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「サスペンデッド」

とあるプログラムの一つである本作は、2月に青山にあるゲーテ・インスティトゥートのレジデンスで上演された。

はじめに

 鑑賞者は本館で受付とレクチャーを終えたあと、レジデンスに誘導される。レジデンス到着後、ヘッドセットやフェイスマスクを装着する。その際に、VRによって映し出される光の粒を追いかけるよう指示される。光の粒を追いかけることにより、各部屋を巡り順番に映像を観ていく仕組みになっているのだ。部屋の中には、本作にまつわる小物や家具が散りばめられている。これによって、鑑賞者は物語の中に半分身を浸けた状態で作品をみることになる。作品が終わると、鑑賞者にはヘッドセットを取る事が促され、部屋の中を観て回ることが許される、というのが全体的な流れである。

ヘッドセットとVR/AR


ヘッドセットを着用後、まず感じるのはヘッドセットの物理的な重さだ。頭全体を押さえつけられ、不自由ささえ感じられる。頭がだるい、視界がぼやける、気を張っていないと何処に行けば良いのかわからなくなる。その感覚は、不安や恐れ/悩みを抱えているときの身体的な感覚とよく似ていた。

ARの技術によって、各部屋に移動すると映像が浮かび上がる仕組みになっている。光の粒を追いかけて、場/物にまつわる記憶/記録の断片を集めていく。この感覚はフラッシュバックに似ていた。(似た幼少期の記憶がある人の中には、同期するように呼吸が乱れた瞬間があったのではないだろうか。)

呼吸


「呼吸」はこの作品の中でもっとも重要な表現のひとつであったように感じた。光が豊かな冒頭の様子とは異なり、中盤から後半にかけては、暗がり部屋の中に蔓延する死・病の気配が特に印象的であった。特に、帰宅後の少女が電話をかけるシーンの呼吸の音と時計の音は、得体の知れない病の気配を察知しながらも、どうしたらいいのかわからない子供の不安を見事に表している。

近づいて、離れて

本作にでてくる少女は、病める母を眼前になにも出来ずに気遣いしかできない。母の時折見せる優しさに嬉々としながらも、反抗する素振りを見せる一幕もでてくる。くなるが全てを許したくなる瞬間。近づき、遠のき、を繰り返す複雑な心の揺らぎを鮮明に表している。
中盤の母が「ねえ、吹いて」「やっぱ吹きたくない」
という会話は、普段気を使っている少女が唯一見せた反抗の一幕であるように感じられた。そして、その直後の夕飯時「なにか手伝おうか?」と声をかける一幕は、子供の心の揺らぐ様子を鮮明に表している。

ヘッドセットを取った後

鑑賞後、空間を見方が180度変わってしまったのも印象的だったことの一つである。これは会場と映像がリンクしているからこその効果であり、映画では叶わない演出だと思った。鑑賞後に各部屋をまわることが許された。ヘッドセットを取り、モノクロの世界から開放された鑑賞者が向き合う世界は、かつてそこに居たでろう母子の微かな生の息遣いが残る世界。とても寂しく、虚しくも暖かい世界だ。そこに居合わせた人々は、先程まで映像でみていた母子の息遣い、あるはずのない温もりを各部屋/モノに感じるのだ。たったの30分で場が異化してしまったことに驚いた。

感想

私は、この作品を観て序盤は心が苦しくなった。自らが体験したことのあるものを、こんなにも美しく/綺麗に表現されては堪らない、とおもってしまったからだ。実際はもっと暗く、決して明るい記憶ではないから。しかし、作品を観終わったあとはそのことは跡形もなく消えていた。心の傷を癒やすには、そのことに向き合わなければならない。その作業は辛く、痛い。この作業を、この作品を見て経験したのかもしれないと思った。誰にもわかるはずがないと強がってきた自分を受け止めてくれた気がした。

幼少期に親に「大丈夫」と嘘をついた人はいないだろうか。親に迷惑をかけないことが、自分のできる唯一の手段だと信じたことはないだろうか。まだ、その背伸びをして笑いながら心で泣いてはいないか。そういう人は、ぜひこの作品を見てほしいと思う。かつてこの少女だった人は過去を、現在進行形な人は懸命に生きる今を、優しく受け止めてくれるだろう。

「海よ、私を受け止めてくれる?」

本作は、改めて「モノ/場が強く記憶と結びつき、いかに大きな力を持つのか」を、対極と思われていたVR/AR技術の射程から示した作品であった。

ゲーテ・インスティトゥート/東京ドイツ文化センター
2月11日〜2月28日


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