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静寂者ジャンヌ 2 ミソジニーに潰され(かかっ)た神秘家はどっこい生き延びる

今回は寄り道せずに、すぐに本題に入ろう。

ジャンヌ・ギュイヨンのプロフィールを、略歴調にまとめておこう。

1648年4月13日、パリの120キロ南のモンタルジに、そこそこの貴族階級の家に生まれる。16歳で、大富豪の家に嫁がされる。嫁ぎ先で姑と夫から精神的虐待を受け続け、苦しむ。19歳の時、フランシスコ会系の修道士と出会い、〈内なる道〉に目覚める。以来、道に没頭し、1680年(32歳)には〈消滅〉の境地に達する。この時、夫はすでに死去。翌81年、末娘を連れて家を出る。ジュネーヴ近くのフランス領ジェックス、およびサヴォワ公国領(現在のフランス領)トノンに滞在。貧困女性のための病院施設を設立し、独自の霊性運動を展開する。1685年3月(36歳)、グルノーブル逗留時、祈り方のハウツー本を出版。ベストセラー本となる。彼女の指導を受けたがる人々が門前に列をなす。カトリック教会勢力の反発を買い、翌86年7月(38歳)、逃げるようにしてパリに移る。しかし1688年1月、異端の嫌疑などで1度目の逮捕、パリ市内の修道院に監禁される。その8か月後、ルイ14世の事実上の正妻となるマントノン夫人の介入で、釈放。以後、マントノン夫人の庇護を受ける。宮廷内に、ギュイヨン・サークルが形成される。しかし、翌89年には彼女の著作がローマ教皇庁によって発禁にされ、以後、ジャンヌを巡る情勢は悪化する。結局、マントノン夫人はジャンヌとの関係を切り、積極的に糾弾する側に回る。ジャンヌは教会権力および宮廷政治権力によって迫害され、1695年(53歳)ヴァンセンヌの牢獄に投獄される。以後7年間、監禁生活を送り、最後はバスティーユの牢獄に移され、瀕死の状態に陥る。しかし、ジャンヌは生き延びる。1703年3月(54歳)に釈放され、ロワール川沿いの古都ブロワに蟄居する。外界との接触を禁じられたが、密かに祈りの仲間たちとコンタクトを再開。ジャンヌの〈内なる道〉は国境を超え、オランダ、イギリス、ドイツ、スイスなどのプロテスタント圏に伝播する。1717年6月9日(69歳)、スコットランドからの若き仲間たちに囲まれて息をひきとる。

ジャンヌ・ギュイヨンは没後、歴史の闇に葬りされた。(少なくともフランス語圏では。)没後というよりも彼女が投獄された時点から、教会権力と宮廷権力の双方によって、その存在を抹殺されてしまったのだ。

でも、完全に忘れ去られたわけではなかった。

ジャンヌの迫害に対しては、ジャンヌの盟友と言うべきある聖職者が彼女の擁護に回った。フランソワ・フェヌロン( François Fénelon 1651-1715) という当代随一の神学者、哲人、文人だった。対するにジャンヌ迫害の中心人物だったのは、やはり当時の神学界の重鎮ジャック=ベニーニュ・ボスュエ (Jacques-Bénigne Bossuet 1627- 1704)。この二人のジャンヌの祈りをめぐる確執は、世に「キエティスム論争」と呼ばれる大論争に発展した。こうなるともう本来の当事者であるはずのジャンヌそっちのけで、事態は男同士の対決という極めてホモソーシャルな展開をたどった。
以来、ジャンヌはもっぱらフェヌロンをたぶらかした「いかがわしい女」というステレオタイプなマイナスイメージで見られてきた。脇役、悪役だ。ひとえにその不名誉によって彼女は歴史に名をとどめることとなったのである。

例えば、あの啓蒙の時代を代表する哲学者ヴォルテールは『ルイ一四世の世紀』のなかで、ジャンヌについて「勢力もないし、頭もほんとうによいとはいえず、ただ夢想癖の異常に強い女性」と、勝手放題なことを書いている。そして、フェヌロンが「こんな女に、どうして心を惹かれたのか」などと、散々な書きぶりなのだ。『ルイ十四世の世紀 3』丸山熊雄 訳(岩波文庫 p192)


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そもそも、なぜジャンヌは7年間も投獄されっぱなしだったのか?

異端嫌疑といっても、カトリック教会組織は大所帯の機構だから、異端審理も神学的にかなり厳格に行われるもので、そう軽々に相手を異端断罪できるものではない。教会権力側にはジャンヌ逮捕投獄の最初から、ジャンヌを教義的に異端断罪に持ち込む見込みがなかった。ボスュエたちは、別の戦略を取った。

彼らが焦点を当てたのは、ジャンヌが聖職者と、かつていかがわしい関係にあったかどうか、だった。要するにスキャンダルだ。そのほうが手っ取り早いのだ。今だったら、権力が目を付けた者のプライベート情報をマスコミにリークして、バッシング報道させるような手口だ。
しかも、あきらかなデマだった。それは実は最初から権力側も分かっていただろう。それでも過酷な尋問で、ジャンヌに虚偽の告白をさせ、落とそうとしたのだ。

なぜそこまでして彼女を落とそうとしたかといえば、その最大の目的は、論争中のフェヌロンを不利な状況に追い込むためのボスュエの戦略だった。

しかも、ボスュエのルイ14世への直訴が功を奏し、ルイ14世は、ジャンヌとフェヌロンに絡んでマントノン夫人にも陰謀の疑いを持ち、この件を重視しだした。
ルイはもともと宗教がらみのことに関してはあまり関心を持たなかったが、最高権力者の常として、陰謀には常に疑心暗鬼だった。

だが、そこまでしても、ジャンヌは落ちなかった。
彼女はものすごくタフだった。
そのうち、ローマ教皇庁が、ルイ14世の圧力に抗えず、フェヌロンの本に問題があると断じた。フェヌロンが論争に負ける形で決着がついたのだ。
その時点で、ジャンヌはもうお払い箱だった。
事実、フェヌロンとの関係を含めた彼女のスキャンダルについて、シロと公表された。
そうなれば、本来なら釈放されてしかるべきだったろう。
ところが権力側、とくにボスュエは、彼女の釈放を認めなかった。
ジャンヌは容疑も曖昧なまま、なんで投獄されているのかはっきりとした理由もないまま、瀕死の状態になっても放置されたのだ。
要するに「この女、生きて出て来るとめんどくさいから、放っておけば、そのうち死ぬだろう」というわけだ。
しかし最後の最後になって、権力側の聖職者の一人だったパリ大司教が、さすがに良心の呵責に悩んだらしい、ジャンヌ釈放に動いたのだ。



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