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吉祥寺からっぽの劇場祭に寄せて

「からっぽ」を慈しむために〜空間と存在と想像〜
チーフ・キュレーター 綾門優季(青年団リンク キュイ)

0、情報

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日々、大量の情報が降り注いでいます。
主にSNSから。

TwitterのTLは政治とコロナに支配されるようで、個々の発言を追うようになりました。誰かの意見に容易に乗っかることには慎重になっています。これだけ事態が混乱し続けていると、私の意見がいつのまにか、誰かの意見とすり替わってしまうことがあるようです。
facebookは基本的に知り合いの言葉が流れてくるだけに、このような状況になってからはなんだか苦しくなってきて、先日アンインストールしました。またインストールし直すかもしれませんが、それはだいぶ私の気持ちが戻った時だと思います。今はまだその気持ちにはなれません。
LINEは割と以前と変わらない温度で接し続けています。今日、人と会話したのはLINEだけだったな、という日も多くなってきました。
noteはこれまでと別の社会的な役割を発揮するようになりましたね。海外のロックダウンの最中に、各々が何を考えていたのか知れることは、特に緊急事態宣言の期間中は、日本のメディアの情報に接するよりも有益で安心出来るものでした。
Zoomのやりすぎで、4月、5月とWi-Fiは通信制限がかかり、うまく声が届かなくなりました。電波が途切れ途切れになるので、相手の喋っていることを、想像で何とか補完したこともしばしばありました。

そして、日々、私は段々と、情報に疲れ、情報を求めなくなりつつあります。
世界中の悲惨なニュースどころか、日本中の悲惨なニュースさえ、それがただの情報に留まり、実感を持てなくなってきたことが何よりも辛いです。
情報を浴びすぎたのでしょうか、感情がうまく動きません。
情報から全力で逃げたい、何もない「からっぽ」の中で、一度、物事を考えたい。物事というか、物、について考えたい。
実際に触れる数少ない物のことを。
実際に行ける数少ない場所のことを。
そう願うようになりました。

精神をロックダウン出来る場所がほしい。
情報をひたすら浴びていても、それは世界の代替に決してなり得ないことを、次第に理解したからです。

こないだまで、劇場に行けないことへの喪失感が、ずっとずっとありました。
情報を得るために、劇場に通っていた訳では無いのだな、とつくづく実感します。

では、何を求めていたのでしょうか?

私はただ劇場に行きたかったのかもしれない。
たとえそこで演劇が上演されていなかったとしても。
それが現時点での私の仮説のひとつです。

今から記すのは、個人的に捉えている劇場の役割についてです。
私の独断と偏見に基づくものですが、ご容赦ください。


1、空間

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オンラインで埋められないものは色々ありますが、人とのコミュニケーションはZoomなどである程度、代替可能だと思われました。しかし「空間の中に居る」という感覚の喪失、これが私を欲求不満にさせました。

吉祥寺シアターであれば、舞台を観る前に必ず階段を上って、何度も眺めたサイン入りポスターを改めてまた眺めること、早く着きすぎて外の横に長いベンチに腰をおろして、寒空の下、開場時間が来るまで文庫本を読みながら待つこと。
そういった劇場の特性による個別の体験は、なかなかオンライン上での演劇では、盛り込まれることはありません。

2020年6月、吉祥寺シアターは何も上演する予定がないそうです。そこで本来上演されるはずだった公演のことを思うと胸が痛みます。そこには吉祥寺シアターそのものが保有する、魅力的な「からっぽ」がただぼんやりと広がっています。

その魅力的な「からっぽ」の中で、私は今、この文章を書いています。

吉祥寺シアターそのものが予め持っていた、だけど見落としていたかもしれない、この誰もいない「からっぽ」の中で発見した魅力の数々。
それをあなたにもお届けしたい。

この劇場祭では、吉祥寺シアターの特性に焦点をあて、魅力的な「からっぽ」で何が出来るのか、普段使わない脳を使って考えた、一見すると奇妙な、しかし空間の自由さを体現する企画が揃うはずです。まだ、みんなでウンウン唸りながら考えている最中ですけど。


2、存在

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吉祥寺シアターには、何も上演していなくても、一定数の職員が存在しています。これは他の複数の劇場でも同様の状況です。
吉祥寺シアターは、実際に職員が存在することを、Twitterで更新されていく劇場内の写真によって、実感します。
もちろん、写真を撮りだめておいて、時間差で公開している可能性も考えられるわけですが、そうではない、と信じながら、劇場にいる人々の確かな存在に思いを馳せるのです。

オンライン演劇を生中継することに意味があるのかという議論が既にありますが、私が意味を見出すのは、画面の向こうに人が絶対に存在する、と信じられた瞬間です。

これは舞台を観ている時に近い快楽であって、舞台に俳優が立って演じていることもそうですが、隣にも笑っている人がいること、なんだったら終演後にそっと扉を開ける人の気配についても、私は感動している。

私は、私以外の人が確かに存在することに、感動している。

これは物にも同じことが言えます。壮麗な舞台美術に感動するように、いつもと同じ場所にある劇場の柱にもまた、秘かに感動しているのです。

だから、劇作家に相応しい言葉ではないのかもしれませんが、物語の感動というのは演劇にとって優先順位の最も高いものではなく、根本的には、今日もこの世界に存在する人や物に感動するために、劇場に足を運んでいるのです。それは翻って、私は今日もこの世界に存在しているということを、意識させてくれることにもなります。

劇場は存在を強く伝えるうえで、並外れて優れた装置でもあるのです。


3、想像

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劇場の大きな役割に、想像を豊かに喚起する、ということがあります。

喪失していたもののひとつに、暗転があります。あれは物凄く偉大な効果でした。映像配信で新たに試みられた演劇の数々は楽しく拝見しましたが、画面が真っ暗になった時には、舞台で暗転された時のように、暗闇の中で想像を豊かにすることが出来ませんでした。家の電気をオフにしてみましたが、自らの意思で部屋を暗くすることと突然暗転されることはかなり異なるようで、ただの暗い部屋にある、ただの暗い画面がそこにあるだけでした。

空間は想像を増幅させます。実家で妙に広い部屋の何故か必ず隙間のある場所から、おばけが出てこないかと夜に、保育園児の私はひどく怯えていたものでしたが、あれも思えば、空間が私におばけを想像させたのです。そこに存在はしていないのに、まるで存在しているように錯覚してしまう。

私は演劇にそれを求めていたのではないでしょうか。
錯覚して、想像してしまうこと。
いないのに、いることになること。
暗闇の向こう側から、何故か、目が離せなくなること。

多くのお客さまが、吉祥寺シアターに来たくても来れない状況にあることを、私は承知しています。
ですから、せめてこの劇場祭では、「目が離せなくなる暗闇の向こう側」のようなものを、精いっぱいお届けしたいと思います。

戯曲を書き始めた頃だったでしょうか、「もっと観客の想像力を信じていいんだよ」と先生から忠告をいただいたことがありました。
本当にそうですね。ありがとうございます。
私たちは今、観客の想像力に全幅の信頼をおいて、魅力的な「からっぽ」の中から、この劇場祭を、始動させます。
よろしくお願いいたします。

いただいたサポートは会期中、劇場内に設置された賽銭箱に奉納されます。