第七龍泉丸との遭遇

「先生、僕は学校を辞める気はない。どれだけ貴方が嫌いでも、僕はこの世界で生きなければならないのですから」
 思い上がりだ。自らの言葉に、そう思った。


 皆が土を踏み付ける音は、我々の心を映す様にして僕の耳まで届くのである。大いに乱れた足音、地表を捨てた人類が飢えと疲労のためにいま一度下を向いてただ歩いてゆく。昔に聞いた教師の言葉が、稼働をやめた脳に直接響いてくるようである。
「極楽は空に近く、地獄は名の通り地の底だ」
 たしかに、彼は間違ってはいなかった。

 派遣軍の第十二連隊。旧米、旧露人にて構成された混成部隊だった。五年前に信濃水源などを発見した先鋭たちの集まりも、過酷な世界の底でやがて衰えていき、いまとなっては人員のほとんどが老兵や新兵となった。国民医学校を卒業したばかりの僕も、その例外ではない。
「軍医殿、気付け薬をくれんか......」
 正面を歩いていた老兵が、膝をついて言う。靴の裏には汚染土がべったりと塗りたくられていて、次第にそれは重力により、元の地面へと還ってゆく。まるで哀れな生物のようにだ。
 ポーチの中をまさぐるふりをした僕は、小袋を取り出して老兵の口元に当ててやる。必死の形相で口をパクパクと動かしたと思えば、男はただ一言呟いて、そのまま硬直してしまった。
「あぁ、お母ちゃん。甘い菓子だなぁ......」
 脈はない。目の光も失われている。
「アキオ! 進め、進むのだ」
 いつまでも男の首筋に手をやる僕に、連隊長がそう叫ぶ。粉末が残る小袋を拾い上げると、ビニールに書かれた青色の文字を決して見ないようにして、再びポーチの中へしまう。
 ──黒砂糖。分かっている、分かっている。誰も助けてやれない、自らも救われない。ただ気休め程度の物資を持って、僕は医者の使命が分からぬまま、ただ地表に足跡を残してゆく。
 少年の頃の記憶。高度都市群にて喝采された派遣軍の活躍は、一部の民衆から批判的な声をともない、我々ひねくれた子供たちに届いた。ただ一人、軍人を父にもつ友人だけが、彼等の掲げた正義を信じたのだった。僕らは、どんな理由があって花火を打ち上げたのか、そんな事はすでに記憶の隅に追いやられていて、今ではあの空を舞う色彩に何の意味が込められていたのかさえも覚えてはいない。分かっているのは地を這う派遣軍の理解されぬ苦悩、馬鹿にしていたはずの善意が生み出す、生を凌駕した力、それだけだった。


「お前は我が隊ただ一人の日本人だが、アキオより優れたアジア人を、私は見た事がないよ」
 特設キャンプにて、連隊長は口を開く。僕は数日ぶりの食料も喉を通さずに、故郷より遥か遠い位置から、浮かぶ月を眺めていた。高度都市群の隙間から見えるそれは、欠けてはいるものの、見事な明かりをもつ月だった。
「ですが連隊長、僕は部隊に配属してから、二十人に下らぬ者たちを見殺しにしたのです」
「違う。私たちは、物資の揃わない中で過酷な軍行を進めてきた。彼等は汚染された土でなく飢えや水不足により生を散らしたのだ。決して君が悪いべきではない」
「......では、我々が無謀な歩みを止めないのは何故なのでしょう」
 連隊長は少し黙った。短くも、深い沈黙。
「民衆のためだ。家族のため、未来のためだ」
 無言の後に語った彼の言葉は、果たして僕に向けられたものだろうか。自らを慰めんとするものだろうか。分からない、分からないのだ。

 特設キャンプを出て、我々は歩みを始めた。いまが何処かも不明瞭であり、当初ユーラシアの大地を踏んでいた第十二連隊は、目的地はおろか目標すらも忘れて、前に延々と広がる無限の土を歩み続けていた。
 油断すれば泥に沈む片足を見て、僕はふと同期の友人を想った。
 ──奴等も同様に、各地へ派遣されたに違いない。専門的知識がある若者は、まず徴兵などを逃れることはできないのだから。
 旧友たちは飢えに苦しんでいないだろうか。友人の一人は、父と同じく派遣軍への道を進んだはずだ。旧アジア圏に常駐する東亜総軍の、高級参謀候補として赴任する旨を聞いた。ほかの者も、技師などの立場で最前線におもむいているだろう。......しかし、明確な敵がいないにもかかわらず最前線とは妙な呼び名だが、仕方がない。いかなる軍律も、旧世代の文化を踏襲せずにはいれないのだ。それが世界の弱さとなっているに違いない。
「全軍、止まれェ!」
 先頭の老兵が声を荒げた。情けなく広がった軍列から首を伸ばしてみると、我々の目前には油で汚れた得体の知れない生物の群れが。茶色の毛並みをそろえた獣は、正面に立ちすくむ肉の塊──つまり、僕等のことたが──を見て、唸るように喉を鳴らしたのだった。
「発砲用意!」
 駆けつけた連隊長がそう叫んだとき、獣たちは一斉にこちらへ走り出し、前線の衰えた老兵たちの足や腕をめがけて口を開いた。
「退避、退避だァ!」
 もがき苦しむ先頭の瓦解する姿を見て、連隊長は我先にと後退を始めた。流れに押されるまま走り始めた我々は四方八方に逃げ惑い、近くの岩場に潜んだ僕をふくめて、散り散りの体となってしまった......。あぁ、連隊長殿。あなたもひ弱な僕等を見捨てるというのか。


 どれくらいの時が経ったのか。周囲が静まり返ったあとも、ジメジメとした岩場の陰で息を潜めていた。老兵の皆はどこへ行ってしまったのだろう、経験のない若年兵は皆を捨てて遠くまで逃げてゆくに違いない。そんなことを考えている内に、身体の芯まで地の冷気にやられてしまうようで、酷く疲労していくのを感じた。尻に手をやると、ぬかるんだ土の感触がする。このまま汚染に身も心もやられてしまい、僕は魂ごと地表に溶けてしまうのではないかと恐れ入ってしまった。
 沈黙。そんな静寂の後に、誰かのふざけた声が聞こえる。幼い少年の声だった。
「こちらへ来て! どうか助けてくれ。こちらへ来てくれ! 僕は日本人だ!」
 遠くから、馴染みある四肢の生えた人間たちが、こちらを眺めていた。しばらくして、彼等はゆっくりと僕の近くへと寄り、そして驚く事にこちらに馴染み深い言葉で──優しく喋りかけたのであった。
「へぇ、兄弟。運が良いや。三嶋君と同じく、あんたも此処へ漂流してきたんだ」
 子供たちは、まだ語る。
「兄弟! あんた、実に運が良い。外の世界から救いを求めてやって来たんだろう? 排他的な世に嫌気が差して、このユートピアまでをやって来たんだろう」
 彼等は肩に灰色の塊を乗せながら、なおも軽口を叩くと見えた。僕は、その正気の沙汰ではない言葉、行為に、深い疑心感を抱かせた。
「第十二連隊、旧日軍医だ。お前たち、何故そんな物を担いで地表を歩きまわっている?」
「いやぁ、兄弟。この国には優劣も、順位も、自信も個性も尊厳も、何も必要としないのさ。皆が平等に石畳を置いて、ただ世界の幅を広げる事で生の充実を得る国。ほら、感傷的になどなるものか。澄み切った青空、晴れ晴れとした僕たちの笑顔を見てごらんよ!」
 灰色の石畳を軽々と持ち直した少年たちは、僕に一抹の不安も見せず、彼方への......未だ石畳が敷かれていないだろう、遥か彼方への旅を続けるのであった。

 ──地面が穢れているならば、石を敷き詰めれば良いのさ。

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