時代は変わる、
「なんでマスクをしたやつがここにいるんだ!?」
大好きな国、私の第二の母国となりつつあるニュージーランドで受けた、最初の差別が忘れられない。
ふとした瞬間、脳裏に鮮やかによみがえっては鳩尾に重たいモヤモヤを残して去っていく。
昨年(2020年)3~4月以来2度目のレベル4ロックダウンを乗り越え、オークランド以外の全土はレベル2という、比較的ゆるやかな規制に切り替わった。
大まかにいうと、
レベル4はロックダウン
レベル3はテイクアウトのみ営業可
レベル2は入場制限ありで対面接客営業も再開
レベル1は(ほぼ)規制なし
(スーパー、薬局、医療機関、ガソリンスタンドは全レベルで利用可能)
前回までとの大きな違いはマスク着用に関するルール。デルタ株の感染力の強さに危機感を募らせる政府は、レベル2下でも公共交通機関や屋内施設に利用時のマスク着用義務をルール化。屋外は強制ではないけど、家から出るときは基本的にマスクを着けるようにとされている。
もっとも規制の緩い(ほぼない)レベル1でも、公共交通機関ではマスク着用が既に義務化されている(今後変更の可能性もある)。
2020年前半にはまったく想像もしていなかった。
まさかニュージーランド人が日常的にマスクを着けるようになるなんて。
当時ヨーロッパでは少しずつマスクの重要性が言われてきていて、人々は戸惑いながらもマスクを着け始めていたけれど、
世界の端っこにあるニュージーランドは感染者も多くなく、危機感を募らせるといっても世間にはまだまだ対岸の火事といったムードが漂っている。
そんな中、いよいよ近日中にひょっとしたらニュージーランドもロックダウンをするかもしれないという空気になってきた。
3月のニュージーランドは夏の終わり。観光立国であるこの国では夏の間多くのクルーズ船を受け入れていて、3月はまさに最後のかきいれ時。日本で大ニュースになった某クルーズ船も、感染拡大する数日前に私の住む街に入港していた。
私はクルーズ客の多く立ち寄る観光施設に勤めているので、毎日のように接する観光客に対し、恐怖とは行かないまでもどうしようもない居心地の悪さを募らせていた。
政府は4段階のコロナウイルス警戒レベルを設置すると発表し、実際に警戒レベルは2に上がった。
それでも私の周囲はどこまで真剣に受け止めるべきか、半信半疑でもあった。
どうやら数日中にもレベル3かそれを飛び越えてロックダウンになるんじゃないかと言われ始めたその日。私は初めて職場でマスクを着けた。
その数日前から同僚たちとの間で、職場でマスクを着けるかどうかを相談していた。接客業なのでマスクを着けることによってお客様に不安を与えたりするだろうか?
当時はマスクを着けるのは「予防」ではなく「自分が病人だから」というイメージが強く浸透していた。
少しでも体調に不安がある人は休むようにと上司からは強く言われていたけれど、体調は悪くない。仕事も好きだ。ただ、不安なのだ。
結局その日、私はマスクをして現場に出ることにした。同僚たちは私の気持ちを尊重してくれて(自分たちは着けないけど)各自が安心できる方法で仕事すればいいと言ってくれた。
営業開始直前、受付に集合した同僚スタッフと一緒にいた当時の上司は、最後に合流した私の顔を見るなり、
「なんでマスクをしたやつがここにいるんだ!?」
というようなことを、言った。
正確に何と言われたのかは覚えていない。
ただ、あまりにもショックだった。
明らかに感染症患者を見るかのような拒絶反応。それはまさに反射的な反応だったから、彼の本心だったのだろう。
彼はあと数か月で定年退職することが決まっていて、普段は仕事も早く、非常に頼れる上司で、私の採用面接をしたのも彼だった。
私は上司に恩義を感じていたし、日常業務での関わりは多くないけれどいい関係を築けていると思っていた。
そんな信頼できるはずの相手は、流石に自分のリアクションに「しまった」という顔をして謝罪の言葉を述べたのち、それでもこう続けた。
「マスクを着けなければ働けない(精神)状態なら、帰りなさい」
私は懸命に説明した。
風邪などの症状はないこと。
マスクは飛沫防止など「予防」のために有効なこと。
私の母国日本やアジアの国では、マスクを着けることは一般的で、今のような状況であれば着けることで安心を得ることもできること。
同僚も、言葉少なではあるけれど加勢してくれた。
けれど、上司の考えは変わらなかった。
私は結局、マスクを外して仕事に戻った。
その日の午後遅く、ニュージーランドは3日後にロックダウンに入ることが決定され、私たちフロントスタッフは翌日から休みになった。
ショックの中、これは初めて明確に自分に向けられた差別だとぼんやり思った。
差別、拒絶、 うまく言葉が見つからないけれど。
ロックダウン中、街では少しずつマスクをしている人が増え、不織布マスクや消毒液は品薄になり、ネットは手作りマスクの縫い方の情報があふれた。
私はチームリーダーにこのことを報告しようと長文のメールを書き、結局送信せずに下書きのまま、今でも保存してある。
送らなかった理由はいくつかあるけれど、どれも取るに足らない。ただ自分が臆病で泣き寝入りしたというだけ。
チームリーダーはその上司と私たちの間に立つ役職で、彼に意見はできないだろうと思ったこと。でも私にはさらにその上に報告をあげる勇気がなかった。上司はあと数か月で退職することが決まっていて、いなくなってしまう人に追いすがっても仕方がない。
ロックダウン中のマスク需要の高まり、ブームを見ていて、いずれ私が正しかったことは必ず証明されるだろうと確信に近く感じたこと。
そして1年半後、今ではほとんどの場所でマスク着用が義務化されている。
私は、正しかった。
あの日罵倒されて否定される必要はなかった。
今度彼に会ったら、「ほれ見たことか、」と言ってやりたい。本当に本当に、怒鳴りつけてやりたい。私があの時どんなに傷ついたか、思い知らせてやりたい。
そんな歪んだ思いを抱えつつ、それでも私は結局「ほれ見たことか、」とは言わないだろう。
世界は大きく変わった。この2年で大きく、確実に変わったのだ。
そして彼は変わる前の世界の住人だった。
そして、異なる世界や変化する状況への想像力が足りない人だった。
あの日の出来事を彼はもう覚えてすらいないかもしれない。
少なくとも私と同じくらい鮮やかには、決して感じていないだろう。
それがとても歯がゆくて悔しくてたまらないけれど、私はこれからも何度もあの瞬間を思い出すだろうけども、それでもそういうことってあると思う。
これが私に起こったのは移民先の異国の、みんなが英語をしゃべる環境で、言いたいことが言えなくて文化の違いが伝わらなくて歯がゆさばかりが募る場所だったけれど。
同じ日本の同じ日本語をしゃべる環境で、それでも言いたいことが言えなくて言葉を飲み込むしかないこともある。上司や友人や家族と、お客様と、街ですれ違った他人と、価値観が合わなくて悔しい辛い思いをすることもある。
そういう、どこの国でも、誰の人生にも必ずいくつかある苦い思い出の一つとして、このことも消化していかなきゃいけないんだよな、と言い聞かせる。
1年半たって、それでもまだ生々しくフラッシュバックする場面と、一緒に湧き上がる重いモヤモヤがひどく煩わしいけれど。
一生忘れることはないと確信しつつも。
少しでも早く軽く薄くなりますようにとヤケぎみな祈りを込めて、供養のためにここに書き記します。
プケ子
つらい思い出だけれど、その場に味方してくれた同僚がいたということも、いつも一緒に思い出しています。
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