往復書簡_選外_表紙

『往復書簡 選外』(10) 羆【小説】

 崖の上に二人の猟師がいた。若造と老人。若造のほうは年の頃二十五を過ぎたあたり。老人はその倍以上を生きていた。眼下には集落があった。若造と家族の住む村だった。明治に開拓されたその僻村には、入植当初こそ三百を越える人間が暮らしていたが、冬を三つ越えた頃にはその数は三十にまで減った。札内岳から吹き下ろす風は激しく、雪の刃は鋭かった。そして冬の厳しさ以外にもう一つ、人々がこの土地を去ったわけがあった。

 風下にいるせいで、二人の周囲にはだるい血の臭いが立ちこめていた。眼下の村落は一帯が朱に染まっていた。若造は見開いた眼を血走らせている。その小さな二つの目玉は狂気に充たされている。構えた銃が怒りに震え、若造の口角から泡が飛んだ。

「甚六さんよお、見えっかい? あいつが咥えてんの、ありゃあオレのかかあの脚さ。あいつが踏んづけてんの、ありゃあオレのせがれの腹さ。畜生、殺してやる…殺してやる…! 今すぐに…!!」

 若造の気が放たれる前に老人は銃身を掴んだ。老人とは思えぬ太い腕。白髪ひとつない海苔のような頭髪は四十の壮年のようだ。岩を思わせる四角い顔は眼下を見据えたまま、低音(こごえ)で言った。

「やめとけ久蔵。こんだけ離れてりゃ、おめえの腕じゃまず当たらね。当たったとして弾は体に入っていかね。無駄だ。おめえだってそのくれえ分かんべ。よお?」

 久蔵と呼ばれた若造は唇を噛みしめ、無精髭に覆われた顔を老人に向けた。

「だども、だども、あの糞野郎をぶっ殺してやらねば気が済まねえ…! オレの…オレのかかあと子が…!」

「おめえさんの気持ちはよく分かっさ。だども落ち着け。殺すために落ち着け。向こうは一匹、こっちは二人。殺り方はいくらでもあらあ」

 そう諭す老人——甚六の口調は穏やかだったが、魂の奥から湧き上がる殺気までは隠せなかった。しかし隣の若造は妻と子を貪られた怒りに我を忘れ、甚六の唯ならぬ殺気に気がついていない。再び眼下をに目を向け、引き金に人差し指を掛けたまま、瘧(おこり)のように激しく両肩を痙攣させている。

「あいつは…あいつは…オレが殺る。甚六さん、あいつはオレの獲物だ」

 甚六は久蔵の肩を抱き、大きく頷いた。

「ああ、ああ、あいつはおめえの獲物さ。あの羆はな」

 その言葉を聞いた瞬間、久蔵は弾かれたように引き金を引いた。深秋の峡谷に木霊する慟哭のような銃声。

「馬鹿野郎!!」

 その銃声に反応して、村落の中央で蹲(うずくま)っていた黒い影がぐるりと崖の上を向いた。体中を人の血で充たした巨大な羆。それは二人のほうを見やったまま、久蔵の妻の頭に黄色い牙を立てていた。木を圧し折るような音がして女の顔が熟れた酸漿(ほおずき)のように液を飛び散らせて潰れた。

「糞野郎! 今すぐ息の根を止めてやる!」

「よせ!」

 甚六の制止を振り切って、狂った久蔵は崖を駆け下りていった。野生の鹿ですら行くことを躊躇う急斜面である。しかし久蔵は怒りと若い体力に物を言わせ、半ば転げ落ちるように下っていった。久蔵は苦々しい思いで、小さく消えて行く弟子の背中を見つめた。老いてなお頑健とは言え、知名を過ぎた甚六の足腰では下るに無理がある。ましてや甚六はその長い狩猟生活の中で膝を痛めていた。覚悟を決めれば後を追えないこともない。が、自殺行為だ。甚六は素早く踵を返すと、村へと至る小路を急いだ。

 久蔵は震えていた。今のそれは家族を奪われた怒りからくるものではない。心底からくる恐怖に震えていた。辺り一面に食いちぎられた村民の体が転がっていた。新しい死体の断面は生々しい緋色だった。血と臓物から漂う熱で、空気がぬるまっていた。村の人間の悉くがあの黒い羆の餌食となっていた。家々の扉は破壊され、戸口から半身に千切れた遺体が引きずり出されていた。その奥を覗くと布団の綿ごと二人の子供が食い殺されていた。久蔵はごくりと喉を鳴らした。

——ここん家の身重の奥さんが見あたらね。上手く逃げていてくれればいいが…

 あんなに大きな羆だというのに、その姿はどこにもない。だが、刺すような視線を久蔵は感じていた。

——見ていやがるな。畜生、一体どこにいやがんだ。

 銃床を肩に押し当てながら、久蔵は一歩、また一歩と進んだ。無意識のうちに久蔵は自分の家へと足を向けていた。気配が強くなっていった。得体の知れない感覚がうなじの毛を逆立てていた。家の周りには執拗にうろついた羆の足跡が残っていた。久蔵は意を決して自宅の軒を潜った。羆は家の中で暴れ回ったようだった。家具も建具も破壊され、天井の梁までもがへし折られていた。土間に左腕が転がっていた。細く白い腕。見慣れた模様の衣を着ていた。妻の着物だ。その周囲には血と一緒に長い毛髪がこびりついていた。名前を呼ばれた気がして久蔵は振り返った。息子の頭が逆さになって板の間にあった。久蔵は突き上げるような胃の痙攣を感じて後ずさった。

——もうこれ以上、一刹那とてここには居られない。無理だ、無理だ。

 戸外に出た久蔵の耳に低い唸り声が聞こえた。銃を構えたままその方向を振り向く。二十間先に黒い影があった。仰向けになったままの女の腹に喰らいついている。女の腹は大きく膨れていた。あの身重の女だ。羆は女の腹に鼻を突っ込み、胎内(なか)の胎児を喰らっていた。久蔵は込み上げる吐き気を抑えきれない。だが銃口を逸らすことなどできなかった。久蔵は立ったまま嘔吐した。内臓が裏返るほど激しく吐瀉した。両腕と銃身に胃液が掛かった。膝が震えた。目の前の悪魔はしっとりと濡れたような瞳で久蔵を射貫いていた。その歯列には毛髪が絡みつき、さながら長い顎髭のように垂れていた。羆はゆっくりと久蔵に近づいてきた。血溜まりを踏みつける音が響いた。嘔吐を続けながらも、久蔵の心は先程までと異なっていた。落ち着いていた。獲物を前にした猟師の本能の成せる業なのか、それとも心の何処かが壊れてしまったのか。それを知る術は何処にも無い。が、久蔵はしかと背筋を伸ばし、両足を踏ん張り銃身を水平に保っている。一呼吸、二呼吸、狙いが定まる瞬間まで、引き付ける。妻と子の敵(かたき)をこの手で斃す。鉛玉を喰らわせて命乞いをさせてやる。眉間を狙い、久蔵は躊躇いなく鋭く引き金を引いた。

 …だが何も起こらなかった。

 不発。

 有り得ない、不発。

 久蔵の体から一斉に血の気が引いた。猟師として銃の手入れを怠ったことは一日たりとて無い。師の甚六の教え通りにやってきた。それで命拾いしたことも一度や二度ではない。だが、ここにきて、不発。弾を込め直す時間などなかった。久蔵は心の中で譫言のように繰り返した。待て…待ってくれ……!

 羆の歩みは止まらない。近づくとその巨大さが如実に分かる。身の丈はおよそ九尺。巨木のような前脚に、逞しい筋肉が付いている。手の平すら一尺。そこに鉈のような五本の鋭い爪が広がっている。羆は地面を蹴り、久蔵に向かって一目散に駆けてきた。久蔵は銃を放り出し、背を向けて全速で駆けた。その首筋に野太い顎が噛みついた。久蔵の耳に鎖骨が砕ける音が聞こえた。五本の爪が腹を裂いた。その裂け目から腸がだらんと垂れ下がった。久蔵は細長い臓物を地べたに引きずらせて蹌踉めいた。

——オレの腑(はらわた)が…

 久蔵は漏れ出た内臓を掻き集めようと腕を伸ばした。その腕をもう片方の羆の腕が叩き付けた。久蔵の肩から先は骨だけを残して削げ落ちた。羆は息も絶え絶えになった久蔵を地面に放り、足の先からゆっくりと喰い始めた。生きたまま喰われる恐怖に久蔵は叫び上げようとしたが、喉が破壊されて出来なかった。代わりにぶくぶくと血の泡が生まれただけだった。羆は足首を、脛を、太ももを骨ごと噛み砕き、久蔵の股に喰らい付いた。余りの痛みに久蔵ははち切れる程に目を剥き、眼球が飛び出した。生き物の性(さが)なのか、死を前にして久蔵の性器は激しく勃起していた。羆はその怒張した一物に牙を立て、もぎ取った。久蔵は仰向けのまま血を吐いた。鮮血が青空を染めた。その真っ赤な色が男の見た最後の光景だった。

 羆は絶命した久蔵を咥えたまま立ち上がった。その高さはゆうに十尺を越えていた。頭は屋根より高かった。久蔵の体はぶらりと吊られたまま、千切られた胴の先からぼとぼとと血と肉塊を滴らせていた。

 やっと村の外れに辿り着いた甚六は、藪の隙間からその様を見て目を閉じた。 風下から回り込んできたので、羆との距離は随分遠い。それでも久蔵の骨を囓るごりっごりっという音が甚六の耳に届いていた。構えれば当たる。しかし老人は物音を立てぬよう藪を抜け出し、村から半里ほど離れた自分のねぐらへと戻った。

 侘しい村落からさらに山を分け入った先にある粗末な小屋。それが甚六の住処だった。軒先や床の至るところに転がる十数頭もの羆の頭骨。甚六が猟銃を構えるようになってから四十年が経っていた。身寄りは無い。村の人間とは人並みの付き合いはしたが、弟子の久蔵ですら顔を合わせるのは猟に付き添う月に二度か三度。その人生の大半を孤独に生きてきた。

 久蔵は担いでいた銃を床に下ろし、壁にかけてあったライフルを手に取った。ずしりと重く、鈍く光る銃身。それは最早、銃というより大砲というべき代物で、戦争の後、ロシア軍から払い下げられた禁制品を人づてに手に入れたものだった。もちろん鑑札はついていない。麻袋から取りだした弾丸は50口径。甚六の中指より太く、長い。

 あれほどの凄惨な光景を目の当たりにした後でも、老人の顔には恐怖の色は浮かんでいない。それどころか老人は小さく笑っていた。甚六が麻袋を背負うと、中の弾丸が硬い音を立ててぶつかった。毛皮のちゃんちゃんこと帽子を身につけ、水筒を肩に掛けた。帯に小振りの小刀を差し、干肉の塊を懐に入れた。支度を終えると老人は村とは逆の方向にある沢へと向かっていった。

 村落は険しい山間の谷にあった。出入りにはこの沢を越さねばならない。上流には滝があり、流れは急で深い。沢には粗末な橋が一つ架かっていた。羆は賢い生き物である。間もなく冬に入るこの時期に冷水に入ることを嫌う。即ち橋を渡る可能性が高い。

 甚六は沢の畔に生えた葉の落ちきっていないミズナラの巨木に近づいていった。上方の太い枝から幹に沿って縄梯子が垂れている。甚六は痛む膝に鞭を入れてそれを登っていった。登りきった場所には枝から枝へと板が渡され釘打ちがしてある。茶色い葉の隙間からは橋がよく見えた。ここは十数年前から甚六が準備していた場所。橋を渡る獣を狙い撃ちする為の隠れ家だった。

 日が傾き夜が訪れた。まだ羆は現れない。だが甚六は夜目が利く。見逃すことはない。羆は夜歩きをする生き物である。甚六は夜明けまで眠らずに橋の上を凝視していた。しかし、獲物は現れなかった。

——焦ることはねえ。奴はまだ村にいる。二日だって三日だって待ち続けてやる。

 翌日も甚六は木の上で羆を待った。異様な執念だった。木枯らしが吹いて枝を揺らした。凍えるその風を受けても甚六は眉一つ動かさない。まるで石像になったかのように、ライフルを構えたまま何刻でもじっとしているのだ。いま甚六の全ての感覚は、あの羆を斃すことだけに向けられていた。再び日が傾いてきた頃、沢に動くものが見えた。

 老人の目に喜色と失望が同時に浮かんだ。羆が現れた。しかしそれは橋の上ではない。その先の川辺だった。しかも丁度橋が邪魔をして急所が見えない。黒い影が渓流に近づいていく。

——くそ、読み誤ったか。

 だが、羆は鼻先を沢に突っ込んで水を飲み始めた。喉を潤すと、低く唸った。歯列から垂れ下がった毛髪を伝って滴が垂れていた。羆はその場に大きな糞をして再び村の方向へと戻っていった。獲物の姿が見えなくなっても甚六はしばらく気を研ぎ澄ましていたが、やがてライフルを降ろすと縄梯子を下り、羆の現れた場所へと近づいていった。そこは蒸せ返るような獣の臭いと血の匂いが入り交じっていた。甚六は羆が残した足跡と辺りに散らばる体毛を確認した。

——この大きさ。羆とは思えねえ漆黒の毛足。間違いねえ。

 甚六は一人得心した。そして羆の残した巨大な赤茶色の排泄物を見やった。まだ暖かく湯気を立てる糞には消化されずに残った着物の端切れが混じっている。見知った柄だった。久蔵の衣、そして久蔵の嫁と子供の着ていた衣だった。それを認めた甚六は悲痛な表情を抑えられなかった。

 一度人の肉を喰った羆は、その味に飽きることはない。人を喰らった羆は、最早獣ではない。獣の姿をした別の生き物になるのだ。

——村の奴らを喰い切るまで、居座るつもりだな。だがあの巨体だ。あと一両日で喰い終わるだろう。その時までじっくり待つさ。じっくりとな。

 甚六は再び樹上へと戻り、さらに一回り憎しみの嵩んだ瞳で橋の上を睨み付けていた。

 二度目の夜も甚六は眠らなかった。人の限界を超えた集中力で意識と殺意を保っていた。しかし甚六は夢を見た。繰り返すが眠っていた訳ではない。表の意識とはまだ別の場所で、老人は過去の出来事を夢に見ていたのだ。老人は毎夜その悪夢を見ていた。夢に深く踏み入れれば踏み入れるほど、殺意は湧き上がり膨れあがっていった。

 遠い厳寒の冬の日。水汲みから戻ってきた少年の眼に飛び込んできたのは、黒い影に喰い漁られる父母と姉の体だった。それから二十年の後、山から帰ってきた若い猟師を出迎えたのは、八つ裂きにされ、賤しい歯形を刻みつけられた家内と息子の骸だった。

——やっと出会えたんだ。嬉しいさあ。愛してんのさ、おめえさんをな。

 皺の刻まれた顔に妖しい微笑みが浮かんでいた。

 夜が明け、太陽が背後の空を横切り、また闇が来た。甚六の体はほとんど微動だにしていない。時折水筒に手を伸ばすか、懐の干肉を取り出して噛む以外には全く動かない。恐るべき胆力だった。

 三日目の夜。とうとう橋の上に黒い影が現れた。その姿を認めたとき、甚六の瞼が僅かに動いた。今夜は新月。夜は獣の味方だった。頼れるのは星明かりのみ。しかし甚六の瞳には、肩をゆっくりと上下させてのし歩く羆の姿がしっかりと映っていた。銃身とそれを支える両腕は、溶接された砲台のようにぴたりと橋の上へ向けられている。甚六は呼吸を止めた。意識を一点に研ぎ澄ませていく。それまで甚六の体から放たれていた殺気が急速に萎み、微かな星明かりを映すライフルへと吸い込まれていく。鋭い眼差し。だが無心のまま、老人の指が引き金を引いた。激しい発砲音が凍てついた空気を突き破った。落雷が大木を割るような強烈な一撃だった。樹上に白い煙がたなびき、硝煙の匂いがあたりを漂った。羆の巨体がゆらめき、川へと落下した。

——手応えがおかしい。

 熟練の猟師の勘は当たっていた。獲物は死んではいなかった。甚六の発砲とまったく同じ時、羆は下の川辺に残る微かな人の匂いを感じ、僅かに頭を下げたのだ。ライフルの弾は羆の後頭部を削ぐように通過。その衝撃で羆は脳震盪を起こして気絶したのだった。

 甚六は手早く弾を込めなおし、第二弾を撃つべく狙いを定めた。だが闇夜の川中に落ちてしまっては、いくら夜目の利く甚六といえども判別がつかない。甚六は思わず舌打ちをした。判断のしどころだった。一撃で斃せなければ逃す危険性がある。盲撃ちで矢鱈に引き金を引きたくはない。僅かでも明かりが差してされくれれば良いのだ。だがこのままでは、闇夜に紛れて一つの手傷も追わすことなく逃げられることも有り得る。それは老人にとって耐えがたい屈辱だった。瞬きの間に何度も思考が交錯する。撃つべきか否か。その刹那、家族の骸が惨たらしく転がる光景が突き上げるように甦った。父、母、姉、妻、息子。内蔵を焼くような憎悪の炎が広がった。甚六はそれに逆らえなかった。ライフルが二度目の気を吐いた。

 川面に岩が落ちたような飛沫が上がった。水音に混じって獣の猛りが木霊した。

——当たった。が、致命傷じゃねえ。

 猟師はすかさず三つ目の弾を込める。

——これで位置の見当はついた。何遍でもお見舞してやるさあ。

 闇夜の川水を跳ね飛ばす連続した水音が反響する。それは甚六の方へどんどん近づいてくる。手負いの獣が発する荒い息遣いが次第にはっきりと聞こえてくる。羆は逃げるどころか、甚六の居るミズナラの木へ真っ直ぐに駆けてきているのだ。老人は鼻を鳴らした。その顔に狩猟者の喜悦の色が広がる。

——望むところだ。登ってくる頭の上から銃弾をぶち込んでやらあ。

 甚六は麻袋の中から数発の銃弾をむんずと掴み取ると煙草のように口に咥えた。そして敏捷に身を翻し木の下へ向かって銃口を構え直した。登ろうと木に手をかけた瞬間、ありったけの弾を雨のように撃ち込んでやるつもりだった。その巨体が肉塊に分解されるまで、悉く。お前が屠ってきた人間達のように。

 だが、突然地響きがおこり、甚六は体の均衡を失って尻餅をついた。ミズナラの木が大きく傾いていた。幹がめりめりと割ける悲痛な音。傾きは次第に大きくなっていく。羆は駆けてきたその勢いのまま木に体当たりし、一撃でそれを折ったのだった。大の大人が手を回せないような巨木を、いとも簡単にである。

 甚六は色を失った。ミズナラの木は眼下の川を目がけて倒れていく。甚六はライフルを抱え、受け身を取ろうと体を丸めた。次々と梢の折れる音がして、木の葉が飛沫のように舞った。鞭のようにしなった木末が甚六の頬に一筋の傷を作った。景色が回転して星空が目の前に見えた。だが幸運にも、甚六は渓流沿いの岩場では無く、少し離れた砂利の集まる川原に落ちた。衝撃は受けたものの無事だ。打ち身すらしていない。咥えていた銃弾は失ったがライフルは手放さなかった。甚六は素早く身を起こし、銃床を肩に当てた。

 渓流の向こう側、ミズナラの根元には羆がいた。臼ほどもある頭が揺れながら甚六をじっと見据えていた。星明かりの助けを借りて、その肩のあたりが血で濡れているのが見て取れた。決して浅くない傷だった。それでもなお、あれほどの膂力を持ち合わせている。

——そうか。あいつは羆じゃねえ。羆の形をした別の生き物だったけかな。

 羆を狂わすのは人の血肉の味か、それとも喰われた人々の怨念か。黒い影はゆっくりと足を踏み出し、老人のほうへと歩んでくる。野獣の体臭が夜気の中に濃く漂ってきた。改めて目にするその巨体は、甚六に二度に渡って起きた悪夢を甦らせた。甚六はその体を舐めるように見回す。

「随分と立派に育ったじゃねえか。親父は元気か。ん? 爺様はどうだ。あ? おめえらは本当に何から何までそっくりだなあ。顔つき体つきから臭いから、何から何までな」

 羆は甚六の声を一顧だにせず、川を渡って間合いを詰めてくる。その距離は十間ほどに縮まっている。

「その図体じゃ冬ごもりの穴も見つかるめえ。穴持たずで苛ついて、人を喰い殺すのは血筋なんか? よお?」

 甚六は感情の高ぶりを抑えきれなかった。伝わるはずがないと理解しながらも、言葉が口をついて発せられた。

「オレの一族はおめえの一族に、悉く喰われてきた。親兄弟から連れ合いから息子まで、悉くだ。オレはおめえに恨みはねえが、おめえの一族に恨みがある。おめえのような悪魔を生かしちゃおかねえ」

 羆の体がすっと沈みこんだ。駆け出してくる。そう思った甚六は片目を閉じ、獲物の眉間に照準を定めた。が、次の瞬間、羆の姿が消えていた。

 唯ならぬ気配に甚六は空を仰いだ。先ほどまで輝いていた星空が消えていた。代わりに獣の体が視界の一切を塞いでいた。跳んだのだ。

 甚六は轟砲を上空に向かって放ちながら身を捻った。巨体が甚六目がけて落ち掛かってくる。下敷きになったら内蔵どころか骨まで潰されるのは間違いない。這いつくばった甚六は地面を蹴って逃れようとした。しかし間に合わない。

 地面が揺れ、苦悶の呻きが山間に響いた。辛うじて身をかわした甚六の下半身を羆の前足が押し潰した。右の膝が砕け、その先があらぬ方向へと曲がった。

——足を、足をやられた。

 丸太のような羆の足が老人を押さえつけている。甚六の意識は醒めていった。恐怖からでは無い。このような野獣を前に足を失い、弾倉は空になった、替えの弾も手元にない。老練の猟師は絶望的な状況を理解していた。そこから生まれる諦観がかえって老人を冷静にさせていった。甚六は頭の後ろで荒ぶる鼻息を聞いた。いついかなる瞬間にも、獣の牙が首筋に突き立てられるか分からなかった。こめかみに冷たい汗が伝っていった。甚六は腰回りをまさぐった。出掛けに差した小刀がまだそこにあった。仕留めた獲物を捌くための刀だが、刃渡りは六寸程しかない。この怪物のような羆に対しては玩具のような武器だ。だが喰い付こうとする鼻先を切りつけてやれば、怯むことがあるかも知れない。老人は刀の柄を握りしめ、上体を反(かえ)して振り向いた。右手で刀身を突きだし、左腕で体を支えたまま羆の顔を睨み付けた。が、何かがおかしい。闇に浮かび上がる羆の頭部は奇妙な輪郭を描いていた。射貫こうとした瞳が見当たらなかった。羆の頭は丸く穿たれていた。虚空に放った甚六の一発が見事に命中していたのだ。目も耳も残っていなかった。大きく開いた口と鼻だけで荒く呼吸をしている。無残な姿を晒していた。

 甚六は深く息を吐いた。獣がすでに致命傷を負っていることが、氷が溶けるようにゆっくりと老人にも分かってきた。安堵の思いが込み上げてくる。突き出していた刀を戻しかけたその時、大きく開いた口がゆっくりと甚六の方を向いた。しきりに鼻がひくついていた。悪い予感が甚六の背中を走る。その刹那、剥き出しされた羆の牙が甚六目がけて襲い掛かってきた。この世のものとは思えない、悪魔のような唸り声を発しながら。

——化け物め!

 羆はすでに生き物の境界線を通り越し、ただ食欲の権化となっていた。闇夜の中で甚六は、引き裂くように開いた羆の口の奥が真っ赤に燃え上がっているのを見た。地獄の奥にあるような禍々しい赤色だった。

 突き出したままの右腕に羆の牙が突き立てられる。痛みを感じる瞬間もなかった。甚六の肘から先は易々と喰い千切られ、小刀ごと丸呑みされた。溶けた鉄を流し込まれたような熱さが甚六の右腕を襲った。皺の刻まれた顔が歪む。腕の先から血柱が吹き出した。血を失い、宙に浮いたような感覚がやってくる。甚六の血を浴びて羆の鼻が嬉しそうに鳴った。体の底からの歓喜だった。再び血と肉を求め、間髪を入れず獣の牙が甚六に向かってきた。

 老人は残された手で咄嗟に川原の岩を掴んだ。

——おめえの息の根が止まるのを見るまで、オレは死なんぞ。オレはおめえを殺すために生きてきたんだ。おめえを殺すために…!

 甚六は自分の右肩に喰らい付いてきた羆の半頭に岩を打ち付けた。脳漿が辺りに飛び散った。しかし、羆は老人を屠る勢いを止めはしない。甚六は羆に喰われながら、羅刹のように何度も岩を振るった。羆の牙が甚六を囓り取っていく。口や体から血を吹き出す度に甚六は、自分の内から人の感情が消えていくのが分かった。もう家族の顔を思い出す力もない。ただ目の前の羆を殺すことだけに取り憑かれたい。自らが人生をかけて追い求めてきた獣。何も考えず、その獣を殺してやりたい。憎しみも悲しみも通り越し、ただ殺意だけが死を前にした老人を突き動かしていた。肉を屠る羆は頭を砕かれながら、食欲を満たす喜びだけを味わっていた。老人と羆は二匹の悪鬼のように重なり合い、血と感情に塗れて一つになっていき、やがてどちらも動かなくなっていった。

 

 冷たい夜空に一陣の風が吹き、その年初めての雪が舞い降りてきた。


文 / 岡本諭

表紙 / 仲井希代子(ケシュ ハモニウム × ケシュ#203)

*『往復書簡 選外』とは… 仲井陽と岡本諭、二人の作者が2014年から1年間に渡ってweb上で交互に短編小説をアップしあう企画『往復書簡』から、様々な理由で書籍化されない「選外作品」ばかりを集めたスピンオフ企画です。

書籍化された『往復書簡 傑作選』は、学芸大学にある本屋「SUNNY BOY BOOKS」さんと中野ブロードウェイ3Fにあるタコシェさんでも取り扱って頂いております。是非お立ち寄りください!

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