楽器という普通

チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の中で、一番好きな演奏。
https://www.youtube.com/watch?v=MuHUA1iw2Po
ベルリンフィルと五嶋みどりさんの協演。

一楽章のはじまりの音を聴いて、
今日、初めて、根っこの音を聴いた。

ヴァイオリンは木の音だと思っていたけれど、
根っこの音までするのか?

ベルリンフィルの人たちにとっては、コンサートホールや楽器という非日常が、日常である。
ふつーに台所立っている感覚で、舞台に立っているように見える。
パソコン打つみたいに、ピッチカートしてる。
「はいはい」と返事するみたいに、スタッカート弾いてる。

いかに、ふつーであるかを、語るのは、難しい。
ふつうのなかでも、超ふつうである。だが、ふつうに「超」をつけると、程度が大きく感じられて、「平凡なこと」から離れてしまうのが、残念だ。

ふつうすぎる。ふつうだ。ふつうである。当たり前である。

楽器という特別なものを、持っているという意識でない。
特別なものを、咥えているという意識ではない。

楽器の木が、身体の神経という神経に、根を生やして、枝を伸ばしている。
楽器が身体に、時間に、文化に、家族に、国に、風土に、根付いている。

いや。根付くでは、生温い。
楽器とは、神経であり、身体であり、国家であり、文化であり、季節であり、空気であり、宗教であり、おばあちゃんであり、家族であり、食べ物であり、ベッドである。
いのちそのものである。

手が。
五嶋みどりさんの、何度かアップになる、指先が、楽器を弾く、手になっている。
職人さんの手。
楽器の手。
バチのよう。
楽器に導かれて。
手とは、すごいのですね。
このように、変化(へんげ)するものなのですね。


言葉では、みなさんに、伝わらなかったかもしれないが、
今まで以上に、楽器が、近くに感じ、一体となったような瞬間だった。

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