往復書簡_選外_表紙

『往復書簡 選外』(7) 脳みそとみみずくん【小説】

——いやあ、最近ぜんぜん疲れが取れないんだよね。体が重いっていうより、頭が重いっていうか。熱っぽくって脳みそ全体が腫れてる?みたいな。例の伝染病にかかったんじゃないかって、本気でそう疑っているんだよ。ほら、公園で蚊に刺されてなるやつ。いや、本気というのは冗談だけどさ。

「ねえ、それってみみずが頭に入ったんじゃない?」

 彼女は真顔でそう答えた。

 みみず? 今みみずって言った? 何かの聞き間違いだろうか?

「それって何? 比喩とか諺とか迷信か何か? 君の地方の」 

「そんなんじゃないわよ。みみずよ。正真正銘のみみず。あなた知らないの?」

「ひょっとして僕をからかってる?」

「まさか。あなたこそ本当に知らないの? あっきれた。四大出てるんでしょ?」

 久しぶりのデートだっていうから、優れない体調を押して、わざわざ日比谷のイタリアンを予約して、そんなに好きでも無いチーズリゾットを「やっぱいらないわ。太るから」って言う君の分までぐいぐい腹に詰め込んでいるサービス精神の塊の僕に向かってよくもまあそんな辛口満点の口をきけたものだね、君は。

 という言葉をぐっと押し殺して、僕はごめんごめんと愛想笑いを振りまいた。

「でも、そんなの初めて聞いたな。みみず? みみずが頭に入るのかい?」

「学名で言うとReferta Oligochaeta 。レフェルタ・アリゴキータ。和名でうんざりみみずっていうの」

「うんざりみみず…」

「そう、うんざりみみず。寝ている間に耳から入って、頭の中に巣をつくるのよ。それで、脳みそを食べながら生きているの」

「げぇ、本当に? 聞いてて鳥肌がたちそうだ」

「このみみずがいる間、寄生された人は頭がぼうっとして、考えがまとまらなくなる。特に言語機能への影響が激しいわ。長い文章が読めなくなったり、話せなくなったりする。あとは微熱が続いているような気がするけど、実際の体温は平熱で、慢性的に下痢が続く……ごめんなさい、食事中だったわね…」

 途中から彼女の口調は恋人に対するものでなく、医者が患者に症状を説明するものに変わっていた。勤務先の病院ではクールビューティーで通っているらしいが、プライベートな関係にまで仕事のトーンを持ってこられるのはいささか閉口する。二つ年上の彼女とは大学時代のコンパで知り合って、かれこれもう6年は付き合っている。そろそろお互いに結婚を考えてもおかしくない年だが、彼女は仕事人間だし、僕はあまり形にこだわらないから、学生時代の延長のような、だらだらとした付き合いが続いている。

 僕はチーズリゾットの最後の一口を食べ終えて言った。

「でも、脳みそを食べられたらさ、死んじゃうんじゃないの?」

 彼女はグラスを傾けていた手を止め、まじまじと僕を見る。

「ねえ、あなた、みみずがどういう生き物か知っているでしょう? 」

「え? うん」

「うんざりみみずが口から食べた脳みそは、すぐにそのままお尻からでてくるの。分かるでしょう? 食事中にキタナイ話ばかりさせないでよ」

 この話を振ってきたのは君のほうじゃないか。

「それにね。うんざりみみずはよほど不摂生な生活をしている人にしか寄生しないの。基本的に寄生された人には、寄生される以前の生活態度に問題があるのよ。あなたみたいにね」

「僕はそんな問題のある生活をしているつもりはないよ」

「よく言うわよ。二年間もまくらを洗っていなかったくせに」

「ファブリーズはしてたよ」

「私、あのまくらに顔をうずめてたんだと思い出すたびに、体がかゆくなるのよね。トラウマよ。トラウマ」

「君はちょっと潔癖なんだよ」

「医者がきれい好きでなにが悪いのよ。とにかく、一度うちの病院で検査してみなさいよ。すぐ。今週中に」

「でも、会社が…」

「検査なんてレントゲン撮るだけよ。半休とれば終わるから。ほっとくと仕事のできない体になっちゃうわよ。知らないからね」

 そういう彼女の勢いに飲まれて(ということもないけど)、僕は病院で検査をした。みみずが頭に巣を作るなんて本当に初めて聞いたけど、レントゲンにはくっきりと太いみみずの影が映っていた。

「言うとおり、うんざりみみずが住み着いてますね。ちょっと生活が荒れていたんじゃないですか。いけませんよ、若いからといって不摂生は」

 でっぷりと腹の肥えた中年の医者にそう言われて、見るからにあんたのほうが不摂生だろと言いたかったが、代わりに「いやあ、仕事がいそがしくて」と適当な返事をした。医者はカルテを書き込みながら言った。

「とにかく、これ以上症状が進まないうちにみみずを追い出したほうがいいですな。下痢止めだけはだしておきますから、早めに行って追い出してきてください」

 僕は愛想笑いをして首をかしげた。いま何と?

「ですから、一刻も早く頭の中のみみずを追い出しに行ったほうがいいですよ。このままだと言語機能はおろか、咀嚼機能および呼吸器にも影響がでかねませんから。近年まれに見る大物ですよ。あなたの頭の中にいるやつは」

「追い出しに行くってどういうことですか? 薬とか手術とか…そういうことじゃないんですか?」

 医者はぽかんと大げさに口をあけ(絶対にわざとだ。しかも悪意がある)、その表情のまま頭をぶんぶんと振った。

「あなた、自分の脳みそにメスを入れてほしいんですか? 変わった人だな。それに頭の中のみみずを殺す薬なんてありませんよ。聞いたことないでしょう? 発明したらノーベル賞ものだ。それともあれですか、殺虫剤でも飲みますか? それなら向かいの薬局に売ってますよ」

 なんて嫌味な医者なんだろう。何もしらない患者に向かって言う言葉かね! 僕はむかついて言い返した。

「じゃあ、どうやって追い出せっていうんですか! 薬も無い、手術もできない、それじゃあ素人の僕にだって何もできませんよ! あんたプロだろう。こっちは助けてもらいたくて来てるんだよ! どうしたらいいかはっきり教えてくれよ! 死ぬのはやだよ! 助けてくれよ! 死にたくないよ! 死にたくないよお!」

 感情を出すのに慣れていないせいか、怒鳴っているうちになんだか涙がこみ上げてきて、最後には鼻水を吹き出しながら泣き叫んでしまった。叫んでからそういえば死ぬことはないんだっけ、と彼女の言葉を思い出したが、頭と感情がばらばらの方を向いていて、どうにも収まりがつかない。これもうんざりみみずの影響なのかなぁ?と嗚咽しながら考えていると、医者が僕の肩にそっと手を置いた。

「申し訳ありません。まさか本当に知らないとは思わなかったものですから。からかわれているのかと…」

「からかってなんかいませんよ。それよりどうしたらいいのか、ちゃんと教えてくださいよ」

「ええと、こういったことは常識の範囲だと思うのですが…、いや気を悪くしないでください。あなたを馬鹿にしているわけではないんです。誤解しないでください。つまりなんといいますか、文字どおり行って追い出してくるしかないんですが…、いや、どうしよう。どういえばいいのかな。これ以上説明のしようがないですよ。困ったな」

 医者は本当に困った様子で、壁や天井に目を泳がせている。僕は言った。

「行くってどこに行くんですか?」

 その言葉を聞いた医者はうろたえるというより、もはや憐れみの眼差しで僕を見た。そして子供に言い含めるように言った。

「決まっているじゃありませんか、あなた自身の頭の中に行くんですよ。それでみみずと闘って追い出してくるんです。あなた自身がね。それ以外にないでしょう?」

 そうか、なるほどね。自分の頭の中にいけばいいのか。考えてみればそうかも知れない。なんて簡単なことなんだろう。全然気がつかなかったよ。四大を出ていても分からないことがあるんだなあ。よしじゃあそうしよう。

 僕は深く頷き、医者に向かって感謝の言葉を述べた。それでどうやって頭の中までいけばいいんだろう。その疑問は彼女が解いてくれた。

「羽田から飛行機に乗れば2、3時間で着くわよ」

「なんだかグァムみたいだね」

「脳天気なところなんかは似てるかもしれないわね」

 電話の向こうの彼女は相変わらず辛辣だった。

 ほとんど使っていなかった有給をつぎ込んで、10日間の連休を取った。最初の二日はスーツケースを買ったり、溜めていた洗濯物をコインランドリーで一気に洗ったり、そんなことに費やした。飛行機のチケットは彼女が手配してくれた。そしてこうやって朝一のモノレールで一緒に空港までついて来てくれている。

「羽田から病院までって死ぬほど遠いのよ。遠いっていうか乗り換えがね、面倒くさいの。5回もあるのよ? 5回よ? ああ、タクシー出勤しちゃおうかしら。本当に面倒くさい」

 僕の手を握りながらそう悪態をつく彼女は、なんだかんだいっていいパートナーなのかも知れないと思う。朝焼けの東京湾はもやが掛かっていてどこか幻想的だ。僕も彼女も、田舎から上京したときはこの水辺の光景を反対方向に進みながらに見ていたはずだ。東京に着いて初めて目にする風景だからなのか、どことなく親近感がある。

 天空橋を過ぎると空港に停まる旅客機の姿が目に入ってきた。自分の頭の中行きとはいえ、飛行機に乗るのはわくわくする。僕は子供のようにガラス窓に額をくっつけて外を見やった。

「何だか楽しみだな」

「ちょっと。遊びにいくんじゃないのよ。治療しにいくんだからしっかりしてよね」

 彼女が母親のように僕を叱りつけた。

「よしてくれよ、たかだかみみず一匹追い出せば済む話だろ? 大したことじゃないさ。それよりどこで降りればいいの? 国際線? 国内線?」

「何言ってるのかしらね。体内線に決まっているじゃない」

「その名前も初めて聞いたよ」

「あなた、本当に何も知らないのね。大丈夫かしら。私、不安になってきちゃった」

「さすがにお土産は買ってこなくてもいいよね? 旅行じゃないんだから」

「…好きにすれば?」

「じゃあ、会社の分も含めてお土産はナシにするよ。準備にお金かけすぎちゃったからね」

「ねえ」彼女は僕のほうへ向き直り、体を寄せた。「ねえ、これは冗談なんかじゃないのよ。あなた自身の体のことなんだから、真剣に考えて。お願い。それからみみずを甘くみないで。帰ってこれない人間だっていないわけじゃないのよ」

 その真剣な表情に僕は言葉を詰まらせた。帰ってこれないかもしれない。そんなこと思いもしなかった。彼女の端正な顔が目の前にあって、まっすぐに僕の目を見つめていた。

「分かった。気をつけるよ」

 そう言って冗談っぽく軽いキスをすると、小さな唇が少し震えているように感じた。

 

 体内線のターミナルは、国内線のターミナルから港内バスに揺られて20分も離れたところにあった。そのボロボロの風体はターミナルというより物流会社の倉庫に近い。大きさは無駄に大きくて、サッカーなら2試合同時にできそうだ。昭和の時代を思わせる青いプラスチックの椅子(これは野球場とかにありそうだ)が、びっしり並んでいるが、ほとんど誰も居ないから驚くほどがらんとした感じを受ける。わあっと叫んだら、何回でも反響して返ってきそうだ。羽田にこんなところがあったんだな。あっけに取られている僕の手を彼女が引っ張ってチェックインカウンターまで連れていってくれた。スーツケースがゴロゴロと音を立てる。

 カウンターには彼女に負けず劣らず、美人で冷たい表情をした係員がいた。

「この人の頭の中行きの、7時ちょうどの便です。予約番号は…」

「かしこまりました。ナカジマケイゴ様ですね。それではスーツケースは機内に持ち込めませんから、こちらでお預かりします」

 彼女と係員の声はそっくりで、口調も似ていた。目を閉じて聞いていたらどっちがどっちか分からなくなりそうだ。それとも、あれだろうか。職業意識の高い女性は似たような声質になりやすいのだろうか。そうかもしれない。

「ではこちらにナカジマ様のサインをお願いいたします」

 僕はチェックインを済ませ、スーツケースを預けると保安検査場に向かった。ここから先は搭乗者(僕のことだ)以外は先に進めない。

「じゃあ、いってきます」

「これを持って行って」

 そう言って彼女はジップロックの付いている小さなビニール袋を渡してきた。

「なんだい? これ?」

「目薬よ。機内で必要になると思うから」

「ふーん」

 何故必要になるのかはよく分からなかったけど、彼女の言うことを聞いておけば間違いはなさそうだ。僕はその小さな袋を受け取って、検査場のゲートをくぐった。

「本当に気をつけてね」

 そう声をかける彼女の声はいつになくしおらしかった。がらんとしたターミナルに取り残されている彼女の姿は妙に寂しそうで、僕はわざとらしいくらい勢いよく手を振って応えた。

 検査場に入ると先ほど受付にいた女性が立っていた。手荷物の検査も担当しているようだった。きっと人件費を削減するためにそうしているんだろう。

「ポケットの中のものをテーブルの上に出してください」

 言われたとおりに上着から財布やスマホを取り出して並べた。彼女はそれらを一瞥して「結構です。先にお進みください」と言った。指いっぽん触ってもいない。これで検査になるんだろうか。

「これだけ? 金属探知機とかエックス線検査とかないんですか?」

「…あなたは自分の頭の中に爆弾か何かを持ち込むつもりですか? 変わった人ですね」

 そう言われて、二の句がつげなかった。まあたしかにそれもそうだ。

 検査場を抜け、再びバスに乗せられた。どういうわけか例の受付の彼女もバスに乗り込んでいた。まだ何かの仕事を兼任しているのだろうか。この航空会社はいったいどこまでコストカットを進めているのだろう? 10分ほど走り、滑走路の端まで辿り着くと、そこには古めかしい中型のプロペラ機が停まっていた。

「こちらがお客様の搭乗される飛行機になります。どうぞご案内いたします。それから申し遅れましたが、私はフライトアテンダントのカワベと申します。本日はどうぞよろしくお願いいたします」

 丁寧な口調だがどことなく冷たい声そう言いながら、彼女は自分の胸にKAWABEと書かれたネームプレートを着けた。

 なるほど、受付からCAまで一人でこなしているわけか。でもここまでくるとフライトアテンダントというより旅行代理店の添乗員みたいだな。そんなことを思いながら後をついていった。バスを降りて、まるで梯子のような急なタラップを登る。ビートルズが降りてきたみたいなこれまた時代物のタラップだ。でも、今日の旅客は僕しかいない。…本当に僕しかいないのかな?

「すみません」

 あごを上げ、タラップの先を進む彼女の背中に向かって声を掛けた。その時に気付いたが、思っていたより制服のスカートの丈が短い。タラップの段差も急だからスカートの中が見えそうだ。

「なんでしょう?」

「今日のお客さんは僕しかいないんでしょうか?」

 目のやり場に困りながら、僕はそう質問した。彼女が急に立ち止まったので、危うく鼻の頭をお尻にぶつけそうになった。肩越しに振り返った彼女が言った。

「…他人の頭の中に行こうという人間は、決して多いとは言えないのではないでしょうか。少なくとも私はいままであまりそういったお客様を見たことはありませんし、これからも見かける機会があるとは思えません。断言はできませんが」

「あ、そうですか」

「それに何より人の頭の中に行っても、これといって面白いことがあるとも思えません。航空会社の社員である私が言うのもおかしいかもしれませんが。…何か気になったことでもおありでしょうか?」

「いえ、別になんとなく聞いてみただけです。下らないことを聞いてすみません」

 僕がそういうと彼女はニコっと笑って、再びタラップを登っていった。顔は笑っていたが無表情だった。そんな気がした。まいったな。愚にも付かないような質問をして機嫌を損ねてしまったかもしれない。これでも初対面の女性には気をつかう方なんだけど。

 機内には本当に僕しか乗客がいなかった。

「そういえば搭乗券をもらっていませんけど、どこに座ればいいですか?」

「どこでも構いません。お客様の貸し切りのようなものですから」

「じゃあ」と言って、一番前の真ん中(1C)の席に座った。カワベさんは窓際の1Aの席についた。フライトアテンダント用の席は特に用意されていないようだった。

「シートベルトをお締めください。間もなく離陸いたします」

 彼女がそういうやいなや、エンジンに火が入り、機体が加速しはじめた。今まで黙っていたけど、僕は高所恐怖症だ。飛行機の旅情は好きだが、高いところは嫌いなのだ。冷や汗が流れはじめたが、飛行機は止まらない(当然だ)。機体はぐんぐん加速し、見知った東京の風景が窓から引き剥がされていく。プロペラの回転音が思ったより大きくて、それが僕の心臓をより一層縮み上がらせる。窓の向こうで滑走路が斜めに傾いたのが見えた。うまく離陸できたらしい。しばらくして機体は雲の上で水平に戻り、シートベルト着用のサインが消えた。

 僕は極力窓の外を見ないようにして、カワベさんに話しかけた。

「すみませんけど、コーヒーいただけませんか? 朝はコーヒーを飲まないと目が覚めないたちで」

 彼女は「かしこまりました」と言ってすっと席を立ち、機内後方のパントリーへと向かっていった。どうも眉をひそめていたような気がしたけど、気のせいだろうか。僕はカワベさんが持ってきたくれた熱々のコーヒーをすすりながら、頭の中にいるみみずのことについて考えた。僕の頭の中に巣を作っているみみず。レントゲンに映っていたそれは、スパゲッティを半分にちょんぎったほどの長さがあり、僕の頭蓋骨の真ん中でもつれた毛糸のように丸まっていた。あんなのがこの頭の中にいるなんて、考えただけでもうんざりする。あ、だからうんざりみみずというんだろうか。微熱のような感覚はいまもまだ続いている。言語機能に障害がでると彼女はいっていたけど、特にまだ自覚できるほどの症状は出ていない。ただ時々、脳圧が高いとでもいうんだろうか、脳みそがパンパンに腫れ上がって、頭蓋骨を内側から全体的に圧迫しているような、そんな感覚がすることがある。そういう時にはみみずが暴れているんだろうか。

 無事にかえってこれない人間もいる。そう彼女は言った。

 みみず退治は思ったよりも危険が伴うみたいだ。あいつらはおしっこが苦手なんだっけ。…いや逆だ、おしっこを掛けたらあそこが腫れ上がるんだった。脳みそとあそこを腫れ上がらすなんて、なんてピンポイントでダメージを与えてくる生き物なんだろう。いやらしいやつらだ。

 コインランドリーで乾燥機を待っている間、ずいぶん久しぶりに何も考えない時間を過ごしているなと思った。珍しく夕方には彼女がうちに来て(なんと早引きしてきたと言った)、近所のスーパーで挽肉を買ってハンバーグをつくってくれた。出された人間にしか分からないだろうが、外科医のこねるハンバーグというのは、どことなく凄みのようなものがある。ソースに使った赤ワインが余ったから、コップに注いで二人で飲んだ。安物だと思ってたけど、なかなか好みの味がした。僕の部屋にワイングラスがないことについて彼女が不満をもらした。そうだな、ワイングラスくらい買っておいて損はないかもしれないな。人はパンだけで生きるにあらずっていうし。そういえば、彼女の部屋はあまり女らしい飾り気はないけど、いつも花だけは飾ってある。水仙とかミモザとか、そういうあまり派手すぎないやつ。生きることは花で飾られるべきものなのかな。そういう考え方、悪くないな。でも僕は面倒くさがりでうっかりが多いからきっと枯れてしまうだろうな。彼女が一緒に住んでいたらまた違ってくるんだろうけど。二人で住むって何故だか考えたことなかったけど、意外といいかもしれない。まあ彼女がどう思うかは分からないけれど。…どう思うかな?

「失礼します」

 もの思いにふけっていた僕の耳に、いきなり彼女の声が聞こえた。でも、それはカワベさんの声だった。

「おくつろぎのところ申し訳ありません。よろしいでしょうか?」

「いえ、かまいませんよ」僕はカップをホルダーに置き、居すまいを正して応えた。カワベさんは言った。

「なぜお眠りにならないのですか?」

 質問の意味がよく分からなかったが、僕も学べない男では無い。きっとまたここにもまた僕の知らない問題が発生しているに違いない。

「というと?」

「眠っていただかないと目的地に到着できません。当機は十分な燃料を積んでおりますが、必要以上に飛び続けると足りなくなる可能性があります。その場合は出発地まで引き返すことになりますが、例えそうなりましても料金の払い戻しはいたしかねます」

 なるほど。眠らないとこの飛行機は頭の中に辿りつけないのか。それは色々な意味で困ってしまう。

「分かりました。少し考え事をしていたんです。もう眠ります」

 僕がそう言うと、カワベさんはまた無表情にニコッと微笑んで、窓際の席まで戻っていった。

 とは言ったものの、僕はまくらが変わると眠れないたちなのだ。それに子供のとき以来、昼寝もしたことがない。しかも目を覚まそうと思ってコーヒーを飲んでしまった。カワベさんが怪訝そうな顔をしたのはそういうことだったのか。弱ったな、うまく眠れなかったらどうしよう。なんて思うほど緊張して、逆に眠れなくなってしまうんだよなあ。

 とりあえずシートを倒して目をつぶっておくことにした。肘掛けについているリクライニングボタンを押すと、ゆっくりとシートが倒れ始めた。だが思ったよりも深く倒れてくれない。横から見ると、12時を指してした針がせいぜい11時まで傾いたくらいだ。全然楽にならない。仕方がないので腰を前にずらして、シートに浅く掛けることにする。この姿勢だと首がつかれる。いっそのこと床に寝転んでしまおうかと思ったところで、尻になにかが当たっているのに気がついた。ズボンの尻ポケットに手をつっこむと、何か小さいものが指先にあたった。取り出して見ると、それは彼女が渡してくれたビニール袋だった。

 そういえばこれはなんだっけ。ジップロックを開き、袋を逆さにして振った。手の平にポリエステルでできた半透明の容器が落ちてきた。そうだ目薬だった。眼科で処方される医薬品のようで、ラベルには『睡眠点眼剤』と書いてあった。

 なるほど。きっとこれを差せば眠れるようになるのだろう。彼女は僕が旅先で眠れないことを知っているから、気を利かせて渡してくれたのだ。敵わないなあ。僕は彼女に感謝をして、早速両目にその薬を差した。

「ナカジマ様。到着いたしました。ナカジマ様」

 効果はてきめんだった。僕は点眼後、一回目のまばたきで眠りに落ち、カワベさんに揺り起こされて気がついたのだ。足下には目薬の容器が転がっていた。

「ああ、着いたんですね。思ったより早かったな」

 はっきりとそう言ったつもりだったが、どうも呂律がまわっていない。カワベさんはかがんで目薬を拾い、僕に手渡してくれた。立ち上がると膝に力が入らず、ふらついた。薬の効果がまだ残っているようだった。すかさずカワベさんが寄り添って僕を支えてくれた。

「まだ眠気がおありですか?」

「いえ、大丈夫です。ちょっと立ちくらみがしただけです。最近どうも鉄分不足みたいで…」

「無理をなさらないほうがいいですよ。コーヒーをお持ちします」

「大丈夫ですよ」

「いえ、強情を張られても困るのです」そう言ったカワベさんの顔は無表情だったが、少し怒っているようにも見えた。

「万が一、ナカジマ様がこの後すぐ、また眠ってしまわれると私たちは帰ることができません。今から一時間以上は起きていていただかないと私どもが困るのです。次のフライトにも間に合いませんし、場合によっては燃料補給の手配が必要になるかもしれません。それは当社にとっても、また私どもスタッフ個人にとっても深刻で危険な問題です。お分かりですか? 決してささいな事ではないのです」

 僕は再びシートに身を埋め、カワベさんがコーヒーを持ってくるのを待った。窓の外を見ると広大な大地が見えた。あれが僕の頭の中なんだろうか。なんだかまるで地平線まで広がる農地のように見える。カナダとか、シベリアとか、寒い地方にある、耕されたばかりの小麦畑のようだ。

 コーヒーを飲み終えるまで、カワベさんは僕の隣に座って付き添ってくれた。

「ねえ、カワベさん」

「なんでしょうか」

「また質問をしてもいいかな? くだらないことで申し訳ないけど、眠気覚ましに何かしゃべりたいんで」

「構いません。どうぞ」

 僕はもう一口コーヒーを飲んで言った。

「カワベさんは、どうしてこの仕事についたの? フライトアテンダントっていうか、正直いって体内線…だっけ?の乗務員なんてあまり若い女の子に人気があるとは思えないけど。お客さんも少ないだろうし」

「だから応募しました」カワベさんは言った。「誰にもちやほやされないフライトアテンダントになりたかったからです」

 簡潔な説明だった。僕は少し感心してしまった。

「仕事は楽しい?」

「はい」

「つらいときはない?」

「まれにあります」

「それはどんな時?」

「飛行機が飛ばない時です」

 カワベさんの顔は真剣だった。

「君は本当に職業意識の高い人なんだね。僕にはちょっと真似できなさそうだ。僕の知り合いでも仕事中毒な人間がひとりいるけど、カワベさんには敵わないと思うよ」

「恐れ入ります」

「…でも少し不思議だな。君みたいな美人で頭のよい人ならもっと他に良い仕事があると思うけど。恋人はいるの?」

「いません」

「本当に!? こんなに美人なのに?」僕は大げさに驚いてみせた。「嘘だよ。こんな美人を男が放っておくはずがない」

「婚約者ならいました。以前の話ですが」

「へえ、その方とはうまくいかなかったんですか?」

「いなくなりました」

「いなくなった? 逃げられちゃったってことですか? ひどい男だな」

「そうともいえません」

「でもいなくっちゃったんでしょう? あなたみたいな美人を放り出して」

「彼はおそらく私の体内にいます」カワベさんは真っ直ぐ前を向いたまま(つまり僕にその美しい横顔を見せたまま)そう言った。

「私が出勤していなかった日の乗客名簿に彼のサインがありました。行き先は私の体でした。その日以来、彼と連絡がとれません。このような状況から推測するに彼は私の体内にいます。おそらく今も」

 生きているんですか!?と訊こうとして慌てて押さえ込んだ。それは絶対に口にしてはいけない質問のはずだ。カワベさんは続けた。

「なぜ彼が私の体内に行こうと思ったのか、そしてなぜそこから戻ってこないのか。不明です。本当はどこか別の場所に逃げていったのかもしれません。何も分かりません。ただ彼はいなくなった、その事実だけは存在します。それだけは変わりません」

 カワベさんは僕の彼女と同じ声でそう語り終えた。僕は何だか自分が彼女の元から引き剥がされてしまったような気がした。自分がもう死んでしまったような気にさえなった。内蔵から温もりが奪われていった。本当に貧血になってしまったみたいだった。

「いかがですか? もう眠気は収まりましたか?」

 カワベさんはそう言うと、空になっていた僕のカップを手に取った。

「はい。…何だか立ち入ったことを聞いてしまいました。すみません」

「眠気が収まったなら何よりです。これで私たちも安心して出発することができますから」

 カワベさんに連れられて、僕はドアへと向かった。別れ際にカワベさんはもう一度ニコッと微笑んだ。よく見るとそれは無表情というより、とても悲しい顔のような気がした。

 見渡すばかりの平原のど真ん中に僕は立っていた。もう一度確認しよう。ここは僕の頭の中だ。でもいま目に映っているものは、どうしても畑にしか見えない。でも確かに空のかわりに天井がある。光沢のあるベージュ色(彼女がこれと似たような色の下着を持っていたな)をした天井は、ブラジャーのカップのようにゆるやかなカーブを描いている。全体がうすぼんやりと光を帯びているのは日光が透過しているからだろうか。足下は黒々とした肥沃な土壌のように見える。実際に摘まんでみても手ざわりは土そのものとしか思えない。そのまま指を鼻先に近づけると土の匂いがした。やはりここは広大な小麦畑だ。これならみみずが巣をつくるというのも納得できる。

「さてと…」

 非現実感を払拭しようとして、一人で声をだしてみたが無駄だった。風も吹いていないから耳から音というものが一切入ってこない。完全な無音状態というものがこれほど人を不安にさせるとは知らなかった。さっさと用事を済ませて帰ったほうが精神衛生上よさそうだ。

 うんざりみみずはどこにいるのだろう。一切の検討がつかなかったので、なんとなく明るいほうへ向かってみることにした。スーツケースのローラーが土に埋もれてしまって役に立たない。無理矢理引きずって進んでいるから、歩きにくくてやたら疲れる。バックパックにしておけば良かった。

 10分進んでも20分進んでも、景色にまったく変化がない。ただ、スーツケースを引きずってきた跡が、僕の後ろに延々と続いているだけだ。さらに20分ほど歩いたところで、はるか先に地平線(脳平線と呼ぶべきか?)とは異なるラインが視界の左右を結んでいることに気がついた。なんだろう、とりあえず行ってみよう。

 そこに辿り着くにはさらに1時間を要した。見た目より体力があるほうだとはいえ、荷物一杯のスーツケースを引きずりながらの強行軍は消耗した。首元も背中も汗びっしょりになってしまい、シャツが貼りついて気持ちが悪い。僕は立ち止まり、スーツケースを開いた。羽織っていたリネンの上着を中に突っ込み、代わりにタオルを取りだした。汗を拭いながら目の前に横たわるラインを観察していると、やっとその正体が分かった。遠近感が狂っていてうまく認識できなかったが、それは見渡す限り続く峡谷だった。いや谷というより、溝。光の届かない真っ黒な溝だ。スケールが大きすぎてここまで近づかないと分からなかったのだ。グランドキャニオンのように、ナイアガラの滝のように、地面が大溝にむかって飲み込まれていた。高さを想像すると背筋がすっと寒くなった。昔の人が考えたこの世の端っこみたいだ。世界が断絶されている。ただし、その溝の向こうにはまた同じような大地が続いているのが見えた。

 ピンときたんだけど、これは脳みその真ん中にある、右脳と左脳を分けている溝じゃないだろうか。そう考えれば納得がいく。

 さてどうしたものか。僕はスーツケースの蓋を閉めてその上にどっかりと腰掛け、一息ついた。どうやらここから先へは進めないらしい。とんだ無駄足というものだ。引き返しても構わないが、みみずの居場所が分からないことに変わりはない。やれやれ、いつまでこんな当てのない放浪を続ければいいんだ。

「みみずでてこーい!!!」

 僕は目の前の溝に向かって思い切り声を張り上げた。壮大な景色に向かって大声を出すのは気持ちがいい。なんだかハイキングをしているみたいだ。すると、どこからともなくゴウゴウとした振動がわき起こってきた。かと思うと、

み・み・ず・で・て・こ・ー・い・!・!・!

 自分自身の声があたり一面に木霊した。しまった、自分の頭の中にまで響くような大声をだしてしまったか。うるさくてかなわない。巨大なスピーカーの前に立っているみたいに、空気の波が僕自身の体を震わせた。骨伝導というやつだろうか。それをきっかけにして、大溝の淵の地面がガラガラと崩れ始めた。それは最初は土塊がころがる程度の小さなものだったが、次第に激しさを増し、あれよあれよという間に巨大な地滑りとなった。地面の崩壊はこちら側へと向かって広がっているようだった。

「まずい!!!」

 あっと思ったときにはもう遅く、再び地響きが起こって

ま・ず・い・!・!・!

 という言葉がやってきた。なんて間の抜けたことをしてしまったんだ! 崩壊は輪を掛けて進み、どんどんこちらへと近づいてきていた。僕はスーツケースをほっぽって走り出した。駆けだした足が柔らかい地面を勢いよく踏みつけると、新雪のようにくるぶしまで埋まった。足を取られて走りづらいことこの上ない。駆けていくその足下に何条もの細長い亀裂が入り始める。まずい、これは本格的にまずい! ちらっと後ろを振り返ると、大枚をはたいたサムソナイトのスーツケースが地滑りに巻き込まれて消えていった。くそっ。レイバンのサングラスも一緒に入っていたのに! 気が散ったせいで足がもつれて派手に転んだ。万事休すというやつだ。冒険映画ならここでぎりぎりセーフ、というところだろうが、そうはならなかった。突然、重力から解放されたかと思うと、僕の体は地滑りにまきこまれて落ちていった。

 強かに腰を打ってしまい、うめきながら起き上がった。てっきり奈落の底へ真っ逆さまかと思いきや…ほんの数メートルほど下へと落ちただけだった。

 土壌が柔らかくて助かった。いったいどういうことだろう? 前後にはまるでスノーボードのハーフパイプみたいに半筒型に穿たれた通路が続いている。サムソナイトのスーツケースが、仰向けになって転がっているのが見えた。

 この状況から察するに、おそらく地面全体が崩れていたのではない。地下を通っていた長いトンネルの天井が崩落したのだ。僕はちょうどそのトンネル真上にいたということだろう。しかし、なぜ脳みその中にトンネルが通っているんだ? 答えは明白だった。きっとこいつがうんざりみみずの巣だからだ。

 足下の地面がぶよぶよと動いた。かと思うとベルトコンベアーのようにずるずると移動を始めた。僕はバランスを失って再び尻餅をついた。移動する地面は僕の目の前でどんどん隆起していった。山がひとりでに出来上がっていく。ビデオの逆回しのような奇天烈な現象だ。山肌には細かな亀裂が入っていて、その隙間からヌメヌメと光る赤いものが見える。僕は体勢を立て直し、足下が安定しているスーツケースの近くまで移動をした。山はすでに5階建てのビルくらいの高さにまで成長していた。そしてその天辺から、真っ赤な巨大みみずが鎌首をもたげるようにして現れた。

 まさかここまで大きいとは思っていなかった。せいぜいアナコンダくらいだろうと(実際にアナコンダをみたことはないけど)高をくくっていた。これはちょっと、あんまりだ。胴まわりなんてカバくらいの太さがあるじゃないか。こんなのを本当に追い出せるのか? みみずは胴体を左右に揺らしながら、ゆっくりと僕の方へ頭を伸ばしてきた。そしてその歯の無い口から野太い声を吐き出した。意外なことに口をきけるのだ。

「お前はこの脳みその持ち主か?」

 生臭い息があたり一帯に充満した。捌いた魚を二三日放っておいたようなエグみのある匂いだった。僕は手で鼻と口を覆い、精一杯の虚勢を張って頷いた。みみずは再び口を開いた。

「何をしにきた?」

 人の頭に寄生しているくせに、偉そうな口をきくみみずだ。僕はあまり大声にならないよう注意しながら、みみずに向かって言った。

「お前を追い出しにきたんだよ。とっととここから出ていってくれないかな。お前がいると僕は都合が悪いんだ」

 みみずはブルブルと長い体を震わせた。笑っているようだった。

「それはできない相談だ。ここは住み心地がいい。それに俺の好きな、洗っていない枕の匂いがする」

 げ、それが原因だったのか。参ったな、やっぱり彼女の言うとおりファブリーズだけではいけなかったのだ。しかしここで気圧されるわけにいかない。

「お前がでていかないのなら、力ずくで追い出すまでだ」

 僕はそう言い放つと、傍らにあったスーツケースを開き、中からレイバンのサングラスと特注の紫外線ライトを取り出した。肉眼では直視できないくらいの強力な光を放つ改造ライトだ。みみずは紫外線に弱いというのは下調べしておいた。問題なのは相手が予想していたよりもはるかにでかいということだが、大きさがどうであれ、みみずということに変わりは無いはずだ。僕はサングラスを装着し、ライトをみみずに向かって突きつけた。

「食らえっ」

 スイッチを入れると、光の帯が真っ直ぐにみみずの顔面へと突き刺さった。途端、みみずは身を複雑にくねらせ、生臭い息をまき散らしながら悶えた。やった効いている。

「どうだ! 出ていく気になったか」

 僕は得意満面の顔でみみずにライトを当て続ける。

「ぐうむ、よくも」

 みみずはより一層低い声でそう呟くと、頭を地面にぶち当て始めた。狂ったように何度もみみずの頭が地面に叩き付けられる。まるで巨大なハンマーで釘を打っているみたいだ。打つ度に僕の体は衝撃で浮き上がる。いったいどれだけの馬鹿力なんだろう。僕が変なところに感心をしていると、いきなり地面の底が抜けたように穴が開き、みみずの体は素早くその中へと消えていった。

 しまった逃げられた。と思ったがそうではなかった。次の瞬間には僕の足下が盛り上がり、大口を開いたみみずの頭が現れたからだ。僕はうまく体をひねって間一髪飲み込まれるのを避けたが、握っていたライトは跳ね上げられ、どこか遠くのほうへと飛んでいった。かけていたサングラスは、そのままみみずに飲み込まれてしまった。頭上から土塊がまさに土砂降りの雨のように降り注いできた。僕は両腕で顔を覆い、土煙が立ちこめる中でライトの行方を捜した。しかしそれはどこにも見当たらなかった。もしかしたら降ってきた土に埋まってしまったのかも知れない。

 唯一の武器を失ってしまった。みみずは鉄塔のようにそびえ立ち、僕を見下ろしている。ここは一旦退却したほうがよさそうだ。三十六計逃げるにしかず。僕はそう判断し、くるりとみみずに背を向けると一目散に走り出した。

「逃がしはしない」

 みみずはいかにも悪役めいた口調でそう言うと、真っ赤な体を矢のように走らせ、あっという間に僕に追いついた。そして、そのじっとりと濡れた体を巻き付けてきた。巻き付くというより、挟んで押しつぶすと言ったほうが近い。僕は粘液の染み出す気色悪い肉塊にプレスされ、肺が押し潰されて息ができなかった。何とかもがいて抜け出そうとしたが、手も足もがっちりと拘束されていて、微動だにできない。

「殺しはしない。脳みそが死んでしまったら困るからな。だがもう二度と馬鹿なことを考えられないように、植物状態になるまでこのまま締め上げてやろう。こうしてやるのもお前で3人目だ。うまくやれるさ。安心しろ、脳みそを一通り味わい尽くしたら出ていってやるよ」

 手を伸ばせば届くくらい、僕の顔前まで頭を運んできたみみずは、弾んだ声でそう言った。でもその声はほとんど聞こえていなかった。すでに僕の意識は白みはじめていたからだ。呼吸と同時に首から上への血の巡りも止まっていた。まずい…これは本格的に…まずい…。このままだとじきに意識を失ってしまうだろう。そうなったらもう最後だ。助かるとは思えない。僕は力を振り絞って抵抗を試みた。粘液のぬめりを利用して何とか右腕一本だけは束縛から抜け出すことができた。でもそれが限界だった。僕は薄れゆく意識の中で、弱々しいパンチを目の前のみみずの頭に向かってくりだした。拳が乾いた音を立てた。当たるには当たったが、それだけだった。みみずの体がぶるぶると震えた。きっと笑っているのだろう。僕は目を閉じた。瞼の裏の闇が意識の深くまで染みこんできた。

「ただ彼はいなくなった、その事実だけは存在します。それだけは変わりません」

 暗闇の中でカワベさんの声が聞こえた。飛行機は無事に帰れただろうか。もう一時間以上経っているから、ここで僕が意識を失っても迷惑をかけることはないだろう。そう考えると少しほっとした。僕の頭の中で、僕が眠り続けたら、僕はいったいどうなってしまうんだろう。よく分からない。難しくてよく分からない。カワベさんの婚約者みたいに行方不明になってしまうのかな。

「ただ彼はいなくなった、その事実だけは存在します。それだけは変わりません」

 再びカワベさんの声がした。でもそうではなかった。それは僕の彼女の声だった。

「ただ彼はいなくなった、その事実だけは存在します。それだけは変わりません」

 おかしいな。ついさっきまで彼女は僕の隣にいた。モノレールの中で手を握ってキスもした。その前は一緒にハンバーグを食べていなかったっけ? チーズリゾットだったっけ? どっちでも構わない。

 …ひょっとしてもう会えないのかな。

 …それは嫌だな。

「ねえ、どうして君はいつもそんな不思議な格好で眠るんだい?」

 安物のワインで酔っ払った頭で、僕は隣の彼女に声を掛けた。僕らは裸で、ベッドのシーツに包まれて抱き合っていた。彼女の滑らかな肌が僕の体にぴったりとくっついていた。彼女は眠ったように見せかけて、本当は眠ってなんかいなかった。僕の胸に耳を当てて心臓の音を聴いていたのだ。僕はそれを知っていた。彼女は僕がそれを知っていることを知っていた。彼女は言った。

「この仕事をやっているとね、どうしても救えない人って出てきちゃうじゃない?」

「うん、そうだろうね。仕方のないことだけれど」

「そうなの。仕方のないことだけれど」

「それで?」

「内科と違って外科ってね、思いもよらず突然に亡くなったって方が多いのよ。例えば交通事故とかね。朝まで元気いっぱいでぴんぴんしていたのに、夕方には冷たくなっている。本当なら大きな隔たりのあるはずの生死の境目を、ふいに飛び越えてしまった。そういう人を何人も見たわ」

 僕は相づちを打つ代わりに、彼女の髪を撫でた。

「だから私、傷ついているの。変な言葉かもしれないけど、傷ついている。もちろん仕事は好きだけどね。大きな傷じゃなくて、目に見えない細かい傷がたくさんついているの。そういうのって、とても消耗する」

「何となくわかるよ」

「そして怖いの」

「怖い?」

「いつか、私やあなたにも同じようなことが起こるんじゃないかって。その可能性を考えると怖いの。私もあなたも健康で平穏な日常を過ごしている。でもいつか悪いカードを引く時がくるかもしれない。ババ抜きみたいにね。運命はゲームを降ろさせてはくれない。それは私やあなたの生き方に何の関係もない。ただの確率の話。もしその時が来たら、避けられないわ」

「それはそうかもしれないな」

「だから、私はあなたが生きていることを確認していたいの。特にこうやって二人でベッドの中にいるときはね」

「そうなんだ。6年も付き合ってて初めて知ったよ」

「そうなの」

「ところで、僕はちゃんと生きてた?」

 彼女は僕の胸から耳を離し、僕を諭すように言った。

「もちろんよ」

 縁起悪いなあ。何で彼女と最後に寝たときのことなんか思い出してしまうんだろう。これじゃまるで走馬灯じゃないか。

 僕が帰ってこなかったら彼女は哀しむだろうな。僕自身が死んでしまうのは、自業自得かも知れない。なにせ本当は3年間も枕を洗っていなかったのだから。けれど、彼女を哀しませたくはないな。

 それは僕が彼女に残してあげられるものとしては、あまりにも寂しすぎる。僕が寂しいんじゃない。そんなのはどうでもいい。彼女が寂しいのが耐えられない。彼女と抱き合った後、もう彼女に僕の胸の音を聴かせてあげられないのが耐えられない。彼女に小さくて安らかな、春の小熊のうたたねのような、そんな安心を与えてあげられないのが耐えられない。

 今度、二人で一緒に暮らそうって言ってみようかな。

 断られるかもしれないけれど。

 左手の手の平に何か固いものが当たっていた。ズボンのポケットの中に何か小さなものが入っているのだ。それは一か八か最後の望みだった。僕は手の平を体に沿って這わせ、何とか左手をポケットの中に押し込んだ。気力だけで瞼を開けた。何とかこの腕を目の前で臭い息を吐く、あいつの頭まで持って行ければ。もう思いつく残された方法は一つだけだった。

 僕は残された力の全てを注いで、彼女のことを思い出した。学生時代からずっと、彼女と二人で笑い合ったくだらない日々のことを。そして思いを巡らせた。これから一緒に過ごしていくはずのくだらない日々のことを。

 彼女の名前を叫んだ。心の底から。

 いや、僕はまったく叫べてなんていなかった。ただ喉の奥から弱々しい、気の抜けた炭酸のような、小さな空気の塊がこみ上げてきただけだった。我ながら惨めで情けなかった。振り絞った心に体が付いていけていなかった。僕はついに悪いカードを引いてしまったみたいだ。

 僕の心を読んだように、目の前のみみずが歯の無い口でにやりと笑った。

 その刹那、まるで雷鳴のような鋭さと力強さで、僕の頭の中に彼女の名前が響いた。僕の頭の中に彼女の名前が何度も木霊した。声は出なかった。だが、僕の頭の中は、確かに彼女の温かな名前の響きで満ちていた。空気がビリビリと震え、異変を感じたみみずの力がわずかに弱まった。その機会を逃すわけにはいかなかった。僕は拳を握りしめたまま、左腕を肉塊からひっこ抜いて、みみずの頭に突き当てた。キャップを外す余裕なんてなかった。だから僕はその容器を握りしめた。もう決して離したくない手を握るように。手の平の中で液体が漏れ出し、拳をつたって滴った。

 『睡眠点眼剤』はみみずの頭の上、他の生き物ならちょうど眼球のある辺りに、透明で小さな斑点をつくった。

 果たして目の無いみみずに目薬なんてものが効くのか、分からなかった。やがて、それまで木霊していた彼女の名前の響きがやんだ。再び無音の静寂が訪れた。みみずはニヤリと笑ったまま動かなかった。ずっとそのままだった。その頭は睡眠点眼剤が滴り落ちた部分を中心に、しだいに青黒く変色していった。ふいに僕の体を締め付けていた力が緩んだ。僕は大きく息を吸い込んだ。首の上に血流が一気に回って、のぼせたみたいにクラクラした。

 真っ赤だったみみずの胴体は、頭の先から段々と青く変色していった。僕の体を締め付けていた部分が変色すると、みみずの体が次第に冷たくなっているのが分かった。効果がないどころか、この目薬はみみずにとって恐ろしい劇薬だったみたいだ。鉄塔のようにそびえたまま、みみずは絶命したようだった。

 僕は冷たく硬直していた胴体から何とか抜け出し、地面に降り立った。半分埋もれていたスーツケースを引っ張りだし、土をはらって腰掛けた。僕は大きくため息をつき、芸術的なオブジェになったみみずをしばらくぼおっと眺めていた。

 荷物を引っ張りながら、元トンネルの壁を這い上がるのは一苦労だった。地上に戻ると、都合の良いことに往きに残してきたスーツケースの跡が、ならされた道のようになって丘の向こうまで続いている。とりあえず元の場所にもどれば飛行機がくるだろう。あれ? そういえば帰りの飛行機はいつくるんだっけ? スーツケースの中のチケットを確認しようかと考えたが、やめた。代わりに上着の胸ポケットからスマホを取り出し、彼女に電話をかけた。病院だから出られないのは分かっていたが、それでもかけたかった。しかし、意外なことにツーコールめで彼女は電話に出た。僕は声のボリュームに気をつけながら話した。

「もしもし? まだ病院についてないの?」

「…変な話なんだけど、実は羽田にいるの。何となく落ち着かなくて、まだ体内線のターミナルに座っているのよ。こんなことしてもどうしようもないのは分かっているんだけど」

「じゃあ、病院は?」

「どうにも仕事が手に付かなさそう。今日は休むわ。母方の叔母さんに死んでもらいましょう」

「じゃあ僕が死んだことにしてもいいよ。婚約者が死んだから出勤できませんってさ。おいおい泣きながら訴えてみてよ」

「馬鹿ね…。そんなこと私の性格じゃできないわよ。それにあなた婚約者じゃないじゃない」

「じゃあ、結婚しようよ」僕は言った。「結婚して二人で暮らそう」

 わずかな沈黙が訪れた。

「あなた突然何言ってるの? どうかしちゃったの? みみずのせい?」

「そうだね。…そうかもしれない。嫌?」

 再び訪れた沈黙の後、彼女は言った。

「…まくらは毎週洗濯してね?」

「もちろん! 言われなくてもそうするよ!」

 彼女が手配した帰りのチケットはなんと一週間後だった。普通だとみみずを探し出して追い払うまで、平均3日はかかるらしい(僕はその倍かかるだろうと思われたということだ)。結果は大体3時間。これは自慢になるんだろうか。僕は彼女に尋ねた。

「今さらなんだけどさ、みみずって正しくはどうやって追い払うものなの? どうも僕のはかなりイレギュラーな方法だったみたいだから」

「あなた。それ本気で言ってるの? それともわざと私に言わせたいの?」

「え? どういうこと? 本当に分からないんだよ」

 彼女は電話口で大きなため息をついて言った。

「オシッコを引っかけて追っ払うのよ」

 僕は残りの日々を頭の中でゆっくりとすごした。眠ったり本を読んだりしていたが、大体は頭の中で彼女のことを考えて過ごした。

 帰りの飛行機に乗り込むと、そこにはカワベさんがいた。ニコッと微笑む彼女の顔は一週間前とどこか雰囲気が違っていた。一言でいうと笑顔だった。僕は彼女が着けているネームプレートの名前がKAWABEではなくなっていることに気がついた。左手には控えめな輝きの指輪がはめられていた。

 カワベさん(カワベさんと呼ぼう)は、やはり彼女と同じ声で言った。

「ご搭乗ありがとうございます。ナカジマ様。良い旅でしたか?」

「もちろんです」僕は笑顔でそう答えた。


文 / 岡本諭

表紙 / 仲井希代子(ケシュ ハモニウム × ケシュ#203)

*『往復書簡 選外』とは… 仲井陽と岡本諭、二人の作者が2014年から1年間に渡ってweb上で交互に短編小説をアップしあう企画『往復書簡』から、様々な理由で書籍化されない「選外作品」ばかりを集めたスピンオフ企画です。

書籍化された『往復書簡 傑作選』は、学芸大学にある本屋「SUNNY BOY BOOKS」さんと中野ブロードウェイ3Fにあるタコシェさんでも取り扱って頂いております。是非お立ち寄りください!

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