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静寂者ジャンヌ 5 〈外〉ではなく〈内〉へ!

ふいごふいごと鳥が鳴く。
どうしたんだろう?


で、
ジャンヌは
良き修道士の
ふとした言葉で
目覚めた。

こころの窓が開いた。

たましいが呼吸をはじめた。

アンゲランの言葉を、改めて引用しよう。

 それは、マダム、あなたが〈外側〉に探しているからですよ。それを、あなたは〈内側〉に得ているのに。習慣づけてください、神を探すのは、あなたのこころの中です。そしてあなたは、それをそこに発見するでしょう。

こんなふうに一字一句、アンゲランが実際に言ったかどうか、知らない。
後になって、自伝書くときに、自分の言葉で再構成したのだろう。
だからこそ、ジャンヌの〈道〉を知るうえで、意義深い。

一文ずつ、味わってみましょう。

それは、マダム、あなたが〈外側〉に探しているからですよ。

 アンゲランの喋りで、ジャンヌがまずはじめに耳にするのは〈外側〉という言葉だ。
ここは、興味深いところ。
〈外側〉の否定を通してはじめて、ジャンヌは〈内側〉に気づかされる。

ジャンヌはアンゲランに言われるまで、自分が神を〈外側〉に探していること自体、気づいていなかった。

それまでは外も内もなく、いってみれば、のっぺりと生きていた。

アンゲランに〈外側〉という言葉を投げかれられて、そこではじめて、「あ、そうか」と、自分と自分を取り巻く世界に〈外側〉が現れて、そうしたら〈内側〉も現れて、奥行きが生まれた。世界と自分に、奥行きが生まれた。

では、〈外側〉に神を探すとは、具体的にどういうことだろう?

それは、前のブログ(静寂者ジャンヌ4)で触れたように、
言葉で神を探そうとするやり方だ。
言葉で分節された外界 、〈多〉の世界に、神を見出そうとする方法だ。
「天にまします我らの神よ」と祈りを唱えたり、「イエスは十字架で…」とか、頭のなかで考えたり。そうやって言葉で、神を外側に対象化して、それで認識・理解しようとする、そんな祈り方だ。

ジャンヌは、それは「〈精神〉esprit のはたらきによる」祈り方と言う。

そうやって〈外側〉に神を見つけようとするから、ダメなんですよ。
と、アンゲランは言っている。

それを、あなたは〈内側〉に得ているのに。

あなたは神を見当違いに〈外側〉に探しているけれど、実はあなたの〈内側〉に、すでに得ているのですよ、と言う。

これを聞いて、ジャンヌは激しく揺り動かされた。

〈外側〉から〈内側〉への方向転換。ジャンヌはこれを、キリスト教用語を使って「回心」conversion と呼ぶ。
「回心」って日本語、おもしろい。「改心」じゃないんだ。外から内へ、心のベクトルがぐるっと回るんだ。心の方向転換・・・


くどいかもしれないけれど、ポイントなもので・・・
ジャンヌは嫁ぎ先で、自己抹殺を強いられていた。
その精神的危機の中、ジャンヌは、アンゲランの一言で、ふと、自分の内側に神を見いだせるのだと気付いた。
そのことで、人格的な個としての自己に目覚めたのだ。

それは、〈わたし〉という〈たましい〉の発見だった。


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習慣づけてください、神を探すのは、あなたのこころの中です。
そしてあなたは、それ(神)をそこ(こころの中)に発見するでしょう。

 〈内側〉とは、〈こころの中〉だと分かる。

自分の内側、こころの中に神を探す 。
それが、ジャンヌの修道だ。
〈内なる道〉 --- と、ジャンヌは呼ぶ。

この道は、まずは瞑想から始まる。
「習慣づけてください」というのは、瞑想のことだ。
〈潜心〉recueillement (ルキュイユマン)という。

こころに潜る。いい日本語だ。

原語は、recueillir (ルキュイール)という動詞が元で、
集める、という意味。
イメージとしては、森の奥にこぽこぽ沸く清水を、
あるいは、
風が吹いて、木々の葉から落ちる露を、
ひんやり
両手で集めて、貰い受ける感じ。
ある人が、そう言っていたなあ。



* * * * *

そういえば、全然関係ないのだけれど、
ランボーにこんな詩があった…

と、岩波文庫の『対訳 ランボー詩集 フランス詩人選(1)』(中地義和 編)
を取り出して、
パラパラ、
これこれ
「地獄の一季節」に入っている。209ページね。

鳥たちから、羊の群れから 村の女たちから遠く離れて、
ハシバミの若木の繁みに囲まれた
あのヒースの野にひざまずき、ぼくは何を飲んでいた、
午後の生ぬるい緑の霧のなか?
あの若いオワーズの流れからぼくに何が飲めたか、
ー さえずり聞こえぬ楡の若木、花のない芝、曇り空! ー
あの黄色の瓢(ひさご)から何が飲めたか、なつかしい家を
遠く離れて? 何か汗ばむ黄金の酒。
ぼくは宿屋の怪しげな看板になった。
ー 嵐が襲来して空を吹き払った。夕べには
森の木は汚れない砂に消えていき、
神の風が沼に氷塊を投げつけていた。
泣きながらぼくは黄金を見つめていた ー だが飲めなかった。ー

(どうして、ひとつの引用枠におさまらないのかな? 行開けすると、ばらばらになる。ひとつの詩なんだけど)

ふーむ・・・
こうして引用してみると、
やっぱり、
ジャンヌとは
つくづく
関係がない。

らしい。

すっかり、寄り道してしまった。

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よりみちよりみち


まあ、いいじゃないか。
ヒースの野を散策して、
オワーズ川の源流を夢想するのも。

* * * * *


というわけで、
話をジャンヌに戻そう。

こころの中に、神をさがす。
〈潜心〉によって。

でも、〈こころ〉って何だろう?

何となくわかった気になるけど、よく考えたら、よくわからない。

いろんな人がいろんな意味で使うから、訳がわからなくなるなるな。

ここで、ジャンヌが〈こころ〉coeur という言葉を、どう使ったか?
それに限って、
はっきりさせておこう。

ジャンヌは、〈こころ〉を〈精神〉と対置させて使う。
そこを軸にすると、分かりやすい。
言ってみれば、〈こころ〉は〈精神〉の逆張りをいくんだ。

〈精神〉が〈外〉に向かうのに対して、〈こころ〉は〈内〉に向かう。

〈精神〉のはたらきは、対象を判明に区別することだ。と、ジャンヌは言う。
〈こころ〉は、対象を判明に区別しない。と、ジャンヌは言う。

つまり、
〈精神〉のはたらきは、対象化、分節、認識 --- 要するに言語活動だ。
〈こころ〉は、対象化しない、分節しない、認識しない --- 言語がはたらかない。

アンゲランの言う〈こころの中〉は、そういう言葉のはたらかない場だ。
それが〈沈黙〉silence だ。
そこに神をさがせ。
ジャンヌの祈りは、〈沈黙の祈り〉と呼ばれる。
つまり、瞑想のことなのだけれど、
ポイントは、言葉がはたらかなくなること、言語不全、言語脱落だ。

言うまでもないことだろうけれど、
この沈黙は、ただじっと黙っているだけではなく、
頭の中で、言葉がからっぽになることだ。

じゃ、どうやって言葉をはたらかなくさせる?

そのやり方で、いろいろな瞑想流派に違いが出てくるのだろう。
ジャンヌの場合はどうか?
その具体的な手法は?

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ジャンヌによれば、〈こころ〉のはたらきは〈意志〉だという。

この〈意志〉volonté という言葉はクセモノだ。

日本語だと「志」のようなニュアンス
「よし、やったる」みたいな感じに捉えられがちだけれども、
ジャンヌの場合は、かなり違う。
性的な欲望まで含めて、ものすごく広い意味で使っている。

いちばん重要な意味は「神を求める」ことだ。
神へ「近づきたいと願う」こと、「志向性」、「渇望」だ。
それは、神への「愛」amour だ。

「こころの中に神を探すこと」
あるいは
「〈精神〉ではなく〈こころ〉で祈ること」
とは、
神への愛に、ひたすら没頭すること。

神への愛に没してしまう。(愛している)
そうしているうちに、神の愛が、じわ〜っと、感じられてくる。(愛されている)
そうしたら、その愛の「甘やかさ」に耽溺する。
もう、何が何だか分からなくなる。
(愛してるも愛されてるもない。ただ〈愛〉なんだ)

ただ、気持ちいい。

うっとり、ぼうぜん… 
ぼんやり、もうろう…

そんな享楽の境地だ。

〈こころ〉は認識しない、理解しない。
ただ、感じる。

それは直感であり、かつ、体感にも反映されるだろう。

人によっては、じわ〜っと、
人によっては、びりびりびり、
ずしーん、ほわ〜っ、ほこほこ、
それとも、人によっては、
すかーっと冴え冴え。
ぱーっと開ける、
まったり、しーん、鎮まった、波ひとつない…

いろいろだろう。

ジャンヌ流の〈沈黙の祈り〉は、まずは、
気持ちよさに耽溺する。そこから、はじまる。

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ジャンヌはキリスト教徒だったから、「神」が、当たり前に出てくる。

「神」という言葉に抵抗があったら、外してもいいだろう。

代わりに、「無限」「超越」とか、好きに置いてもらえれば。

どっちにしろ、これから見ていくけれど、
最終的には、どんな名も貼り付かなくなる。
無分節だ。

ジャンヌは、「神そのもの」と表現したりする。

わたなら、「愛」と置こうかな。

この「愛」の境地は、主体も客体もない、愛するも愛されるもない。
人間の認識理解を超えている。

ゼロ愛。

はかりしれない愛。

はかりしれないあいに抱かれている。

ないないあい
あい
抱かれている。

無限の〈内〉に留まっている、
安心。

それがポイントだ。


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