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書物の転形期16 パターソンの洋式製本伝習1:居留地の製本師1

香港の洋式製本師

 1872年9月20日、印書局が設立された。現在の国立印刷局のルーツの一つである。そして翌1873年5月29日に英領カナダ人W. F. パターソンが製本師として雇用された。

 前章で述べたように、居留地ではすでに洋式製本が行われていた。印書局がそれらの工房や製本師に頼らなかった理由については後に検討するとして、まずは当時の居留地における製本師事情を確認しておきたい。

 1840年代に開港した中国には日本より一足早く洋式製本術が伝播していた。居留地や租界の製本師や工房についてはディレクトリー(商工名鑑)の情報が手がかりになる。

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The China Directory for 1872, China Mail, HongKong, 1872 内閣文庫蔵(E000412)

1872年の"China Directory"には香港に印刷・製本・文具の製造販売を兼ねる店があった。1865年創立の梳沙印字館(Souza & Co.)の業種は"printers, stationers and bookbinders" と記されている。

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同上、梳沙印字館の項

梳沙印字館の広告にみられる取扱製品は次のようなものである。

English Log Books, German Log Books, Danish Log Books, Portuguese Log Books, Hong(Foreign or Chinese) Lists for Circulars, Shipping Orders, Bills of Lading, Leases, Forms of Will and Testament, Powers of Attorney, Compradores' Cheques, various sizes, Washing Books in English and Chinese, for Ladies and Gentlemen, Superfine Printing Ink, Red and Black Writing Ink, Steel Pens, Blotting Paper, Cards of all sizes and colors, Visiting Cards for Ladies and Gentlemen, Brokers' Contract Books, Opium Contract Books, Delivery Order Books, Household Expense Books, Cellar Books, Copying Books, Day Books, Cash Books, Ledgers, Quills, &c., &c.
(英語日誌、ドイツ語日誌、デンマーク語日誌、ポルトガル語日誌、回覧用「店」(外国・中国)リスト、船荷証、借用書、遺言状、委任状、買付人の小切手の各種サイズ、英語・中国語の紳士淑女用簡易会計簿、極上の印刷用インキ、赤と黒の筆記用インキ、スチールペン、吸い取り紙、あらゆるサイズと色のカード、紳士淑女の名刺、仲買人契約書、アヘン契約書、配達注文票、家計簿、セラーブック、コピーブック、日計簿、金銭出納簿、台帳、羽ペン、等々。)

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同上、梳沙印字館の広告

 居留地の商業活動に使われる日誌や帳簿には、罫引(ruling)印刷と帳簿製本の技術が必須だった。1841年創業の古い印刷所 Noronha & Sons の広告にも "Bookbinding and Ruling in all their branches, conducted by experienced workmen" とある。印刷・製本・文具の三点セットは居留地のような新開の商業地に特徴的な業態だった。しかし、梳沙印字館の職人は中国人も含めて植字工(compositor)のみ記載されている。

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同上、Noronha & Sons(左上)と梳沙印字館(左下)の広告

 製本を主とした工房は、ディレクトリー上ではすべて中国人の工房である。香港では1872年から1876年にかけて、祥盛(Cheng Shing)致盛(Chi Shing)祺盛(Kee Shing)来盛(Loi Shing)南生(Nam Sang)泰昇(Tai Sing)天成(Tien Shing)宏昇(Wang Sing)という八つの工房が活動していた。

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同上、香港の中国系製本工房

1875年の China Directory には祺盛の広告があるが、そこにも ”BOOKBINDER, STATIONER AND PRINTER" とある。印刷所の場合とは異なり、製本を上位に掲げた広告である。このあたりに製本中心か印刷中心かという工房の性格が表れているのであろう。

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The China Directory for 1875, China Mail, HongKong, 1875 内閣文庫蔵(E000414)

中国人の独立した印刷所は少数派である。同じ1875年 China Directory には Yuen Sinc の印刷所の広告がある。これも製本・文具・印刷の三種を兼業している。

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同上、Yuen Sinc の広告

上海美華書館の洋式製本師

 上海の製本師は "China Directory" には見出せない。しかし、『美華書館五十年史』(Gilbert McIntosh, The mission press in China : being a jubilee retrospect of the American Presbyterian Mission Press, with sketches of other mission presses in China, as well as accounts of the Bible and tract societies at work in China, Shanghai: American Presbyterian Mission Press, 1895.)によれば、1875年に北京路十八号に移転した美華書館には製本所(bindery)があった。Binding and Pressing Roomには10名の中国人職人がいたと記録されている。それ以前に美華書館の工場が製本所を設けていたのかは不明だが、1867年に印刷された『和英語林集成』は当地で洋式製本がなされていた。

 1900年代初めに下るが、『美華書館六十年史』(Gilbert McIntosh, A Mission Press Sexagenary: Giving a Brief Sketch of Sixty Years of the American Presbyterian Mission Press, Shanghai, China, 1844-1904, Shanghai: American Presbyterian Mission Press, 1904.)には、1902年から3年にかけて新しく作られた工場に中国式と洋式の製本所があることが報告されている。

欧米式の製本は中国式の製本より生産量が多く、急激に重要性を増しつつある部門である。
洋式製本室(foreign bindery room)で働く二十四人が上手い具合に収まっている。液圧プレス、針金とじ機、金箔押の機械は写っていない。右側に見える二人は、この部屋の親方的存在である。彼らが"長老"の役割を果たしているおかげで、年若い職人がもめごとを起こすようなことがない。左手奥には紙を切る者がいるかと思えば、折ったり、丁合したり、綴じあわせたり、布表紙をのりづけしたり、皮装丁したり、金文字を入れたり、というように、部屋の中ではさまざまな作業工程が同時進行している。
(ギルバート・マッキントッシュ著 宮坂弥代生訳「美華書館六十年史」、『印刷史研究』5巻1号(通巻7号)、1999.7)

 この記述で興味深いのは、洋式製本所を取り仕切っているのが、中国人の「長老」ということである。対照的に活版部門は R. F. Martins が取り仕切り、「ほとんどの植字工がアルファベットを理解している程度で、単語の意味を理解していない」とされている。欧文の識字力が必要な植字工に対して、工作的な作業が中心となる製本師が技術習得する際の障碍は比較的少なかったはずである。また、1870年代の香港ディレクトリーで独立した中国人製本師の工房が多かったのも、このような技術習得の条件が関わっているのではないか。

 独立した中国人製本工房が多かったもう一つの理由は、活版印刷よりも初期投資が少ないという点があっただろう。印刷所を名乗る工房は、上記三種の業種を兼ねていても欧米資本による印刷所が多かった。不思議なことにディレクトリーでは欧米系の独立した製本工房は見当たらず、欧米人の製本師も見つからない。欧米系の印刷所に雇用され、表に出てきていない可能性がある。欧米人の印刷技術者の名は多く見出せるだけに、この違いは際立っている。印刷技師に対する製本師の地位の格差を示しているのか、あるいはすでに中国人製本師によって駆逐されつつあったのか、今のところは判断できない。

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The China Directory for 1875, China Mail, HongKong, 1875 内閣文庫蔵(E000414)

 ヘボンは1867年に上海で『和英語林集成』初版の製本を済ませて日本に送ったが、一方で製本していない二部を持ち帰り、一部を米国に送った際に次のように述べている。

ミッション図書館に寄贈として拙著『和英語林集成』一部ハッパー博士に託しお送りいたします。上海からわたしが持ち帰った僅か二部のうち、一冊でまだ製本していないままのものです。
 わたしは本月十七日午後五時、わたしの仕事を終え、同夜、香港から横浜に向うコロラド号に乗り移るため汽船で上海を出発しました。ここで製本したものを送るよりも、御地でもっと立派に製本出来ると思います。
(高谷道男編訳『ヘボン書簡集』第二刷、岩波書店、1977、1867.5.23、横浜よりラウリー宛)

 ヘボンは「ここで製本したもの」に図書館に寄贈しうるような製本の水準を認めていない。帳簿製本のような実用製本の技術があれば、実用に耐える辞書や一般書の製本も可能である。しかし、本格的な工芸製本は難しかったのではないか。1860年代後半の美華書館の製本師が、居留地で実用製本を専ら身につけた中国人職人によって占められていたとすればなおさらであろう。

 それでは、日本の居留地の場合はどうだったのであろうか。次に横浜居留地の製本師事情を見てみよう。(この節つづく)

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