肩身の狭かった「KY(空気読めない)」は10年経った今、もてはやされる。
ちょうど私が高校生だった時代。
紺ソをソックタッチで止めて、(ルーズソックスの流行は過ぎ去りつつありました)カーデはちょっと長めに。スカートはとにかく短く。眉は細くてなんぼ!mixiのあしあと見て一喜一憂したり携帯はPがいいの?SHがいいの?いやいやNでしょ。なんて議論したり。
そんな2006~2008年を過ごしておりました。
(2007)空気読めない=ちょっと恥ずかしい
ちょうどその頃流行っていたのが「KY(けーわい)」。
ご存知の通り、 空気読めない です。
当時は場の空気を読んだ発言や行動ができないことを、こんな言い方で面白がったりしていたものです。第1次政権時代の安倍首相の改革が民意に沿わず、”KY内閣”と評されたことで大人の間にも一気に認知が広まりました。
(私の父はかなり厳格なほうなのですが、当時突然、女子高生の私に向かって「お前KYだなぁ」と言ってきて心底驚いた記憶があります。それ大人が使うと違和感MAXなんですけどって(笑))
当時は”空気が読めない”ことはちょっと皆とずれていること・ちょっと恥ずかしいことでした。空気読めないって言われたくない、空気読める人でありたい。たぶん多くの人がそう思っていたと思います。
「空気を読む」価値観の変遷
ですが最近は「空気読んでよ」と言われると、当時とは全く逆の感情がわき起こるんですよね。全く逆。「えっ読まなきゃだめ?それ必要?」と思います(笑)
これは一体なんなんでしょうか。
10年前、「空気読めよ!」が正論だったけれど、今は「空気読む」は正論とは言い難い。むしろ…悪?そんな解釈の変化が日本に起こっている気がします。
もともと”空気を読む”ことは、同じ民族・同じ文化の中で生きてきた日本人にとっては至極当然の、難しくないことだったはずです。それが、その場にいながらにして世界中の情報が手に入り、多種多様な考え方の人間が増えてくれば、「空気を読む」なんて雲をつかむようなもの。空気…ってどうやって読むの!?です。
(加えて日本の超ハイコンテクスト文化も関係しているわけですがそれはこちらのエリン・メイヤーさんの著書に他国との比較と共にわかりやすく書かれています)
(2019)空気読めない=褒め言葉
2007年頃に、KYが流行し出したのはまさに必然。携帯電話やPCで、いつでもどこでもインターネット接続が可能になり、さらにスマートフォン・タブレット端末も登場。各SNSが活況をみせ始めます。
今までと比べものにならない情報量を容易に手に入れることができるようになり、価値観は多様化し、「周りと違ってもいいんだ」と自己肯定できるようになってきたのです。当たり前に・当然のようにやっていた「空気を読む」ことは当たり前でなくなりつつありました。
そして、異文化を理解し、多文化と共生していく時代となった今、「空気読んでよ」は何と時代遅れな言葉なんだと思わざるを得ません。
空気は読めなくて良いのです。私たちを取り巻く環境が変わっているのだから、読めなくて良いというよりも、無理なのだと思います。
機微を察する と 空気を読む
でも、ある意味「空気を読む」って、日本人が持つ美しい文化とも言えるのではないか?そんなに単純に時代遅れなんてレッテルを貼って良いのか?
…これにおこたえできるのが、「機微」だと思っています。
「機微を察する」ということは、相手のことを大切に思って、相手の気持ちを察することです。時代が・環境が変わったとしても、この大切さは不変です。むしろ、様々なバックグラウンドを持つ人達と共に生きるためには、今まで以上に必要なことかもしれません。
今あまり歓迎されない「空気を読む」のベースは、相手の都合に合わせる、がベースにあるように思います。都合に合わせることと、大切に思うこととはレイヤーが違います。
また改めて、機微を察することと空気を読むことについては、書きたいと思います。
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