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メディアの劣化を憂う

みなさんにとってメディアとはなんでしょうか。

今回は僕が一番に思いつく、テレビについてお話ししたいと思います。
(本当ならmedia=媒体という言葉からアプローチして考察していきたいものですが、スキップして)

テレビは、多くの家にあり、影響力が強いと感じています。

社会人になるまえくらいの若い人なら、多くが実家に住んでいるでしょう。
そして、その実家にはテレビがあるのではないでしょうか。
(僕の実家には2台あります)
また画像と音が同時に出てくるテレビは、本や新聞のようなテキストベースのものよりもはるかに”わかりやすい”し”伝わってくる”のです。
ここで見たものはみんなの常識。(実際に視聴者が多いとすればそうなります)


みなさんはテレビを見ますか?

また、テレビを見ないという人が周りにいますか?

僕は以前、知り合いから「テレビを見ないやつなんて変態だ」と言われました。

僕はテレビをほぼ見ません。

その人にとって僕は変態でもどうでも構いません(笑)
そもそもその人は「自分と違う人をただ否定したい」だけで、僕が実際に「変態であるかどうか」には興味がないはずです。

● 自分がテレビを見なくなったころ

僕がテレビを見なくなったのはいつ頃からでしょうか?

記憶している限り、大学での勉強や活動が忙しくなってきた頃かと思います。

その頃はまだ実家で暮らしていて、帰宅すればテレビがついているのは当たり前。親がテレビを見ているからですね。

そんなのは当然で、あんな大きなテレビを買っておいて使わない方がもったいないですよね。なにも映らないディスプレイをデカデカと部屋のど真ん中に置いておく理由が見つかりません。

すると、用もないのに、なんとなく「テレビをつけておく」という行動が当たり前になります。あるいは家族の間の無言が少し耐えられなくて、寂しさ紛れに音を流しておくという状況もあったかと思います。
(僕の小さい頃、無言がつづく状態とはなにか喧嘩や言い合いをしている時に多くありました。端的に言って気まずい状態です。)

ただ、テレビで映っている番組を見るうちに、だんだん「うーん!時間の無駄だ!」と思うようになります。なぜでしょう?その時は深く考えなかったのですが。

やるべきこと、やりたいことが他にあるのに、テレビを見ていると時間が過ぎてしまっている。
ご飯を食べながらテレビを見ていて、「ごちそうさま」という。
その後、ずるずるとその番組を見続けてしまう。
気づけば22時!
「あー、もうこんな時間。明日の準備まだしてないのにー!」

これは僕のテレビの見方に理由がありました。
見たい番組を能動的に視ているわけではなかったのです。

ただ映っているから視界に入ってしまう。
気づけば見ている。

僕とは異なり、僕の弟は能動的に視ているようです。
「お笑い番組」をレコーダーで録画しておき、ためておいたものをあとから視聴する。
また、両親も「韓国ドラマ」を同じように選択して視聴している。

どちらも番組をコンテンツとして楽しんでいるようです。
そうすると、もはやコンテンツさえよければ、視聴方法はなんでも良いのではないでしょうか?
視聴方法はスマホやタブレット、パソコンがあります。テレビの画面でYouTubeが見られる機能なんかも当たり前になってきました。
テレビでテレビ番組を見るという行為は、テレビでしか見られないから、テレビの方が楽だからという理由だけになっていきます。

こう考えると、やはり当時の僕は、テレビを受動的に見ていた。
だからこそ入ってくる情報を取捨選択できていなかったし、その情報が知識として定着しづらかったのではないでしょうか。

ところで、このテレビ番組とはどのようにして僕たちのところまで届くのでしょうか?

メディアという言葉をテレビ局にしぼってみますが、自分のわかる範囲で想像してみたいと思います。

視聴率をなんとしてでもとりたいテレビ局

よく、テレビ局は人々の興味を引くように努力して、各社で視聴率を争うと聞きます。

どういう構造なのでしょうか。想像してみます。

テレビ放送はテレビを持つ人にとってある意味インフラであり、いつでも番組を視聴できます。
そこにはコマーシャル(CM)という広告が挟み込まれています。
テレビ局の放映する番組を見てもらえる回数が増えれば、CMが見られる回数もその分増えることになります。
CMとは、スポンサーがテレビ局にお金を支払うことで、テレビで放送してもらえる広告です。(ということはテレビ局にとっては収入源となります。)
そのCMが人々に影響を与え、人々はその商品を購入したり、サービスを利用したりします。
そのおかげで、そこに広告を出しているスポンサーは売り上げが増えます。
(これは先日久米宏さんもラジオでおっしゃっていました。)
テレビCMを出して売り上げが増えるのであれば、継続してテレビCMを出していきます。
それが度重なると、メディアには資金が集まっていきます。
ここで前提となっているのはテレビがたくさんみられていることです。
逆にテレビ自体の視聴率が低ければ、CMを出してもスポンサーの売り上げ向上は期待できません。


したがって、テレビ局は業界で生き残っていきたいなら、視聴率を積極的にとって、スポンサーを多く付けていくというのは当然の選択となります。
(一方、スポンサーはより効果の高い媒体に宣伝を出せばよいので、テレビCMは一つの選択肢に過ぎず、他にも駅前広告、雑誌など、はたまたYouTube広告も選択肢に入るかもしれません。)

各社テレビ局によってそれぞれメディアとしての倫理観、理念、方針が異なるはずですから、世の中に放送するのに適切かどうかという判断を通じて、制作する番組や放送内容を決定します。

しかし、この判断が適正に行われているのか
これは疑問視せざるを得ません。

個別の問題を取り上げてみます。

最近、あるリアリティ番組での過剰な演出により、視聴者のSNSによる煽りや誹謗中傷を引き起こし、出演者が自死に追い込まれたという事件がありました。

テレビ局は、視聴率のためならなんでもします。その番組を放送した結果、どのような影響が社会にあったとしても責任を取りません。

これでいいのでしょうか?

果たしてこの姿勢は、メディアとしての倫理観、理念、方針に沿っているのか?そして、その方針と番組内容の一致は誰がチェックするのでしょうか?
会社なら社長でしょうか?それとも現場の担当者でしょうか?はたまた現場監督者でしょうか?

傍から見ると、この不自然な状況に気づいた時点で誰がストップさせてもいいはずです。「これはまずいでしょう。やめたほうがいい。」と。
しかし、そうした抑止力は働かなかった。あるいは、誰かが言ったかもしれないが、かき消された。

仮に現場担当者が「こんなのやめましょうよ!」と言ったとしても、それがかき消され決行されてしまえば「上がやれと言うから仕方なく…」とその人の意識も低くなっていきます。
これだともはやここで働く意味はほぼ皆無。ただの労働力に成り下がります。機械がやっても同じになってしまいます。

以上の想像はあくまでも仮説ですが、もし制作の現場がこのような職場環境だとすれば、倫理感に基づく当たり前のことが当たり前ではなくなります。

僕は、誰でも人間を人間たらしめる感情を押し殺してまで働いて欲しくないです。

テレビ番組制作の現場で働く若い人達には、ぜひボトムアップの力を発揮しても負けないような状況を作り出していって欲しいのです。なんとしてでも。

ここで懸念材料なのが現代に特徴的な若い人の希薄な人間関係です。
さらに、若い人にある熱いエネルギーが見えない大きな力によって無力化されてしまっているように感じます。この力はいわゆる大手企業の特徴の一つではないかと考えています。

大手企業の組織的課題

大きなテレビ局は、いわゆる大手企業にカテゴライズされます。
これも想像でしかないのですが、年功序列体質で、力のあるおじさんたちが重役を務めている。
新卒で入っても、上が詰まっているからなかなか昇格しない。
そのイメージから大きくずれてはいないのではないかと思います。

参考までにキー局の役員一覧を見てみると、まさしく「年功序列」と「男性社会」を具現化した状況が見られます。
この中に、女性や外国人が入っていれば世の中の多様な需要に対応したテレビが実現できるはずですが、そうはなっていない。
また若い社員が役員になることは難しいものなのでしょうか?
仕事のできる、能力の高い社員により大きな責任を持たせて大きな仕事をしてもらえば、はるかに会社の利益につながりそうだと考えませんか?

あるラジオ番組では次のような背景があると聞きました。

テレビ業界では現場担当者レベルで「世間から叩かれる恐怖」と闘っている。だから叩かれないように“無難”とされる情報さえ出しておけば叩かれることはないだろう。

だから誰からもお咎めのない、誰でも知っていること、表面的な情報を出します。また長いものに巻かれろ精神で、大きな権力に対して持ち上げるような報道をします。

それが影響してか、政権側もメディアが政権について否定的な報道をしないよう、メディアチェックをして言論統制をしようと圧力をかけています。なんと恐ろしいことでしょうか。もはや民主主義ではありません。

そうしたら、どんどん風通しが悪くなっていくじゃないですか。
どんどん倫理観が欠けた人々が再生産されるではないですか。

少なくとも自分の子どもたち世代には、この閉塞感を残したくないと僕は思います。


余裕のない私たち

わたしたちの中には、いろんな意味で苦しい人が多いのだと思います。

金銭的な苦しみ。若者は特にお金がないです。
精神的な苦しみ。自由な発言がしづらい?ストレスを溜め込みやすい。人間関係が苦手?

どうでしょう、他にも苦しいことがあるかもしれません。結局のところ余裕なんてないよなぁと思うのです。(でも余裕のない中、頑張って声をあげている人たちもいます!)

特にお金については、個人の力だけではどうもならないことが大きいのではないでしょうか。
(国際的な市場の状況も影響しますし、国内の経済政策によっても景気が大きく左右されます)

若い人は、お金がないから、自分の考えにそぐわない仕事でもするしかない。ここで仕事を辞めたら、次に仕事につけるかわからない。だから不安感があるのでしょうか。

この状況で、若い人の中から「自由で、野望をもった人」なんてなかなか出てきません。現状は、逆に、閉塞感があり、自由なことを言えない。
自由な発言をすると叩かれる、大人に潰される。これが経験を通じて常識となっています。
(人によっては親からの影響も多分にあると思います。)

自分の目の前の状況に余裕がないのに、周りの事とか大きな共同体のことなんて考えていられないと思います。
僕の場合は今、少し余裕を持てる状況にあるからこんなことが言えるのかもしれません。
けれど、すこしでも自分の働きかけがきっかけとなって周りの人たちの意識が変わって、少しでも自分たちの生活が豊かになれば幸せだと思います。

これからどうしていけばいい?

昔、知り合いから「環境のせいにするのはだめだ。かっこわるい。」と言われました。

それがしばらく自分の頭の中に引っかかっていました。

今では「環境のせいにしてもいい」と思っています。正確に言うと、自分の行動しない理由を「環境のせい」にしておくことがダサいだけであって。

僕が考えているのは「今の環境は明らかに悪い」という事実。だから、この環境を変えるために行動しなければならないんだという焦り。環境というのは部屋かもしれないし、散歩道かもしれないし、自治体かもしれないし国かもしれない。

とにかく今僕ができる事は、現状維持プラス、勉強して考えて発信しての繰り返しだと思っています。義務教育では少し残念な教育を受けてきてしまったなぁと思います。特に歴史を軽視してきました。20代も後半なので、30代への投資を続けます。ゆくゆくは個人で完結せずにもっと社会や共同体との結びつきを感じながら暮らしていきたい。そして、自分の子どもができるときにはこの社会でサバイブしていくための知恵を一緒に身につけていけるよう今から準備をしておきたい。

自分が身につけてきたことを少しでも社会に還元していけるように今できる努力を続けていきたいです。

明日は東京都知事選。結果がどうなるか…不安と期待が入り混じっています。見守りましょう。

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