人生を悟ってはいけない
【悟り】
1 物事の真の意味を知ること。理解。また、感づくこと。察知。
2 仏語。迷妄を払い去って生死を超えた永遠の真理を会得すること。
(デジタル大辞泉より抜粋)
例えば、推理小説を読むとき、犯人や犯行トリックが分かっていたら、楽しみは半減するでしょう。
同じように、人生において何かを悟るということは、人としての到達点に着いてしまったということ。
つまりは、人としての伸びしろが無くなったということです。
人間は、悟りの境地に立つことを望みますが、それは人生の終着地点に在るべき地点であって、間違っても人生の半分も歩んでいない状態で届くはずもないのです。
私たちは、自己肯定感が高い人や、自信に満ち溢れている人に羨望の眼差しを向けます。
しかし、もし今のあなたが自己肯定感が低かったり、自信がなくても、悲観する必要はありません。
むしろ、非常に幸運だと言えるでしょう。
ということで、今回は「悟り」や「自信」「自己肯定感」という人が憧れるモノを目指すのは良いが到達してはいけない、ということを書いていこうと思います。
おそらく短めの文章になりますので、最後までお付き合いいただけると幸いです。
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「以前は私も、自分に自信がなく人の顔色ばかり窺うような人間でした。しかし、○○を行ったことで、自信に溢れ、あるがままの自分を受け容れられるようになったのです‼」
…自己啓発書などでも見かける、このフレーズ。
言葉のままに捉えれば、○○に入る、何かきっかけを与えるものに出会い、人生が良い方向に変容したのだと読み解くことが出来ると思います。
しかし、著者が自己肯定感の低い人間であったのなら、自分に言い聞かせる自己暗示であったり、自分と似たような自信に欠ける人間と自分は違うのだと同属嫌悪した結果の言葉なのかもしれません。
出版社を通さずに書籍を刊行出来たり、匿名者が書籍を発売できる社会で、はたして本当にすべての著者が自信を宿し、人生を謳歌しているのかについて、私は疑問に思うことがあります。
なぜなら、人間は「ないものねだり」をする生き物だからです。
そして、虚構に意味を持たせる生き物でもありますから、何かがきっかけで何者かになったのではなく、何かのきっかけによって、何者かであるように自らを偽ることも出来ると思うのです。
例えば、会社では業績不振で肩身の狭い思いをされている方が、会社から離れれば高圧的で横柄な態度を取ることがあるでしょう。
反対に、会社では権力を振りかざしている上司も、家に帰れば家族に逆らえない小心者の夫や父親になっていることもあるでしょう。
あなたから見て、自信に溢れて見える人にも、同じような側面があるのではないでしょうか?
現実とは乖離した自分を演じることが出来るのも、今の社会では当然の権利であり自由なのだと、私は考えています。
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今のあなたが、自信がなく、自己肯定感も低く、生活のどこかにジレンマを抱えているとしたら、それは成長できる伸びしろがあるということであり、今よりも人生が好転する可能性を残しているということだと思います。
なぜなら、まだ境地に達していないのだから。
自信がないのであれば、それはあなたが自信のある自分像を想い描けるからこそ感じるものであり、自己肯定感が低いのであれば、高めるために藻掻いている証拠だと思うのです。
自信がないことを悟ってしまったら、もうそこで成長は止まります。
「これが、ありのままの自分なのだ」と思ってしまえば、そこであなたは一つの生き甲斐を失うことになるでしょう。
人が自分の人生を諦める要素は二つです。
一つは、終わりが見えないとき。
もう一つは、終わってしまったときです。
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「もういいや…」
このようなネガティブな悟りを開いてしまうのは、ある意味、とても気持ちが楽になるでしょう。
がんばる理由がなくなるからです。
ですが、考えてもみてください。
楽しいことを楽しいと感じるのは、つらいことがあるからです。
がんばる苦痛があるから、がんばることは幸せなのです。
「がんばらなくていいんだよ」
他者には告げることが出来ますが、自分にかけるべき言葉ではないと私は思います。
悟らない人生こそ、生きている証です。
自信を持つことがゴールではなく、自信を持ちたいと思い続けることが真の悟りなのだと、確信をもって語れる日まで、一緒に藻掻いてみませんか?
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ということで、最後までお読みいただきありがとうございました。
今回の投稿は以上です。
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