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『気にしすぎる自分』と向き合う

ここ数年で マスク生活が当たり前となった。今ではマスクの着脱は自己判断となっているが、どうも外すことができない自分がいる。コロナ以前は、インフルエンザの時期や受験期といった一定期間着けることがほとんどだったマスク。それまでは全くと言っていいほど素顔を晒すことに対して抵抗がなかった。しかし、長い期間マスク生活を続けていくうちに マスクそのものが生活の一部となり、自分の中で服を着る・靴を履くレベルと同じ位置づけになった。自分にとって外出するときマスクがないと不安・・・そんなところまできているのも事実。



人目を気にせずにマスクを外せるのは夜の時間帯。やはり ずっとマスクをしていると息苦しさもあるし、新鮮な空気を思いっきり体内に取り入れたいという気持ちがでてくる。空気吸いたいなら昼にでも外せばいいじゃないかと思われそうだが、それが自分にとってはそう簡単なことではないのも事実。みられている意識が自分自身の感情や行動を支配しているのかもしれない。



バイト帰りの夜の時間帯なら、その願いをかなえることができる。基本的に交通量が少ないからだ。とはいっても、近くを人が歩いていないことや車が通っていない状況が確認できてようやくマスクを外している。街灯は大丈夫だけれど、対向車がやってくるときは またマスクを着けている自分がいる。ここまでして素顔を見られることが嫌なのかと思うくらい……変な徹底をしている。



ほぼ無音状態の静かな環境の中に身を置き、夜空を見上げ、綺麗な星を眺めては癒されて、植物たちの香りを感じては癒され、澄んだ空気を体中に運び 細胞ひとつひとつがスッキリとキレイになっていく感覚を味わうのが好き。



他人は人に興味がなく 案外 自分を見ていないといわれる。知識として 頭では理解はできるのだが、どうしても周囲の目というか何というか、アンテナを張ってしまう。一歩外を出れば いつも警戒状態のような感覚だ。周囲から話を聞く限りだと 本当に 人は周りのことを気にも留めていないのだろう。ただ、それでも他人の目に意識がフォーカスして、他人の世界の中の住民として、他人の価値観や好みに合わせようと生きてしまっている。ふりかえってみれば、今の時期に限らず、ずーっと、ずーっと昔からそうだった。多分 幼い頃に何かキーとなるものがありそうな気がするが……。


よく覚えているのは、こういう話を友達にすると「気にしすぎ」「自意識過剰」といわれた。ネットで調べてみても わかる気はするのだが、なかなか腑に落ちない。記憶があるないの年齢のうちに 環境によって形成された性質は自分の武器となっている。今は ネガティブな物事に焦点がいっているから 見えにくいだけで 必ずポジティブな何かがあるはずだと、悩むたび自分にいい聞かせている。周りの友達の中で 自分と同じような感覚を持っている人をみかけないので 自分は変なところで躓いているだけなんじゃないかと思ってしまう。でも先日、マスクを外すことへの抵抗感や空気を思いっきり吸いたいという気持ちをお互いに理解できる人に出会えて嬉しかった。


少しずつ慣らしていかないといけないなぁと思う最近。前までは気にしていなかったのに今では……というものは結構増えた気がする。それも大学生になってからというもの。。個人的には 先程挙げたマスク、それにズボンも。半ズボンを履いたのは何年前だったか。。。どうして半ズボンを履いて外を歩けなくなったかというと……足の毛。美容系の情報をみていると、脱毛だのすね毛だの飛び交っていて、やはり無いほうがいいのかなと考えることが多い。童顔だと(周りは言うが自分は認めていない)毛って相性的に変かなとか、生やしているメンズはアレなの?とか……。いろんな価値観を持つ人たちがいるこの世の中で、全員が 太腿からふくらはぎの毛は悪ですみたいなことはないとは思うが(信じたいが)……。


過剰に周りの目を気にしてしまう理由を考えている中でひとつ、こたえらしきものをみつけている。それは恐怖心。嫌われるのではないか、変に思われるのではないかといった気持ちが、こうありたいという自然のあり方よりも優先されている気がする。ネガティブな結果を招かないために、不安に突き動かされて意識・行動してしまっているようにも思う。不安に駆られる原因のひとつとして、SNSなどのツールがあるのかなと。大学生活を悔いのないように、よりよいものにするために・・・という気持ちで様々な先輩たちの情報に触れていったものはいいものの、その純粋な好奇心を求めたところの中には必要以上に不安を煽るものも含まれる。そのような不安要素を含んだ情報に多く触れていると、回避しようする自分がでてくる。尖っていた石ころが、だんだん角が取れて丸くなっていく。誰がみても綺麗だねといわれるような、認められるような、好まれるような石を目指そうとする。色々な目の中で生きていたら、都合の良い人という認識となり、対人関係もうまくやっていけるかもしれない。恋愛もファッションも一定を保ち、マイナスの領域には至らないかもしれない。他人の世界の中では、認められている、受け入れられているのかもしれない。


違いがあるからこそ人は惹かれ、興味を持ち始める。自分が思っているほどに案外 他人は自分に興味がないのは感覚的にわかっていくことで少しは軽減できるかもしれない。町の背景と化する道を選ぶか、それとも……。自分という一つしかない世界に、自分が主人公として、しっかりと自分のことを受け入れてあげること。人にはそれぞれ好き嫌いがあり、それは食べ物だけでなく人にも言えること。嫌い(不快)と感じてしまう背景には、過去のトラウマやアニメ・ドラマの影響を受けている可能性がある。好き嫌いがあっていい。何か目的があるのであればいいとして、なんでもかんでも自分の気持ちに反して変える必要はない。自由でいい。


他人軸・周りの目を気にしすぎて生き続けてわかったことは 順応性がある ということだ。いわばカメレオンのようなもので周りに同化することができる。対人関係においては武器になるスキル。本当の性格というのはコレといった固まったものではなく、状況に応じて変えているのであれば、どんな場面の自分も、自分自身である気がする。そういう意味では、カメレオンのままでいいのかもしれない。もしも 過剰に気にする自分でいることで大なり小なりの生きづらさを抱えているならば、認識(思い込み)を変えることで軽減されるかもしれない。




色々と書いてしまいましたが、、これを読んでくださったあなたは、少なからず 周りの目 について一度や二度、それ以上考えたことがあるかと思います。昔の経験によってできた設定(気にしすぎる自分)についての 上手な向き合い方については 今も現在進行形で考えています。実際に 体験したことがある人だからこそ わかる感覚があると思います。そして、「気にしすぎ」といわれて すぐに明日から気にしないで生きようとすることは簡単なことではないと思っています。認識のズレ(思い込み)を変えるためには、一発逆転的な発想というよりも 少しずつ自分の頭とカラダが納得するような経験を積み重ねていくことが近道なのかもしれません。他人の目を気にすることは悪いことではありません。私たちは、ずっと前から集団生活を営んできた先人たちによる 周りとうまくやっていくための術をDNAレベルで持っています。生まれ育った環境により、特定の情報が引き出されたのかもしれません。人間関係という切っても切れない問題の中で生きていますが、自分自身を守るために、環境に適応していくために、脳が「周りを気にするモード」を発動させることで乗り越えてきたのかもしれません。適応という意味では 昔は 良かったかもしれません。しかし 昔の設定で今を生きる必要はないと思っています。こんなことを書いている私ですが 私は今もかなり周囲の目に敏感です(笑) 気にしすぎる自分から気にはするけど別に~みたいな自分になること、新しい設定で生きることが 人生で達成したい目標のひとつです。




今回書いた内容が 少しでも あなたの充実した人生をつくるための参考材料となれば幸いです。長くなってしまいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました!

いつもありがとうございます! これからも 自分らしく、光を発信していきます🌠