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文化を伝えるということ

「自由」という言葉は仏教由来で、
自ら由るという意味の言葉だ。

そもそも日本に、その概念のなかった「リバティ」を
「自由」とあてて以来、
何か束縛するものから解放されることを「自由」なのだと、
勝手に狭い社会システムの中に囲いこみ、
知らぬうちに思い込まされてきたのではないだろうか。

「自由」は自発的に主人公として生きることであり、
本来誰もが平等に持っている命のきらめきである。

便利なAI君の翻訳機で日本語→英語に訳す場合
日本語で表現する意味を英語に置き換えるわけだが
英語の文化で収まらない日本語こそ、
日本たるものかもしれない。

なので日本文化を言葉で説明しようとすることはなかなか難しい。

茶会をティーパーティといっても
節句をフェスティバルと説明しても
と全く別物になってしまうからだ。

言葉は生き物なので
多数の人が使って認知されると
本来の意味とは違ってもその意味がやがて定着してしまう。

外国語でなくても
同じ言葉を読み聴きしたときに
すべての人が同様に理解して感じ取れるわけではない。

声が大きいもの、
影響力を勝ち取ったものの考えが反映されていくと
それがあたかも正解であり、
本流である錯覚に陥りやすい。

日本の伝統的な世界の技術継承は
言葉で教えるのではなく、
自分で見て感じて学んでいくもので
それぞれの段階を経て受け継がれていく。

だからこそ日本文化では、
一子相伝や師匠から弟子へという流れが自然で
許されたもの、準備のできているものだから伝えられるのである。
不特定多数に広く、誰にでも拡散すると
さまざまな解釈がはびこり、誤解を生じ
本来、そのものを失いかねない恐れもある。

言葉や文字に由らない「不立文字」、
「行(おこない)」を大切にしてきたのも合点がいく。

明治時代よりもっと大きな
世界的な時代の変換期の中で
めまぐるしい情報が飛び交う今、

決してかたくなになることではなく、
あえて凛として媚びないことが
本当に必要な、大切なことを浮き上がらせる方法となるかもしれない。




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