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書物の転形期19 パターソンの洋式製本伝習4:印書局の北米コネクション1

細川潤次郎の渡米

五月二日
○民部権少丞細川習米利幹地方ニ用ユル農具其他新奇ノ械器査検ドウグシラベノ事ヲ奉ハリ同国サンフランシスコノ展覧会ニ赴ク
『民部省日誌』明治四年辛未第四号、1871)

 1871年4月23日、後に印書局の初代局長となる細川潤次郎は、米国の農具や機械類を調査するためにサンフランシスコの博覧会に出張を命ぜられた。細川は土佐藩出身で高島秋帆に学び、維新後は1869年から開成学校の権判事を務め、同年の新聞紙条例や出版条例の起草にたずさわった気鋭の官員だった。細川は1870年8月に民部省に移ったが、10月に民部省は諸省の布告類を一括して印刷する設備を設けることを建言している。

御布告御達類其他一切ノ文書御一新以後漸々彫刻刊行相成世上ヘ公布発売致シ候ヨリ大ニ手記謄写ノ労ヲ省キ世人ノ智識ヲ博メ候儀不少就テハ尚一層ノ簡便迅速ヲ勘辨仕候ニ活字ノ外有之間敷既ニ当節長崎県於テ銅版活字相開候処殊ノ外人工ヲ除キ用便ニ適シ候趣承知仕候当省ノ儀ハ他省ト違ヒ府県触達ヨリ諸道駅逓布告ニ至ル迄日々夥敷殊ニ突然急事出来候節ハ一時間ニ仝文各通ノ書相認人少ナニテ毎々差支候儀候間右活版当省御備ヘ相成候様仕度代価ノ儀ハ支那上海ヘ御注文相成候ヘハ右中小活字并片仮名トモ相束ネ凡金五千両程ノ当リニ御坐候御許容御坐候上ハ太政官御布告類ハ勿論其他各省蔵版ノ書類ニ至ル迄都テ右ニテ取扱候ハヽ御用辨ハ不及申御入費モ相省ケ可申哉ト存候印刷場所ノ儀ハ御准允相成候上取調申上候様可仕候此段至急御沙汰御坐候様仕度候也
「民部省ニ活版器械ヲ整置センコトヲ請フ」『太政類典・第一編第五巻・制度・出版・爵位』、1870.10)

この建言に細川が直接関与したかはわからないが、新聞紙条例や出版条例に関わった経歴なども考えると、以下に述べる米国滞在中の印刷所への強い関心、1872年に彼が行った官立印刷所設立の建言までが一連のものだったことは十分に考えられる。

 この建言でもう一つ注目すべきことは、印刷設備の購入先として上海が想定されていることである。すでに述べたように、居留地を通して、上海の美華書館などから新たな情報テクノロジーが移入されていた。この時点の民部省も大勢に習い中国を念頭に印刷設備の購入を考えていた。

 細川は5月2日に横浜を発ち、同28日にサンフランシスコに到着した。渡米の顛末を記した『新国紀行』によると、到着後すぐに精力的に視察を始め、学校、図書館などを訪れた。特に印刷所には三たび足を運んでいる。最初は6月21日にある出版社の印刷所を見学している。

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『新国紀行』上、1883、内閣文庫蔵(186-0064)

又過書肆某氏見其印書機器数架由火力旋転小円軸過墨〻点活字面大軸過紙上則紙面皆印有機翻出頃刻可得千紙又有石版印刷処画師剞刔氏倶在其便捷真不可思議也
(『新国紀行』上、1883)

 ここでは、蒸気機関による活版印刷の生産力に着目し、また石版印刷所の画家と職人の技術を興味深く観察している。二回目は6月24日、更に大きな印刷所だった。

又過慕士其ボスキー氏印書房比前所観者更大主人示余一大冊内貼各国古今印本各一二紙見其旧者愈拙而新者愈巧嗚呼国之汗隆於此可知一斑印書之於文学所関至重而国之皇華非文学不能致之世之有責於教育者未宜以和凝板本之法為足也
(『新国紀行』上)

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同上。

ボスキー氏の印刷所で新旧の印刷見本を見せられ、活版印刷技術の進歩に感銘を受けている。その後の感想が特に重要である。細川は米国が進歩した印刷技術によって「文学」(=文を使う学問)を世に伝えていることが国力の増大につながっているのだとし、日本に「文学」が広まらないのは教育者がいまだに木版印刷に頼っているからであるとする。ここでは活版印刷の印字や版面の進歩が学問の教育効果と結びつけられている。この印刷見本の比較が細川により高度な技術の導入の必要性を意識させたのではないか。細川は後に官立印刷所設立の建言の初めに次のように述べている。

是迄一人モ活版ノ事業真正ニ相心得候モノ無之無法ニ活字ヲ製シ無法ニ相用来申候テ不熟ノ輩許多御掛相勤罷在不具古式ノ器具等横浜奸商ノ為ニ所欺大金ヲ以買取申者有之不狎ノ職人ヘ過分ノ給金ヲ出シテ相用ルノ契約有之然ヲ一局ニ聚メテ之ヲ使用セントセハ種々ノ困難ヲ生シ大弊ノ巣窟トモ相成モ難計
「官版寮新置ノ議」『公文録・明治五年・第一巻・壬申・正院達并課局伺(正院・各課・翻訳局・印書局・博覧会事務局)』、1872.9.15)

細川は、単に活版印刷ができればよいということではなく、正確な技術・新型の器具・熟練した職人の必要性を訴えている。米国の印刷所視察は、後に印刷技師、製本師ともに居留地ではなく米国から雇用しようとした彼の動機の始まりではなかっただろうか。

 三回目は8月6日、ワシントンを訪問した際に政府印刷局を視察している。

六日冒雨過印書局観植字印書装本諸事有手民数百人
(『新国紀行』下)

この「印書局」には印刷と共に「装本」の部署があった。翌年2月には岩倉使節団も訪れている。政府の印刷物を印刷発行する機関を、細川はここで直接目にしたことになる。後の「官版寮新置ノ議」では、印刷の部署とともに「装本ノ局」が提案されていた。

一装本ノ局
已ニ乾キタルノ紙ヲ集メ摺畳シテ綴付スルノ処機車ノ力ニ由テ堆積セル紙ヲ挟ミテ之ヲ截ツノ処截口ノ三面ヲ彩絵スル処表紙ヲ製スル処表紙ニ金字ヲ印スル処表紙ヲ糊付スル処書ヲ圧スル処等是ナリ
(「官版寮新置ノ議」)

 佐藤祐一「パターソン研究ノート(その1)」(『コデックス通信』1巻1号、1986.4)は、これを「洋式製本、なかでもくるみ製本の工程そのまま」と述べている。工業的な製本技術だった「くるみ製本」が米国の政府印刷局で行われていた可能性は高いだろう。ただ、「官版寮新置ノ議」で「官版寮」が政府と民間の印刷を共に請け負うという在り方についてはフランスの官立印刷局をモデルにしたと記されているので、細川は帰国から建言までの間により広く印刷製本の知識を得たものと考えられる。

 さて、印書局設立からほとんどの機器の購入先だったのが横浜のチップマン・ストーン商会(Chipman, Stone & Co)である。『大蔵省印刷局百年史』は次のように述べている。

また、この頃の印書局の器材の購入先が、ほとんどすべて横浜の米商人チップメン・ストーン商会であること、またそれらの購入がすべて当初、ボイントンの指揮によって行なわれたという事実は当時の関係資料の上にも、はっきりと現われ、細川建議とチップメン、ボイントン三者の関係は、あらかじめ用意された計画線上に展開されたもののように思われる。
(『大蔵省印刷局百年史』第1巻)

チップマンと細川が知り合ったのもサンフランシスコらしい。また、ボイントンはチップマンが保証人となって印書局と契約した最初の印刷技師である。チップマンは設立間もない印書局に機器だけではなく職人も斡旋していた可能性がある。そして同様にチップマンを保証人として雇用されたのが、W. F. パターソンだったのである。次にチップマンと細川、そして当時サンフランシスコ最大の書店だったバンクロフトとの関係について見てみよう。三者はある教本の出版を介して結び付きがあった。(この節つづく)

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