カレンダーストーリーズ_表紙

『カレンダーストーリーズ』ウラ12月 「冬のタモリ」            【短編小説】作:やさしいおばけ


 暖をとるためにあるのは小さなストーブだけで、身体の正面は暖かいが背中は冷えたままだから毛布を羽織ってストーブと向き合う。ウォッカを買う金なんてなくて、こんなに寒い部屋なのに冷えた発泡酒を飲んでいる。カップヌードルと菓子パンばかりの不摂生な生活のせいで、体調はいつだって最悪だ。
 アパートは線路沿いにあって、電車が通るたびに大きな音がして揺れる。窓を開けていると鉄が激しく擦れるためか、くさい金属臭が入ってくる仕事は毎日違う。居酒屋で調理補助をやる日もあれば、建設現場で軽作業をしている日もある。仮眠をとって、深夜のパチンコ屋のセキュリティチェックをした翌日に、コールセンターでクレーム対応をする。絵に描いたような貧しい暮らしの中で、日々少しずつ絶望している。そんな生活の中で、たまに自分が何者なのか分からなくなるが、何者であるにせよ、ひどく矮小な存在であることは明白だった。
 タモリは相変わらず生活の中にいた。僕の右眼は視力を欠いていて、眼窩の向こうはタモリの右眼と繋がっている。タモリの右眼も視力を欠いているので、僕の右眼が見えていないものをタモリも右眼も見えていない。無はいつだって眼前にあった。むしろ右眼の内部にあった。右眼で視ていた無が僕の臓物を食い潰しそうな夜は、毎年この時期になるとしばしばある。そして僕は今まさに、「結局何者なのか分からない」無形の存在であり、その点はまたタモリと共通していた。
 貧乏な生活の中で、僕は度々「タモリ2」のジャケットに向かって人生を問う。眼帯のタモリは黙ったまま、何も教えてはくれなかったし「タモリ2」で紹介されている蘊蓄のほとんどは嘘ばかりだった。

 タモリと僕の関係は一概には言えない。ただ、僕にとって彼は「生活」の一要素だ。田舎暮らしの中でいつも海や山が視界に入るように。僕は小さい頃からタモリがある生活を続けている。
 たまに自分が何者なのか分からなくなる時に僕は、眼窩の闇の向こうにタモリを見つけることで暮らしている。

 ミウとたまに会うと、家にあるお菓子とか食材をくれる。伊勢丹の紙袋いっぱいの彼女の愛は僕をいっそう情けない気持ちにさせる。彼女が何をもって僕と交際してくれているのかはわからない。ミウはスケベな女だった。アンダーヘアの手入れを怠るタイプのドスケベだった。
 興奮しすぎると血走った瞳になるのが、非常に怖いが、彼女が愛情をよこしてくれるというなら僕もそれなりのそれを返そうと思っている。ただいつも、アンダーヘアのごわごわが気になった。その密林の奥底で目を血走らせる獰猛な獣の気配を僕は感じていたし、おそらくそれは彼女の言う「愛」という代物なんだと思う。

 その日は僕の誕生日で、ミウがこじんまりとしたフランス料理店でご飯をご馳走してくれた。ワインを乾杯して、プレゼントを受け取ると、紙袋の中にはちょっといい感じの2つ折り財布が入っていた。もう一つ袋の中にあった、妹、両親、祖父母、そして彼女自身からの手厚いメッセージが書かれた寄せ書きの色紙は、何やらおぞましく思えた。だって、彼女の家族の誰とも会ったことない。「ありがとう」と言った僕の声が上擦る。嬉々として僕の誕生日を祝ってくれるミウの目が若干ギラついている。僕は言い知れぬ気の重さを感じながら、オードブルを口に運んだ。
 タモリだったら、顔色一つ変えずにアハハハと笑いながら受け取り「これ貼っといてー」とADに指示し、壁に貼るのだろうか。ミウの祖母による「ミウをよろしくね」という達筆の文字が、触手のように僕の心臓を撫で回した。

「それはそれでうれしいと思うけど」
 キョウコさんは僕をそう諭した。彼女は同僚の飲み友達であるらしい。たまたまの縁で同席してから、家が近所だということでたまに飲むようになった。僕を呼び出す友人はそういないし、何より彼女は酒をご馳走してくれる。高価そうな服装と化粧、香水。その出で立ちから、彼女がそれ相応に稼いでいるのは伺えたが、職業の話を聞くと口を濁すので詮索はしなかった。
 感情的なミウとは逆に、キョウコさんはあまり温度がないように感じた。キョウコさんが何に興味があり、僕にどんな話題を期待しているのかは分からない。もしかしたら、自分の興味が持てるものを探しているのかもしれない。
「電話鳴ってるよ」
「タモリは電話に出るわけではなく、かける側なので、出ない」
「タモリになるのは、いろいろ難しいんだね」
「でも森田一義は簡単にタモリに為れているわけで」
「タモリは電話ひとつにそうナーバスにはならない」
 キョウコさんの飲んでいるウイスキーの中で、氷がカランと音を立てる。
「君はタモリじゃないし右眼も繋がってない。タモリは善意を蔑ろにはしないしお酒もおごられない。君は到底タモリにはなれないと思う」
 キョウコさんの口調はただただ優しかった。優しい言葉ほど臓腑に沁みるから、痛むのだ。
「自分の形や行方が何も視えなくて不安なんだ」
「そっか」
「うん」
「じゃあ、うちに来て一緒に寝ようか」
 何がどう「じゃあ」なのかは分からなかったが、表情を変えずにそう提案したキョウコさんに僕は「いいとも」と答えた。その時その瞬間だけ、僕は誰よりもタモリに為れていたと思う。

 居酒屋の外は凍える寒さだった。ミウからの電話は鞄の中で鳴り続けた。
 キョウコさんの部屋は、ビジネスホテルのように整然としていて、あまりに生活感がないその部屋は、清潔な牢獄といった雰囲気だった。シャワーを浴びるよう促され、緊張したままシャワーを浴びる。キョウコさんはきっと、アンダーヘアを入念に手入れするタイプのドスケベなのだ。そう一人で合点しながら、心はウキウキウォッチングだ。「愉しませすぎてもごめんなさい」と口ずさんでしまう。頭の中では、キョウコさんのお尻がタモリ倶楽部のオープニングのように踊っていた。
「水、垂らさないように拭いて」
 部屋に戻ると、見慣れない光景があった。ランプの明かりの中で、キョウコさんが何やら注射器を腕に刺している。
「何の注射?」
「なんだろうね?」
「え、怖いやつ?」
「うん。けど大丈夫。あたし効かないんだ」
「冗談でしょ?」
「冗談苦手。言ったことあったっけ?」
 そういえばなかったように思う。キョウコさんの人生初の冗談であってほしい。
「だ、だって、効かないならやる必要ないでしょう」
「ちょっとだけ効いて細かいことが気にしならなくなる」
 それ以上聞くと、冗談では済まないくらい生々しい情報が出てきそうだったので、僕は黙ることにした。会話もないまま、キョウコさんは注射を終えシャワーを浴びに行った。
 テーブルの上では、何もプリントされていない粉末が、異様な存在感を放っていた。棚の引き出しを開けてみると錠剤やらカプセルやらがたくさん入っていて、どれもメンタルをどうこうする系だった。
 彼女がシャワーを浴びている時間が、とても長く感じる。ウキウキウォッチングどころじゃない。タモリ性が微塵もないようなキナ臭い場所に、いつの間にか僕は追いやられていた。
「大丈夫だよ。そんなに効かないんだ」
 シャワーから出た寝巻きのキョウコさんが髪を乾かしながらこちらに近づいてくる。思わず腰がひける。喉の乾きを覚える。彼女が僕に抱きついてきたその時に、彼女の肌や唇が、カサカサで、髪の毛も傷みまくっていることに気がついた。温度も弾力もないその肌は、冷たいとか暖かいとかじゃない、常温に放置されたはんぺんのようだった。
 キョウコさんは僕の唇にキスをして
「効かないし、キマらないんだ」と言った。
 鞄の中で電話は不定期的に鳴りつづけていた。怖い。モロにセケメケときたら、ハカマカになりますな。というハナモゲラ語が頭の中に浮かぶ。つまり、完全に混乱していた。
「効かない。キマらない」
「か、か、カッパえびせんかよ!」
 キョウコさんをはねのけてヘッドから離れる。
「効かない。キマらない。効かない。キマらない」
「キマってるよ! さっきからそればっかり繰り返している」
「キマってないよ。キマったことがない」
「じゃあなんでずっとそれ繰り返してるの」
 泣きそうだった。あの粉末がどういう作用をもたらすかは知らない。
 そういえば「タモリ倶楽部」の収録は、タモリが何を言い出すのか当日になってみないとわからないので、何を言われても対応できるようにものすごい数のスタッフが同伴するという話を聞いたことがある。すでにこの空間は常識の及ばない異界なので、そういう意味でこの空間はタモリ倶楽部空間なのかもしれない。
「キマらない」
 また僕に抱きついてくるキョウコさんの、ドロリと濁った目。
 僕が映っているのか? 片目の見えない僕やタモリ以上に、彼女は事物を識別していないようだ。僕はタオルケットを彼女にかぶせて、そのまま抑え込んだ。キョウコさんはしばらく布の中でもがもが言っていた。間違えるとこのまま呼吸困難にさせてしまいそうだったので、力加減に注意した。布越しに「効かない、キマらない」の声がしばらく悪夢のように繰りかえされた。何時間かもしれないし、数分かもしれない。いつのまにかその声は寝息に変わった。
 部屋の時計は2時半を指していた。おそらくミウは眠っているだろう。携帯で「ごめんね、酔っ払って寝ちゃってた。また明日かけます。おやすみなさい」と打った後、贖罪のように「すきだよ」と最後に添えた。カーテンの隙間から、美しい、大きな月が見えた。その美しさに少しだけ涙が出た。こんなにきれいな宵の足下で相変わらず僕は禍々しい夜を這い回っている。

 いつのまにかベッドの端っこで眠っていたらしい。目が醒めると、キョウコさんがけろっとした顔で部屋の掃除をしていた。ピラフを作ってもらったが、手術後の流動食のように味がなかった。

 その夜、ミウが部屋に来て、なぜ昨晩電話に出なかったのか尋問された。
 ミウは「感情的になると唇が荒れちゃうの!」と言ってワセリンを塗りながら「何度も電話したのに!」と続けた。
「ごめん、酔っ払って寝ちゃってたんだ」
「誰と飲んでたの!」
「キョウコさんっていう、飲み友達で…」
「何よその、エロい名前の女は!」
 果たして「キョウコ」がエロい名前なのかどうかはさておいて、詰問するミウの眼は異常に血走っていた。キョウコさんの温度のない濁った眼も、ミウの血走った眼もどちらも苦手だ。そして、ミウの眼もまた同じように、僕をそんなに映していない。
「キョウコさんとは何もないよ。11時くらいに帰った」
 中途半端な嘘を吐くくらいだったら、最初からその名前は出さなければよかった。ミウはギャーギャーわめきながら無意識の動作でワセリンを塗り続ける。ミウの口元がワセリンまみれになっていく。僕はとにかく、それを止めさせたかったのでとりあえず彼女を抱きしめた。
「電話に出なかったのは謝るよ。ただ、毎度毎度それだけでこんなに怒られるのは息苦しい」
 抱きしめながらそう伝えると、ミウは若干クールダウンしたらしい。
「わかった。寝ちゃってたんだったら仕方ないよね。私もついムキになっちゃった」
 これでいいんだろうか。赤塚先生は「これでいいのだ」とおっしゃった。
「ねえ」
 ミウが急に甘えた声で囁く。
「キスして」
 散々ワセリンを塗りたくった唇は、蛍光灯に照られて、ぐっちゃぐちゃでてっかてかになっていた。ギラギラ光るおぞましい光沢は肉食魚を連想させた。目を背けた。赤塚先生、これで、よくないです。僕は思わず目を背けた。

 ミウとも、キョウコさんとも、その日以来会うことはなかった。
「私のどこがいけないの?」と半狂乱で喚いたミウに「アンダーヘアの処理が雑なところ」と答えたら部屋の窓を割られた。そのせいで電車が通るたびにあの金属臭が部屋に入ってくる。テレビではタモリが「半蔵門線の匂いを嗅ぎながらご飯を食べよう」という企画をやっていて、同じことやってるのに、なんでだろうこの差分は。
 寂しく、密やかに今年も暮れていく。
 闇は、冬の夜の闇は、ただただ深く感じたが、それはきっと人生や世界やタモリ倶楽部のように延々継続するものではないと識っている。タモリのグラサンが決してそこまで深い闇ではないように、多くのしがらみも「んなこたぁない」で片付けられるのかもしれない。そうしたら、いいともいいとも、いいトモローだ。そう思ってみた。
 今日も相変わらずタモリは面白かった。理解するのは容易だが、タモリの面白さを論じるには豊富な語彙力と感受性が求められる気がする。そんな友人や恋人がいたら、僕はテレビをでかい奴に買い替えるだろう。
 借金してでも引っ越しをしようと思った。
 新居で、でかいテレビで恋人とタモリを見る。その恋人は、願わくばアンダーヘアを適度に手入れする、程よくスケベな娘であって欲しい。そんなことを夢見た。小さいテレビの中でタモリがまた笑った。


ウラ12月「冬のタモリ」/作:やさしいおばけ

cover design・仲井希代子(ケシュ ハモニウム × ケシュ#203)

*『カレンダーストーリーズ』とは…"丘本さちを"と"毎月のゲスト"が文章やイラスト、音楽などで月々のストーリーを綴っていく連載企画です。第一月曜日は「オモテ○月」として丘本の短編小説が、第三月曜日は「ウラ○月」としてゲストの物語が更新されます。

※2016年 10月の更新をもって『カレンダーストーリーズ』の連載は終了しました。お読みいただいた皆様ありがとうございました。

12月のゲスト:やさしいおばけ

合同会社elegirl CEO。デザインを生業とする傍ら、文筆、DJなど気の向くままに着手。 講師を務める恵比寿のデザイン教室は生徒募集中。

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●ケシュ ハモニウム(問い合わせ)
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