。  それだけに、この製本を請

書物の転形期11 洋式製本の移入8:辞書と民間製本

英学機関の御用書肆と辞書の洋装化  幕府の開成所が英語辞書や単語集を刊行していたことはすでに述べた。『英和対訳袖珍辞書』や『英吉利単語篇』は幕末から明治初期にかけて需要があり、版を重ねるうちに開成所に出入りする民間書肆が印刷発行を請け負うようになった。そのような書肆の一つに蔵田屋清右衛門がある。蔵田屋は『英和対訳袖珍辞書』三版を1867年に木版和本で出版し、1869年には再刊した。そして、『英吉利単語篇』を1870年に初版同様の簡易な中綴じの洋式製本で出版した。  その蔵田

書物の転形期10 洋式製本の移入7:辞書と民間製本

上海で製作された辞書 辞書の製本は、高度なかがり製本の技術を駆使する反面、その用途に合わせた独特なものでもある。当時の製本技術の高みを見ることはできるかもしれないが、それが平均的な水準とは言いがたい面もある。  辞書は厚冊な上に、繰り返しページをめくられるという過酷な条件に耐える必要がある。本体用紙は厚手の固い紙を使うとめくりにくくなり、書物自体のかさや重さも増えるため、薄くて丈夫かつ柔軟でなくてはならない。本体用紙と表紙の連結部などの可動部分には十分な強度が必要なので、本