往復書簡_選外_表紙

『往復書簡 選外』(15) 寝言【小説】

9月14日 曇り

「人がいなくなる、というのはどういうことなんだろう。家族でも親友でも恋人でもいいけど、親しい人、楽しく温かい時間を共に過ごした人と、昨日まで普通におしゃべりしていたのに、ある日突然会えなくなる。それは胸張り裂けるようなことだけど、じゃあそれが突然じゃなくて、とても緩やかだったなら?

学校に行くような歳でもなくなって、積極的に連絡も取らなくなって、たまに会って楽しいねーなんて言って別れて、だんだんその回数も頻度も減っていって、それが何年かに一回とかになって、それで、最後には会わなくなったら?

あるいは、海外に住むことになったんだーなんて言われて、えー連絡してよーメールでもツイッターでもフェイスブックでもー、あーでもそういうの詳しくないからなー、大丈夫だよー簡単だよー、なんていう会話をしながら携帯を取り出して目の前でやり方を教えて、でもやっぱりいざとなったら全然無駄で、あんにゃろうとか思いながらまあしょうがないかーなんて諦めて、それで、何年も経って、ふと、どうしてるんだろう、なんて思い出したところで今更どうこうする気も起きなくて、そもそも連絡先も変わってるかもしれないしなーって、結局、そのまま。そんな、記憶の中だけでしか会うことができない状態は、いなくなることとどう違うんだろう。

なんだか喪失へのソフトランディングみたい。

もしかして弔うという行為は、こういう行き場のないもやもやに区切りをつけるために行うのかもしれない。もう二度と会うことはない、ひとつの区切り、終わり。それをはっきりと胸に焼き付けるために、悲しんで、泣いて、感情をリセットする。そのための行為、弔い。

ああ、だったらやっぱり難しいな。だって涙が出ない。心が受け入れるのを拒否してる。まるで現実感がないし、ふらっと現れても普通にまた話せるし。久しぶりー、なんだよー連絡してよー、なんて風に。

やっぱり弔うってことがどういうことかよく分からないや。

ただ、こういうことを話せる相手がいなくなったのは、とても寂しい。とても寂しいよ」

以上が、妻の寝言だ。結婚してから半月の間、この長々としたモノローグを彼女はほぼ一言一句違えずに毎晩繰り返している。枕元に置いたスマホで録音してみたが、テープ起こしができるくらい綺麗に録れていた。本人は全く自覚がなく、一度「寝言言ったの憶えてる?」と聞いてみたが、顔を真っ赤にして「うそ、どんな寝言? 恥ずかしー」と照れたので、なんとなく内容を言えず誤魔化してしまった。それ以来、この話はできないでいる。

そのほかはまったく普段通りで、明るく充実した日々を送っているようだ。

今日だって買い物帰りに野良猫を見かけ、夕飯の食材にするつもりだったささみを餌に気を引こうとしたがまんまとささみだけを奪われ逃げられてしまった、という他愛もない出来事をさも大冒険であるかのように話していた(だからもちろん、ささみは今晩の食卓に上らなかった)。

幸福そうに見える。

しかしベッドに入り眠りに落ちたかと思うと、5分もせずに上記の寝言が始まる。その時彼女は切実な顔を浮かべていて、涙が滲むこともある。まるで別人のようだ。もっとも言い終わるとまたすやすやと寝息を立て、翌朝にはけろっとしているのだけど。

僕はこのことをどうやって切り出そうか悩んでいる。

9月17日 にわか雨

夕飯時に誰々という芸能人が心不全で亡くなったというニュースが流れたので、それとなく尋ねてみた。不自然でないタイミングだったと思う。

「今まで身近な人が亡くなったことってある?」

 彼女は腕組をして真剣に考えていた。彼女の両親を始め祖父母もまだ健在だし、これまで付き合った人との話を聞いたこともあるけど、心に影を落とすような出来事はなかったはずだ。彼女は、うーん、と首をひねって言った。

「ない、なあ……。私まだお葬式ってものに出たことがないんだよね……」

 少し申し訳なさそうだった。僕が、それは幸せなことだよ、と返すと、そうかなあ、と笑った。その笑顔に翳りが見えたのは気のせいだろうか。寝言のことが頭にあるから、そう見えてしまったんだろうか。人並みの不幸を背負ってないことに引け目を感じているようにも見えたし、ただ、心の奥底に封じた秘匿に再び強く鍵をかけたようにも見えた。

 僕はまだどうやって切り出せばいいか分からないでいる。

9月21日 曇りのち晴れ

 久しぶりに何も予定のない休日だった。昼過ぎから日が差してきたので、妻と一緒にベランダで洗濯物を干した。秋の日差しはとてもクリアで、彼女の輪郭を金色に縁取っていた。風が吹いてたなびく髪がキラキラと光を弾き、彼女は眩しそうに眼を細めた。僕はそれを眺めながら、ああ、幸せというのはきっとこういう風景なんだろう、と思った。

 ただ、風が止んでも彼女は洗濯物を手にしたまま動かなかった。まるでそれによって記憶を掘り起こされたかのように、愛おしむような、寂しげな表情を浮かべて風の吹いた方を見つめていた。金木犀の香りがした。僕がハンガーを振って催促すると(青いハリガネの、クリーニング屋でもらえるヤツだ)、彼女は我に返り、「あ、ごめん、ぼーっとしてた」と笑った。

 僕はどうしても話すタイミングをつかめないでいる。

9月30日 晴れ

僕らの間に目立った問題はない。仕事も順調だし、新婚家庭にありがちな生活観の違いで喧嘩することもほとんどない。ただ絵空事のように毎日が穏やかに過ぎていくだけだ。

寝言について、僕はもう永久に話し出すことはできないんじゃないかと思い始めている。

10月3日 雨

 朝から入院の準備で大変だった。まだ上手く頭が回らない。医者が言うには、今後元のように回復することは難しいそうだ。脳の中の言語野という部分が破壊されてしまったので、声を出すことは出来ても言葉を話せないし、文字も読めるが内容を理解できないらしい。つまり彼女の頭の中から言語というものが一切失われてしまった。珍しい症例だと言われた。

 僕は、眠っている間の出来事が原因でそういったことが起こるのかどうか医者に聞いた。心当たりがあるのかと問われて、妻は時々呼吸していない時があった、と嘘をついた。睡眠時無呼吸症候群という症状を以前テレビで見たことがあったからそれを匂わせたつもりだった。

「それは今回関係ないでしょう」

医者は言った。

「頭を殴られたとか、どこかにひどく打ち付けたとか、そういうことです」

そう言われて、少しほっとしてしまった。朝、異常な鼾を掻きながらいつまでも目を覚まさない彼女を見てからずっと、自分のせいじゃないかと怯えていたからだ。もちろん殴ったりなんかするわけがないし、彼女をベッドから落としたわけでもない。

ただ、口を塞いだ。

先日の一件以来、たびたび彼女が遠くを見つめていることに気づいた。もしかしたら昔からそうだったのかもしれないけど、でもこのままだと彼女が向こう側に引き寄せられて行ってしまうような気がして、だから、寝言を途中で遮った。そっと添える程度に手で覆った。ほの温かい息が手のひらで蠢いたあと、彼女はむにゃむにゃと寝返りを打ち、そして、寝言は止んだ。その顔は穏やかで、幸せな夢を見ているように思えた。

僕はこれからもずっと言葉を失った彼女を支え続けるつもりだ。

録音したデータは消そうと思う。


文 / 仲井陽

表紙 / 仲井希代子(ケシュ ハモニウム × ケシュ#203)

*『往復書簡 選外』とは… 仲井陽と岡本諭、二人の作者が2014年から1年間に渡ってweb上で交互に短編小説をアップしあう企画『往復書簡』から、様々な理由で書籍化されない「選外作品」ばかりを集めたスピンオフ企画です。

書籍化された『往復書簡 傑作選』は、学芸大学にある本屋「SUNNY BOY BOOKS」さんと中野ブロードウェイ3Fにあるタコシェさんでも取り扱って頂いております。是非お立ち寄りください!

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