往復書簡_選外_表紙

『往復書簡 選外』(11) 楓太 ~にっぽんトワイライトばなし~【小説】

 昔々あるところの話。

 楓太(Futa)という百姓がいた。幼い頃に両親を亡くして以来、村の多くの者たちと同じく地主さまから借り受けた土地を耕して暮らしていた。

 職人だった彼の両親は唯一の財産として立派な茶壺を遺していたが、どんなに暮らしが苦しくなろうとも楓太は決してそれを手放そうとはしなかった。己の財産は己で築くべきで、茶壺は家宝として受け継ぐべきだと考えていた。真面目で知恵が働き、何より弱音を吐くのが嫌いな若者だった。

 このような気骨は職人ならばもちろん美徳であったが、しかし小作人としては完全に裏目だった。愚痴の一つもこぼさず、いずれ自分の田圃を持とうと夢見て働く楓太は、それを快く思わない仲間たちからやれ苗を分けてくれだの、やれ稲刈りを手伝ってくれだのと都合よく使われ、働けど働けど、穴の開いた瓶で水を汲むように暮らしは中々上向かなかった。

 ある日のこと。人より早く田植えを終えた楓太が木陰で休んでいると、珍しく地主(Jinushi)さまがやって来て彼を呼んだ。雇い主の突然の来訪に小作人たちは驚き、農作業に励むふりをしながら横目でちらちらと窺った。地主さまは声を顰めた。

「実は話があってな。お前は人一倍よく働くが、聞けば自分の土地を持ちたがってるそうじゃないか。その頑張りを認めて、お前に今貸しているこの田圃を譲ってやろうかと考えているんだが――」

 嬉しくて飛び上がりそうになる楓太の先を制し、地主さまは続けた。

「いや、まて、まて。但しただ譲ってやるというのでは他の者に示しがつかん。そこで、ひとつ芝居を打とうと思うのだが、どうだ?」

「芝居?」

 言わんとすることを呑み込めず、楓太は首を傾げた。

「そうだ。お前ばかりを贔屓すると他の者から不満が出るだろう。下手をすると我も我もと言い出しかねん。だから、皆が納得するような形を取らねばならん」

 地主さまの話はこうだ。まず楓太と地主さまがちょっとした言い争いのフリをして――理由は何でもいい、地代が高すぎるとか、百姓の苦労を分かってないとかそういうことで――、皆の注目を集めたあと楓太の側から地主さまに賭けを申し出るのだ。賭けるのはこの田圃、もちろん八百長だ。小作人たちの前で地主さまが負ければ、譲らざるを得なくなる、とこういう算段だった。

 正直、回りくどいやり方だ、と楓太は思った。だが待ち焦がれていた願いが叶うとあっては、喉に引っかかった小骨もたやすく呑み込まれた。こういった取引は性に合わないが、地主さまにも上に立つ人なりの気苦労があるのだろう。それに何よりこれは俺の働きぶりに対する正当な報酬なのだ。なんら恥じることはないはずだ。

 かくして、あらかたのやり取りを示し合せると、二人は周りに聞こえるようわざと大きな声で言い争いを始めた。

「それじゃあお前は何か、小作人の分際で儂に逆らうのか!」

「お、俺は何年もここを耕してきたんです。こ、ここの土については誰よりもよく知ってる。地主さまといえど仕事に、く、く、口を出されたくはねえ!」

「ここは儂の土地だ。儂の持ち物のことは儂が一番よく分かっとる!」

 その場にいた誰もが仕事の手を止め二人を見た。楓太の口調はたどたどしかったが、それは地主さまを恐れるがゆえのようでもあり、流暢に話すよりも自然に映った。地主さまに歯向かうなんて恐れ多いことを。楓太はおかしくなってしまったのではないか。あんな物言いをしたらどんなお咎めを受けるか分からないのに。

 恐々とした視線が集まるのを感じながら、二人は先を続けた。

「だ、だったら地主さま、俺と賭けをしましょう」

「賭けだと? 何を賭けるんだ?」

「お借りしているこの田圃、です。もし、俺が勝ったら、これを頂きたい。お、俺よりも分かってると言うなら負けないはずだ」

「なるほど、いいだろう。して内容は? どのような賭けだ?」

 楓太はすっと向こうを指差した。その先には田圃の真ん中で毛づくろいをする一羽の白鷲の姿があった。

「あ、あの白鷲がどちらの方角へ飛び立つか、それを言い当ててみせます。もし、当たったならば俺の勝ち、外したら地主さまの勝ちです」

 もちろんこれも筋書だ。楓太は白鷺がどちらに飛ぶかを知っていた。ここから西には沼があり、そこのフナを餌とするため白鷺はいつも必ず西へ飛び立つのだ。それは一度も違えることなく、楓太は、鳥にも人と同じように毎日の決まりがあるのだなと感心していた。

 と、それまでは順当に進んでいたのだが、ここにきて筋書にない出来事が起こった。百姓たちの間から一人の男が飛び出してきたのだ。この男は六朗(Rokuro)といい、楓太とはよく酒を酌み交わす間柄だった。六朗は楓太と地主さまの間に割って入ると慌てて頭を下げた。

「すみません、地主さま! こいつ働きすぎてどうかしちまったようで……。おい、今すぐ謝れ」

 突然の乱入者に楓太は戸惑ったが、いやいやボロを出すわけにはいかないと押し切って進めた。

「いいや、謝らねえ。地主さま、どうなんです?」

「よし、では見事当てられたら田圃をやろう」

 すると六朗が思いもよらぬことを言い出した。

「そんなことを言って負けたらどうする。田圃を取り上げられちまったら、明日からどうやって食っていく気だ。地主さま、どうか勘弁して下せえ」

 楓太は虚を突かれた。田圃を取り上げられる? なるほど、勝つ前提の勝負だったから深く考えていなかったが、言われてみれば確かにそうだ。地主さまとの間では、万が一上手くいかなかった時はまた機を見て仕切り直そうと打ち合わせていたが、しかしこうしていざ大勢の前で啖呵を切ってしまうと、もう有耶無耶にできそうもなかった。地主さまとしても取り上げざるを得ないだろう。賭けの対象である以上、負ければ失うのが道理だ。

 地主さまもこれに気付いたらしく、二の句が継げずにいた。すると、見ていた百姓たちの間から声が上がった。

「なら、楓太はあの茶壺を賭けたらどうだ」

 楓太のことを嫌っている連中だった。楓太が茶壺を手放さず、さらに田圃も手に入れようというのが気に食わないらしい。

「そうだそうだ。田圃と引き換えならそれくらいが妥当だ。虫が良すぎるぞ」

 また誰かが言った。楓太は困り果てて地主さまを見やった。すると地主さまは苦々しい顔をしながらも、気付かれないよう微かに頷いた。そうか、茶壺ならほとぼりが冷めた頃こっそり返してもらえばいい。田圃に比べれば容易いことだ。いや、そもそも負けるはずはないのだが。

「よし、じゃあ俺は茶壺を賭けよう」

 楓太がそう言い切ると、六朗は頭を抱えた。

「もうどうなっても知らねえぞ……」

 一陣の風が頬を撫でた。田圃のどこかでドジョウが跳ね、青々とした稲の間に光が揺れた。白鷺は毛づくろいを終え、今にも飛び立とうとしていた。

「それでは、どちらへ飛ぶのか言ってみろ」

 地主さまが問うた。楓太は少し迷ったが、今更何を迷うことがあるかと思い直し、きっぱりと答えた。

「西です」

「西、ということはあちらだな」

 地主さまが手を上げ太陽の傾きかけた空を指した。楓太は頷き、あとは白鷺に祈るような視線を送った。

 それからほどなくして、白鷺は二度三度とその場で羽ばたくと、いよいよ宙へ舞い上がった。いつもなら真っ直ぐ西の空へ飛んでいくのだが、しかしこの時は違った。どこからか鷹が現れ、西へ向かおうとする白鷺の前に立ちはだかったのだ。白鷺は何度か上空を旋回して鷹から逃れようとしたが、しかし敵わず、追われるままに東の空へと飛び去った。

 そう、西へは行かなかった。楓太は賭けに負けたのだ。

 信じられなかった。あまりにもあっけない幕切れに楓太は何度も目を疑った。うろたえて地主さまを見ると、地主さまは顔を伏せ、深くため息をついた。

「儂の勝ちだな。気の毒だが、約束は約束だ。茶壺は頂くぞ」

 耳を疑った。いや、地主さまは皆の手前そう言ったのだ、本意ではあるまい、すぐにそう考え、楓太は食い下がったが、事態は変わらなかった。

「まさか無効だと言うのではあるまいな。今更それは通らんぞ」

「いや、しかしまさか鷹が来るとは……」

「賭けを持ち出したのはお前じゃないか。白鷺がどちらへ飛ぶか分かると言っただろう」

 悪い予感が膨れ上がっていくのを必死で抑えながら、楓太は皆に聞こえないよう小声で言った

「あの、田圃を譲って下さると言ったのは……」

「くどい! 茶壺を賭けると言ったのは嘘か。恥を知れ!」

 打ち据えるような怒声だった。これにより、ようやく楓太は取決めが無かったことにされたのだと悟った。何もかもが手遅れだった。地主さまは何人かの小作人に申し付け、楓太の家から茶壺を持ち出すと、そのまま自分の屋敷へと運び込んだ。楓太は隙を見て何度も取りすがったが、訴えが聞き届けられることはなく、もはや後々返してくれるといった都合のいい望みなど叶えられようもなかった。地主さまは心変わりしてしまったのだ。労せず懐に転がり込んだ宝物を誰がやすやすと手放そうか。

 茫然と立ちすくむ楓太に六朗は言った。

「何でまたこんなことを……」

 しかし事の成り行きを話したところで何も変わらないだろう。楓太が騒いでも地主さまが知らぬと言ってしまえばそれまでだ。何より恥も外聞もなく喚きたてることなど楓太にできるはずもなかった。

 楓太はただただ無言で首を振った。それより他に仕方なかった。

 日が山々の向こうへと沈みかけても、楓太は家の前から動けずにいた。茶壺が運び出されるのを見送った時のまま、軒下で叱られた子供のように立ち尽くしていた。どうにか返してもらえないかと頭を絞ったものの、漠とした空白をかき混ぜるがごとく、何一つ浮かび上がってこなかった。楓太は自分の愚かさを呪い、心の中で両親へ何度も詫びた。もしやり直せるなら地獄に落ちてもいいとすら思った。

 ふと、道向こうのお地蔵さんが目に入った。

 それは野辺に祀られた膝丈ほどの小さな地蔵で、いつも見守るように楓太の家の方を向いていたのだが、その時は何故か横を向いていた。体ごと時計回りにほぼ90度回転していた。

 いや、朝出かける前に見たときは変わりなかったはずだ。茶壺を運び出す騒動の折、誰かがぶつかったのだろうか。しかしだとしたら倒れる方が自然だし、位置もずれていないとおかしい。こんな風に向き直ったような形にならない。お地蔵さんがひとりでに動いた? まさか。

 楓太は馬鹿げた考えに思わず笑みをこぼし、そしてこんな状態でもまだ笑えることに驚いた。どれ、ひとつ善行でも積んでおこうか、どうせ何をする気も起きないんだ、そう考え、ふらふらとお地蔵さんに近づくと、その肩を両手でつかんだ。小さな成りから予想していたよりも重たかったが、それでも力を込めて回すと、お地蔵さんは石臼を引くような音とともに元の向きに戻った。

 そして次の瞬間、まるでスイッチが切れたように、楓太の意識はブラックアウトした。

 暗闇の底で何者かの声がディレイがかって響いた。

『私ハ 11次元宇宙ヲ 監視スル アストラル体デス(デス デス デス デス……)。タダイマ 特異点ノ発生 及ビ 石質形象体ト時空連続体ノ同期ヲ 観測シマシタ(マシタ マシタ マシタ……)。警告(アラート)。可塑性ヲ 備エルノハ 残リ 3度 デス(デス デス……)。可塑性ヲ 備エルノハ 残リ 3度 デス(デス デス……)。警告(アラート)。フィクス後ニ 特異点ヲ 発生サセヨウトシタ場合 因果性ヲ 消滅(ロスト)スル可能性ガ アリマス(マス マス マス マス……)』

 一陣の風が頬を撫でた。田圃のどこかでドジョウが跳ね、青々とした稲の間に光が揺れた。白鷺は毛づくろいを終え、今にも飛び立とうとしていた。

「それでは、どちらへ飛ぶのか言ってみろ」

 地主さまが問うた。

 楓太には何が起こったのか分からなかった。さきほどまで夕暮れだったはず、いや、それどころか家の前にいたはずなのに、目の前には地主さま、六朗、百姓たち、そして向こうには白鷺……。忘れもしないあの瞬間が広がっていた。まるで、そう、まるで時が巻き戻ってしまったみたいだった。

「どうした? 早く言わんか。白鷺が飛んでしまうぞ!」

 急かされて楓太ははっと我に返った。そうだ、答えなければ。賭けの途中なのだ。楓太は戸惑いを追い出そうと頭を振った。

「西です」

「西、ということはあちらだな」

 地主さまが手を上げ太陽の傾きかけた空を指した。楓太は頷くも、その胸には重石のような不安が残ったままだった。これは夢か、いや、しかしとてもそうは思えない。だとしたらこれまでが夢だったのだろうか。俺は緊張のあまりありもしない白日夢の中にいたのか。

 かくして、いよいよ白鷺は宙へと舞い上がった。しかし西へと向かおうとする白鷺の前に、やはりどこからか現れた鷹が立ちはだかり、またしても白鷺は追われるままに東の空へと飛び去ってしまった。

 その一連を見つめながら、楓太の頭の中ではとある考えが像を結びつつあった。

 すなわち、すでに体験した出来事を俺は再びやり直しているんじゃないだろうか、と。

 そしてそれを裏付けるように、後々にもまるで同じ展開が待っていた。地主さまは約束を反故にし、食い下がる楓太に怒号を放ち、茶壺を屋敷に運び込んだ。命じた小作人たちの顔ぶれまで同じだった。

 楓太は確信を強めていた。やはりあれは夢ではなかった。俺は一度賭けに負け、そして今また繰り返しているのだ。何故か理由は分からないが、きっかけはあのお地蔵さんに違いない。善行を為したことで神通力が働いたのだろう。哀れな我が身を見かね、神仏が救いの手を差し延べてくれているのやも。

 ともあれ、と楓太は思案を進めた。だとすると、同じ振る舞いを続けるのは愚の骨頂だ。せっかく授かった機会が無駄になってしまう。しかしながら既に事は行われてしまった。俺は皆の面前で賭けに負け、茶壺はもう奪われてしまったのだ。なんと愚かなのだろう。何が起こるかは知っていたというのに。せめて白鷺が東へ飛ぶと答えていれば――。

 考え込む楓太に六朗が声をかけた。

「何でまたこんなことを……」

 楓太は顔を上げ、六朗の目をまっすぐに見つめて言った。

「六朗、もし地主さまが裏切ったと言ったら信じるか?」

「……裏切った? お前が喧嘩を吹っ掛けたんだろう?」

「本当は田圃を譲ってくれるという話だったんだ。賭けは八百長で、俺に田圃をくれるための方便だった」

 六朗の顔に困惑の色が広がった。無理もない、改めて振り返ってみれば中々に混み入った話だ。それでも、友が傷つかないよう言葉を選びながら六朗は答えた。

「……事情は分からんが、例え俺が信じたとしても難しいだろうな。何か証が無い限り、皆は地主さまを信じるだろう」

「……だろうな。俺もそう思う」

 楓太はそう言って、ふっと息を吐いた。

 日暮れまでの間、楓太はまた同じように家の軒下で佇んでいた。しかし今度心を占めていたのはそれまでの後悔ではなく、これからの算段だった。またお地蔵さんを見ていると、至極ゆっくりとではあるが、日の落ちるに合わせてひとりでに回転していた。それは注意深く見ていないと気付かないくらいの速度だったが、やがて日が山々にかかってくると、お地蔵さんの向きはほぼ90度になった。楓太はやおら近づき、その肩に手をかけると、ぜんまいを巻き戻すかのごとく一息に元の向きへと回した。

 そして楓太の意識は再びブラックアウトした。

 暗闇の底で声が響いた。

『私ハ 11次元宇宙ヲ 監視スル アストラル体デス(デス デス デス デス……)。特異点ガ 発生シマシタ(マシタ マシタ マシタ……)。警告(アラート)。可塑性ヲ 備エルノハ 残リ 2度 デス(デス デス……)。可塑性ヲ 備エルノハ 残リ 2度 デス(デス デス……)。警告(アラート)……』

 一陣の風が頬を撫でた。田圃のどこかでドジョウが跳ね、青々とした稲の間に光が揺れた。白鷺は毛づくろいを終え、今にも飛び立とうとしていた。

「それでは、どちらへ飛ぶのか言ってみろ」

 地主さまが問うた。

 やはりそうだ。楓太は確信した。お地蔵さんを回せば時間を巻き戻すことができる、己の愚かな選択をやり直すことができるのだ。もはやしくじることはない。楓太は迷うことなくはっきりと答えた。

「東です」

「東? 本当にそれでよいのか?」

 地主さまの目に微かな疑念が差した。打ち合わせと違ったからだ。

「はい。あの白鷺は東に飛びます。風の向きで分かるのです」

 適当なでっちあげだったが、不自然な振る舞いを恐れたのだろう、地主さまはそれ以上追及しようとはしなかった。

「……よいだろう。東、ということはあちらだな」

 地主さまが手を上げ、傾きかけた太陽と反対の空を指した。楓太は頷き、これから起こることを思い描きながら白鷺を見つめた。

 かくして、三たび白鷺は宙へと舞い上がった。楓太は今度こそあの鷹がどこからやってくるのか確かめてやろうと視線を彷徨わせた。何もかもを台無しにした真犯人、あの鳥畜生。だがもうしくじりはしないぞ、お前の手は分かってるんだ。さあ来い。愛しい白鷺を追い払ってみろ。

 しかし、鷹は現れなかった。白鷺は何に憚られることなく、悠然と西の空へと飛び去っていった。

 そう、西へ。あれほど願っていた西の空へとだ。またしても楓太は負けてしまった。

 楓太は言葉を失った。何が起こったのか理解できなかった。

 白鷲の飛んだ方向が変われど、その後はやはり同じだった。地主さまは約束を違え、小作人たちに命じ、茶壺を奪っていった。楓太は一応の抵抗を試みたものの、その胸中では混乱が渦を巻いていた。何故鷹は現れなかったのか。もしや自分でも気付かぬうちに鷹の登場を阻むようなことをしてしまったのだろうか。しかしいくら考えても思い当たる節はなく、どうあっても茶壺を失ってしまう定めなのではと疑心が鎌首をもたげてくると、心はまた重く沈むばかりだった。

「何でまたこんなことを……」

 六朗の問いにも答えず、楓太は歩き出した。誰とも顔を合わせたくなかった。一人きりになりたかった。

 どれほど歩いただろう。気づけば村外れのお堂までやってきていた。楓太はお堂の裏手へ回ると、手ごろな倒木を見つけて腰を下ろした。ここなら滅多に人も来まい。気が済むまで思案を続けられるはずだ。

 楓太にはいくつか気にかかることがあった。まずこの繰り返しについてだが、先ほど定めと嘆いたものの、結果が決まっているという考えにはどうにも疑問が残った。大筋は同じ流れを辿ってしまっているが、それは自分が賭けに負けたからであり、六朗とのやり取りなど細かな部分では変化があったからだ。となると鷹がやはり鍵であり、現れる/現れないの条件さえ分かれば上手くいくのではないか。それにこの繰り返しが神仏の助けであるなら、何をやっても救われないというのでは筋が通らない。それでは繰り返す意味が無いではないか。

 そして恐らく、この繰り返しが出来るのはあと二回までだ。闇の中で響く声は(内容は全く理解できなかったが)、一回目に聞いたときは残り3度と言っていたのに、二回目は残り2度と言った。やり直す度に減っているということは繰り返しの残り回数と考えて間違いないだろう。それを越すとどうなるのか。消滅(ロスト)、という言葉の意味は分からないが、きっと酷い目に遭うに違いない。仏の顔も三度までと言うし、それにあの時俺は、やり直せるなら地獄に落ちても構わないと思った。もしかしたらそうなるのかもしれない。

 ともあれ、あと二回。そのうちに何としても手立てを見つけなければ。

 楓太は顔を拭い、空を見上げた。夕焼けの空にはカラスが群れをなして山へ帰ろうとしていた。ぼんやりと目で追うと、その下、林の中に二つの人影が見えた。一人は山に住む狩人、もう一人は、なんと地主さまだった。

 何故あんな人目を避けるように? 地主さまが狩人に一体何の用が――。そこまで考えて、楓太は跳ね上がった。そうだ、狩人だ。あいつは確か狩りに使うための鷹を飼っていたはずだ。ということは……。

 考える間もなく体が動いていた。楓太は矢のように林の中へ駆け入ると、一直線に二人に詰め寄った。

「はなから俺を騙すつもりだったんだな、地主さま」

 突然現れた楓太に対し、地主さまは明らかに動揺していた。

「な、なんのことだ?」

「とぼけるな! その狩人と共謀して俺を嵌めたんだろう。白鷺が西へ行くようなら東へ、東へ行くなら西へ、俺の答えと逆になるように合図して鷹を飛ばせたんだろう。あんたは田圃なんか譲る気はなかったんだ。もともと茶壺を奪うための筋書で、芝居を見せられていたのは俺の方だったんだ。この卑怯者め!」

 しかし始めこそ楓太の剣幕に押された地主さまだったが、すぐに体勢を整えると余裕たっぷりに言い返した。

「なるほど。負けたから言いがかりをつけたいのだな」

「何が言いがかりだ。事実だろう!」

「では聞くが、その鷹とやらはいつ出てきた?」

 楓太は言葉に詰まった。思い返してみれば鷹が現れたのは前回とその前だ。

「もしこの狩人の鷹が賭けの邪魔をしたというのなら、お前の言いたいことも分かるが、鷹など一羽も飛んでおらんかったではないか。それに儂は狩人に用があってここに来たのだ。な?」

「そうそう、上等な鹿をご馳走したくてね。わざわざお越し願ったんだよ」

 狩人はにやにやと笑った。楓太はぐうの音も出なかった。確かにその通りだ。地主さまが狩人に合図し(あのわざとらしく空を指す仕草がそうだったのだろう)鷹を飛ばしたと言ってみたところで、実際に今回は飛んでいないのだ。これでは何の証拠にもならない。

 しかも悪いことに、そうなると打つ手がなかった。地主さまはこちらの答えを聞いてから決めるのだから、後出しの前ではどうやっても負けてしまう。負けない可能性があるとすれば賭け自体を降りることだが、それでもまた今後折に触れ似たようなことが起こるだろう。地主さまは茶壺を手に入れたがっているのだ。それにきっと、この機会を逃せばもう田圃を手に入れることはできないだろう。

 八方塞がりだった。考えても考えても策は浮かばず、考えれば考えるほど打つ手は無いように思えた。押し黙る楓太を前に、地主さまは満足げな様子で言った。

「お前も負けて悔しかったのだろう。不問にしてやるから早く帰るがいい。それにしても、西と言っておけばよかったものを……」

 どう答えても無駄なくせに。楓太は唇を噛んだ。あと二回繰り返せても意味は無いんだ。例え二回とも違った答えを言おうが――。

 待てよ。

 楓太の頭に稲妻が走った。

 二回? そうか、まだ二回残ってるんだ。あと二回、お地蔵さんを回せるんだ。

 楓太は身を翻すと一目散にその場から走り去った。

 一陣の風が頬を撫でた。田圃のどこかでドジョウが跳ね、水面に映る太陽が歪んだ。白鷺は毛づくろいを終え、今にも飛び立とうとしていた。

「それでは、どちらへ飛ぶのか言ってみろ」

 地主さまが問うた。楓太は間を置かず、はっきりと答えた。

「西です」

「西、ということはあちらだな」

 地主さまが手を上げ太陽の傾きかけた空を指した。楓太は頷き、白鷺に祈るような視線を送った。これが最後の賭けだ。考えうることは全てやった。これで駄目ならもう諦めるしかない。その覚悟の眼差しでもあった。

 かくして、白鷺は宙へと舞い上がった。大きく翼を羽ばたかせながら、白鷺は何も遮るもののない青空を悠々と飛んだ。よどみない一筋の白い線が引かれていくように、西の空へと真っ直ぐに、そう西の空へとだ、そしてそのまま見えなくなった。

 最後まで鷹が現れることはなかった。楓太はとうとう賭けに勝ったのだ。

 今度は地主さまが驚く番だった。おかしい、何故だ、何故鷹は出てこんのだ。これまで楓太が幾度も繰り返したような問いかけを心中で反響させながら、餌を求める鯉のように口を動かした。

「地主さま、俺の勝ちです」

 目を丸くしている地主さまを覗き込み、楓太は言った。

「俺の宣言通り、白鷺は西へ飛びました。何の問題もないはずです。田圃を譲って頂けますね」

「……そ、う、……だな」

 それだけ絞り出すのが精いっぱいだった。どこまでも青く広がる空に、楓太の喜ぶ声がこだました。

 その夜、楓太は六朗と祝杯を挙げた。長年の夢が叶ったあとの酒は格別で、喜びに浸る友の姿に六朗も目を細めた。

「それにしても、どうしてこんなことになったんだ? そもそも何が原因で言い争ってたんだ?」

 六朗の問いに、楓太は全てを話した。

 地主さまから芝居を持ち掛けられたこと、賭けが茶壺を狙う罠であったこと、地主さまと狩人が共謀してたこと、そしてお地蔵さんの不思議な繰り返し……。

 そう、楓太が最後に思いついた手段は、お地蔵さんを二回まわすことだった。ただし繰り返しを二度やるわけではない。一度に二回まわすのだ。お地蔵さんを一回、90度回すにつき遡る時間は5時間ほどだ。ということは180度、つまり二回まわすことが出来ればおよそ10時間前に――あの白鷺が飛び立つ瞬間よりはるか前に――戻れるんじゃないかと、そう考えたのだった。

 それこそ一か八かの賭けだったが、目論見は見事に当たった。ブラックアウトの直前、途切れそうな意識を奮い立たせてお地蔵さんを回した楓太は、朝出かける前の時間にまで戻ることができた。そしてそのまま狩人の山小屋へ行き、こっそりと鷹に毒入りの餌を食わせた後、その足で農作業へ向かったのだった。そのせいで田植えを完全に終えることは出来なかったが、お蔭で賭けに勝つことができた。

 酔いのせいかあけすけに話し過ぎてしまったかもしれない。楓太は少し後悔した。

「信じられないだろ?」

 自嘲気味に問う楓太に、六朗は笑いもせずに答えた。

「いや、荒唐無稽だが、ちゃんと筋が通ってる。何よりお前がそんな嘘をつくとは思えない。信じるさ、お前のことは」

 思わずほころんだ楓太の顔は、もはや自らをあざけるものではなかった。そして二人は夜が更けるまで飲み続けた。何度も繰り返しを経験したことで疲れていたのだろう、楓太は横になった途端、鼾を掻き始めた。六朗も横になっていたが、楓太が眠ったことを確かめると、やおら起き上がり忍び足で部屋を出た。

 そして月明かりに照らされながら、地主さまの屋敷へと走っていった。

 

 楓太は薄目を開け、その一部始終を見ていた。おかしいとは思っていたのだ。始めに六朗が「田圃を取り上げられる」なんて言い出さなければ、茶壺を賭ける流れにはならなかった。六朗は頭が回る人間じゃない。それは恐らく誰かに与えられた台詞だ。そもそも何故地主さまは鷹を用意していたのか。俺が白鷺を賭けの対象に選ぶと分かっていなければ出来ないはずだ。そして、白鷺がいつも同じ方向に飛ぶことを話した人間は六朗だけだ。なにせ俺が一緒に酒を飲むなんてあいつしかいないからな。

 楓太は横になったまま目を閉じ、深く息を吐いた。――寂しくなるな。だが仕方ない。きっと地主さまはまた茶壺を狙ってくるだろう。恥も掻かされたことだ。もしかすると田圃を譲ったことも反故にして、嫌がらせをしてくる可能性は十分にある。やはり、良かったのだ。繰り返しの回数を使い切ってしまったことを言わなくて――。

 楓太は最後に暗闇で聞いたあの声を思い出した。

『警告(アラート)。可塑性ヲ 備エルノハ 残リ 0 デス(デス デス……)。可塑性ヲ 備エルノハ 残リ 0 デス(デス デス……)。警告(アラート)。事象ガ フィクス サレマシタ(マシタ マシタ マシタ マシタ……)特異点ヲ 発生サセヨウトシタ場合 因果性ヲ 消滅(ロスト)スル可能性ガ アリマス(マス マス マス マス……)』

 やがて石臼を引くような音が家の外で響いたが、深い眠りの中にいる楓太の耳に届くことはなかった。

 一陣の風が頬を撫でた。田圃のどこかでドジョウが跳ね、青々とした稲の間に光が揺れた。白鷺は毛づくろいを終え、今にも飛び立とうとしていた。

 地主さまと六朗は驚いた。眼前の光景は紛うことなくあの賭けの最中で、どうやら時間を遡ったらしい。半信半疑だったが、楓太の話は本当だっ

 一陣の風が頬を撫でた。田圃のどこかでドジョウが跳ね、青々とした稲の間に光が揺れた。白鷺は毛づくろいを終え、今にも飛び立とうとしていた。

 地主さまと六朗は再び驚いた。つい今しがた同じ光景

 一陣の風が頬を撫でた。田圃のどこかでドジョウが跳ね、青々とした稲の間に光が揺れた。白鷺は毛づくろいを終え、今にも飛び立とうとしていた。

 地主さまと六朗はこんら

 一陣の風が頬を撫でた。田圃のどこかでドジョウが跳ね、青々とした稲の間に光が揺れた。白鷺は毛づくろいを終え、今にも飛び立とうとしていた。

 地主さまと六朗

 針が飛び続けるレコードのように、地主さまと六朗は、時間の流れから切り離された瞬間をこれからもずっと繰り返すのだ。死ぬことも逃れることもできず、永遠に変化も訪れない意識の牢獄で。

 その後、楓太は一生懸命働きそれなりに財を為した。そしてもうお地蔵さんが無闇に動かされることがないようにと立派な祠を立てて祀り、決して触れてはならぬと代々言い伝えた。お地蔵さんは村人たちに丁重に扱われ、今でも地域の人々を見守り続けているそうだ。

 これが、かの有名な不回(まわらず)地蔵尊の由来である。


文 / 仲井陽

表紙 / 仲井希代子(ケシュ ハモニウム × ケシュ#203)

*『往復書簡 選外』とは… 仲井陽と岡本諭、二人の作者が2014年から1年間に渡ってweb上で交互に短編小説をアップしあう企画『往復書簡』から、様々な理由で書籍化されない「選外作品」ばかりを集めたスピンオフ企画です。

書籍化された『往復書簡 傑作選』は、学芸大学にある本屋「SUNNY BOY BOOKS」さんと中野ブロードウェイ3Fにあるタコシェさんでも取り扱って頂いております。是非お立ち寄りください!

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