『往復書簡 選外』(16) 憂鬱なユークリッド【小説】
懐から取り出したマッチを擦ると、ユークリッドはポストの中にそれを投げ入れた。街路に佇むポストはやがて細い煙を吐き出し、腹の中を焼かれながらも身動き一つできなかった。
ユークリッドは気分が晴れるまで、街中のポストを燃やして回る。どうしてそんなことをしてしまうのか、自分自身にも分からない。ポストに火を放る暗い喜びだけが、彼を憂鬱の苦しみから救い出してくれる。小さな頃からずっと。これは彼の心の底に刺さった悪意の針のようなものなのだ。
ユークリッドは時折、巨大な郵便局の中で迷う夢を見る。夢の中で彼はいつもパジャマの裾を引きずるような幼子だ。古代エジプトの神殿のような重層的な空間には誰もいない。ただ、誰かから誰かに宛てた手紙があたり一面に散らばっている。よくみれば、床も壁も机もすべて手紙で出来ている。ユークリッドはその異常さにひやりとする。天井から数羽の鳩が下りてきて、手紙を咥えては飛び立っていく。遠くで壁が崩れる音がする。
ユークリッドは二本目のマッチを擦る。再びポストが燃え上がる。言葉が燃えていく、誰かから誰かに宛てた言葉が燃えていく。ユークリッドは暖炉にあたるように燃えるポストの側にいる。そしてやがて立ち去って行く。
まだ彼の憂鬱は終わらない。彼の心を慰める暗い悲劇がまだ足りない。夕暮れを追いかける渡り鳥のように、ユークリッドは街を徘徊しながらポストにマッチを投げ入れていく。言葉の焼死体が次々と生み出されていく。
ユークリッドの初恋は、足の曲がった障害者だった。右の膝から下が外側にぐにゃりと曲がり、いつも杖をついて歩いている少女。彼は不自然な彼女の肢体に心を惹かれた。気付かれないように、そっと彼女の背後に忍び寄り、乱暴に杖を奪う。重力が彼女を引き倒す。ユークリッドは杖を握りしめ、一目散に駆けだしていく。振り返ると地面に少女は倒れたまま、罵りの言葉を泣き叫んでいる。ユークリッドはその無力な少女の姿に愛しさを感じる。
消防車のサイレンが近づいてくる。ユークリッドは最後のマッチを擦り、手早くポストに投げ入れる。サイレンの音がだんだんと甲高くなっていく。ユークリッドはじっと耳を澄ます。消防車は彼を追い越し、街のどこかへと消えていってしまう。憂鬱なユークリッドの悪意は誰にも見咎められることはない。憂鬱なユークリッドは憂鬱な街の中、一人家路につこうとしている。彼の後ろ姿を見つめるものは誰もいない。
文 / 岡本諭
表紙 / 仲井希代子(ケシュ ハモニウム × ケシュ#203)
*『往復書簡 選外』とは… 仲井陽と岡本諭、二人の作者が2014年から1年間に渡ってweb上で交互に短編小説をアップしあう企画『往復書簡』から、様々な理由で書籍化されない「選外作品」ばかりを集めたスピンオフ企画です。
書籍化された『往復書簡 傑作選』は、学芸大学にある本屋「SUNNY BOY BOOKS」さんと中野ブロードウェイ3Fにあるタコシェさんでも取り扱って頂いております。是非お立ち寄りください!
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