「何もしない」は、大切な時のために取っておく。
言葉というのは面白いもので、現在の自分の状態を如実に表してくれるパラメータのようなものだと感じます。
noteを続けていると、ある時期には頻出していた言葉が別の言葉に変わり、また時を歩むと移り変わっていく…。
季節に四季があるように、言葉にも365日をいくつかの時季に分ける要素があるのかもしれません。
そんなことを感じながら、最近の私の記事に頻出する言葉の一つ「忙しい」について、今回は考えてみようと思います。
最後までお付き合いいただけると幸いです。
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数日前に、下記の投稿をしました。
忙しさを能動的なものと受動的なものに分別すると、忙しさの「質」という部分にフォーカスできるのではないか?という視点で書いたものです。
忙しさとは、要不要の判別が難しい言葉だと思います。
成長の糧と捉えるのか、心身を腐朽させるものだと捉えるのか…?
今の私は成長の糧として考えるようにしていますが、ほんの5年前あたりまでは、ストレスの温床でしかありませんでした。
質も量も今より無かったはずなのに…。
とは言え、今でも納得感のないタスクにはストレスを感じます。
「これは私がやるべきものなのか?」
タスクに注視してしまうと、自分に不要ならば断わってしまえと考えてしまいます。
このようなとき、私はゆっくり呼吸を整え、断った場合を考えるようにしています。
私がやらなくてもいいタスクであっても、私がやることが最適解だと思うなら、いかに成長につなげられるのかを意識して取り組む。
もちろん、気持ちを簡単に切り替えられないときもあります。
それでも、終えたときには感情を持ち越さないようにはしています。
今度は、自分の感情がストレスの呼び水になってしまうと思うからです。
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人が受容できるストレス量は個人差こそあるものの、限界もあります。
誰でも、ストレスによってメンタル不調に陥ります。
「可能性がある」のではなく「陥る」のだと、私は考えています。
ただ、処理の仕方が違うだけなのではないでしょうか?
静かに心の水面が静まるのを待つのも、荒れ狂う心のままに感情を噴出させることも、メンタルを整えるための手段には変わりありません。
以前の私は、噴出させるタイプの人間でした。
全身を掻きむしったり、髪の毛を引き抜いてみたり、モノや人に当たったり…。
知らずに溜めていたストレスが、気づいたときには制御できない状態でした。
あまり振り返りたくない時期でもありますが、このとき高い頻度で使っていた言葉は自己否定的な言葉が多かったです。
ですが、今になって冷静に考えれば、自己否定的な言葉を使ってはいましたが、そうすることで反動的に「自分は悪くない」と自己養護していたように感じます。
自己養護しているということは、他人に責任を転嫁していたということでもありますが…。
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当時から学ぶことは非常に多いです。
私はヒマを持て余す生活をしていましたから、実は現在よりもストレスを緩和させることができたはずです。
しかし、今の方が上手にストレス緩和やコーピング(認知行動)できています。
個人的には、ここにストレス耐性のヒントがあると感じるのです。
多忙さは、ストレスを呼び込む要素でしょう。
ですが「何もしない」という選択も、ストレスと向き合う時間を作りだしているのではないかと考えられるのです。
例えば、人間は何もしないと加齢によって体力は低下し、内臓器官も弱まり、老化が進み脳が委縮します。
一方で、常に負荷を与え続けると、部位の損傷を引き起こします。
すなわち、物理的ストレスです。
当たり前のことですが、これらのことがあるからこそ運動と休養のバランスが肝要ですよね。
「何もしない」をストレスの温床とするか大切な休息とするかは、単純に扱い方ひとつなのではないでしょうか?
要するに「何もしない」を大切な時間に格上げすればいいのだと思うのです。
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忙しいという状態は、先述したように受動的か能動的かという質的な区別や、単純な量的な区別。
そして、身体的か精神的か…といった3つの要素が関係していると思います。
これらの要素は複雑に絡み合い、時にやりがいに感じ、ある時にはストレスとなります。
心理状態、時間軸という概念も忘れてはなりませんね。
これらは、まさに縺れ合う糸なのだと思います。
縦糸と横糸で織物をする様子に似ているかもしれません。
上手に織れればやりがいを感じますし、多少の忙しさも苦になりません。
ですが、いったん手詰まりしてしまえば、ストレスへと変化します。
こうなってしまったとき、ムリに織り進めるのではなく、絡まった糸を解く時間が必要です。
「何もしない」とは、この結わってしまった糸を丁寧に解くための時間だと思うのです。
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思考を止め集中する時間を「何もしない」と定義することで、「何もしない=無駄な時間」ではなくなります。
単に考え方を少し変えたに過ぎませんが、この「少し変える」行為がさまざまな凝り固まってしまった価値観を変容させ、忙しいという状態をどのように扱っていくのかという生産的な思考に自らを変容させるキーワードだと思っています。
そんなことを書き綴りながら、私自身も現状をどう楽しんでやろうかと思案するので、今を忙しくされているあなたも「何もしない」に価値を与え「少し変える」楽しみを見つけてもらえればと思います。
中途半端な結論になってしまいましたが、今回はここまでとします。
最後までお読みいただきありがとうございました。
以上となります。
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