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書物の転形期23:パターソンの洋式製本伝習8:パターソンとは何者か2

19世紀東アジアの洋式製本事情

 東アジアの外国人居留地の製本事情もカナダの新開地と似通っていた。1840年代に開港した中国には、日本よりひと足早く洋式製本術が伝播していた。上海ではNorth China Herald新聞社が文具や書籍の販売、修復などの広告を出している(The North China Daily News, 1871.9.18)。居留地の商業活動に使われる日誌や帳簿には、罫引(ruling)印刷と帳簿製本の技術が必須だったこともすでに述べた(書物の転形期16、17、18)。印刷・製本・文具の三点セットは居留地のような新開の商業地に特徴的な業態だった。

 製本を主とした工房は、ディレクトリー上ではすべて中国人の工房であることもすでに述べた(書物の転形期16)。香港では1872年から1876年にかけて八つの工房が活動していた。欧文の識字力が必要な植字工に対して、工作的な作業が中心となる製本師が技術習得する際の障碍は比較的少なかった。1870年代の香港ディレクトリーで独立した中国人製本師の工房が多かったのも、このような技術習得の条件が関わっているのではないか。

 独立した中国人製本工房が多かったもう一つの理由は、活版印刷よりも初期投資が少ないという点があっただろう。ディレクトリー上では欧米人の印刷所は多いが中国人のものは少ない。一方、欧米系の独立した製本工房は見当たらず、欧米人の製本師も見つからない。欧米系の印刷所に雇用され、表に出てきていない可能性がある。欧米人の印刷技術者の名は多く見出せるだけに、この違いは際立っている。あるいはすでに中国人製本師によって駆逐されつつあったのだろうか。

 横浜居留地でも事情は似ている。欧字新聞社は横浜居留地で印刷所や文具店を兼ねていた。Japan Mail社から1877年4月30日開拓使宛に送られた『北海道地質総論』700部印刷製本費の請求書が、北海道大学に残されている。欧字新聞社によって居留地で発行された洋装本も以前紹介したようにいくつか現存している(書物の転形期17)。ゲルフのように横浜にも、欧字新聞社の製本に携わる無名の欧米人製本師がいたのかもしれない。

 しかし、横浜の新聞社でも中国人製本師に製本を発注するケースは多かったようだ。老舗の欧字新聞である “Japan Herald” も洋式製本の注文を引き受けると、中国人に委託していたという証言が残っている(石井研堂「明治初年のヘラルド事情」『新旧時代』2巻7号、1926.10)。伊藤泉美「横浜居留地における中国人の印刷業」(『印刷史研究』6巻1号(通巻8号)、2000.7)は、開港当初の横浜では印刷業を身につけた者は引く手あまたであり、そうした状況の中で香港や上海で印刷技術を身につけた中国人が進出してきたと述べている。そしてその中には、英字新聞社等に雇われるのではなく、独立して店を構える者もいた。伊藤論によれば、中国人の印刷業者は印刷・製本・文具の三種を兼業している。これは中国の居留地の状況と同様である。そして「初期の店はBook-binderと書かれた店が多く、一八七〇年代後半以降になると、Book-binderとPrinter(印刷)とStationary(文具)が併記される店が大半となる」という指摘は、中国の居留地で増加していた中国人製本師が日本に在留して印刷業へ商売を広げたと見ることができる。1870年の “Japan Herald” 発行のディレクトリー("Japan Herald Directory")に名前が見えるナム・シン(Nam Sing)は1880年までディレクトリーに記載がある。1872年 "Japan Gazette Hong list and Directory" 掲載の広告では「Book-Binding and Ruling done in the best Style and on Moderate Terms」とあって、製本とともに罫引きを行っている。ところが同年の "Japan Herald Directory" では、ナム・シンは "Lemonade Manufacturer" と記載されている。単なる記載ミスか、それとも居留地らしく多業種を兼業していたものか。移動したにせよ商売替えや多角経営を行っていたにせよ、製本師の業態の流動性はカナダの例に似ている。

 カナダの小さな地方都市の製本所にロンドンやアメリカから製本師が来たように、東アジアの居留地にも洋式製本技術を身につけた中国人製本師や欧米人製本師たちが国境を越えて移動していた。これは西欧列強の政治的経済的な拡大と優位によってコロニアルな場が世界各地に形成され、罫引きされたフォームで金や情報を管理する西欧型の情報管理術が世界に広まりつつあったことによるカナダからサンフランシスコを経由して来日したパターソンも、そのような大きな歴史の動きの中で製本師として渡り歩いた一人だったのである。

コロニアルな場の製本師

 ヘボンが1867年に『和英語林集成』初版を刊行した際、上海で製本したものに、図書館に記念として寄贈しうるような製本の水準を認めていなかったことはすでに述べた(書物の転形期16)。

 また、 “Japan Herald” は洋式製本を中国人製本師に発注していた。社長のブルックは「製本が出来て来ると、いきなり之を開いて、上からボーンとほうり出して見る、それで何とも無ければよいといふし、格好が少しでもをかしくなると、これではいけないといつた」。中国人製本師は「何時も苦い面をして見て」いたという(石井研堂「明治初年のヘラルド事情」)。この行為には中国人製本師の仕事への不信感が垣間見える

 実際にこの当時の中国の洋式製本には簡略化されたものがある。よく見られるのがケトルステッチを用いず、支持体に綴じ糸を巻き付けるだけで処理をした辞書である。これは『書物学』24号(岡本・木戸「解体調査からみた明治初期の洋式製本」、木戸「『仏蘭西法律書』『改正西国立志編』解体調査レポート」)でも触れたように、1870年代の日本国内で製作されたと思われる厚冊の洋装本にも散見される。中国人製本師を通じてこのような簡略化された技法が伝わった可能性がある。米国で議会印刷所の本格的な製本工房を視察した細川潤次郎が、印書局で欧米出身の製本師を雇おうとしたのにはこのような技術的な事情があっただろう。

"A Chinese and English vocabulary.2ed" 上海、美華書館、1877、ケトルステッチが無く、支持体に綴じ糸を巻き付けている。さらに二つの本体を綴じ糸で連結している。変則的な製本。内閣文庫蔵(E024090)

 印書局設立からほとんどの機器の購入先だった横浜のチップマン・ストーン商会は書籍販売業から始めたが、途中から機械類を中心にした輸入に商売の中心を移し、当初の商売をウェットモア(F. R. Wetmore)に任せるようになった。両者は同じ居留地28番で営業しており、1876年の "Japan Gazette, Hong List and Directory" に両者の広告が見開きに並んで掲載されている。実質的には同じ店で、やはり新開地らしい多角経営を行っていたと見られる。そして、印書局最初の印刷技師ボイントンやパターソンが雇用される際の保証人もまたチップマンだった。チップマンは設立間もない印書局に、機器だけではなく職人も斡旋していた可能性がある。

 パターソンが来日してから印書局に雇用されるまでには約半年かかっている。この間の彼の足取りはつかめないが、この期間にチップマンと何らかのつながりができたはずである。ウェットモアは罫引きされた文具も取り扱っており、文具製作を通じて知己となった可能性がある。また、チップマン商会は当初バンクロフト書店の出店のような位置付けだったので、バンクロフトが文具や書籍の製本師として送り込んだ可能性もあるだろう。ただ、いずれにせよパターソンは腕一本で渡り歩く独立した製本師だった。それはチップマンと印書局のつながりが解消された後も、彼が製本部門に雇用され続けていたことからも明らかである。しかし、一方で紙幣寮と雇用継続する際に「物品を加拿多カナダに送り売捌」く許可を求めていたという(『得能了介君伝』1921)。製本術で渡り歩きつつ、多角的な商売を行おうとする点は、カナダの小規模製本所や居留地の中国人製本師と変わらない。これが、19世紀のコロニアルな場所での製本師のみならず商売の常態だったと思われる。

 19世紀後半のカナダ・東アジア・政府印刷局の状況を補助線にして、パターソン像の肉付けを試みた。欧米の政治的経済的優位の状況は世界各地にコロニアルな場を生み出した。それは新世界の新開地であり、非欧米諸国の租界や外国人居留地である。そのような場では洋式帳簿や洋装本が、新たな情報処理技術あるいは情報の入れ物として必要とされるようになった。日本政府も実用的な技術として洋式製本の技術のすべてを手に入れようとした。分業化されていない家族経営的な小規模製本所で修行したであろうパターソンは、その目的にふさわしい技能を持っていたのである。そして19世紀にはそのような技術者が国境を越えて移動していた。御雇外国人というと日本政府が欧米から三顧の礼で迎えるという通俗的イメージがあるかもしれない。しかし、パターソンの場合は世界的な技術者の移動の中でたまたま日本政府に職を得たと見るべきであろう。(この節終わり)

※小文は、基盤研究(C)「近代日本における洋式製本の移入と定着」(課題番号23K00281)による研究成果である。


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