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静寂者ジャンヌ 8 神を享楽する


結婚生活で自己を抹殺されそうになったジャンヌは、
〈内なる無限〉に目覚めて、息を吹き返した。

窓が開いた。

こころの空が
開いた
ゆくえも知らず
はてもない

(遠くの列車が、かたことかたんことん)

ジャンヌはアンゲランの指導を受けて、〈沈黙の祈り〉の実習に没頭した。

〈精神〉ではなく〈こころ〉で祈る。

言葉が落ちる。
それで、内なる無限にアクセスできる。

〈沈黙の祈り〉によって〈精神〉のはたらきが止まる状態を、ジャンヌは自伝でこんなふうに書いている。

それ以来、私の祈りは、形相も形象も像も空っぽでした。祈るとき、頭では何も起こりませんでした。それは〈意志〉における〈享楽〉と〈占有〉の祈りだったのです。 
Mon oraison fut dès le moment dont j'ai parlé vide de toutes formes, espèces et images; rien ne se passait de mon oraison dans la tête, mais c'était une oraison de jouissance et de possession dans la volonté, (…)

(どうも、この引用スタイル、字が小さくて読みづらいかも・・・)


形相 (forme) も形象 (espèce) も像 (image) も空っぽでした

頭の中に何の像(イメージ)も浮かばなくなったという。
たくあんだとか、漬物石だとか、そういう個々のはっきりしたイメージが浮かばなくなった。
ということは「たくあん」だとか「漬物石」だとか、言葉が、概念が落ちてしまったわけだ。

*
ちなみに「像(image)もなく形象(espèce)もなく」とか、「形相(forme)もなく」とかは、当時のフランス語圏の神秘家たちのよく使う常套句だ。
たとえば、ジャンヌが間違いなく影響を受けたであろう先行世代のブノワ・ド・カンフィールド(Benoît de Canfield)などが使っている。(『キリスト教神秘思想史 3 近代の霊性』(平凡社)326ページ)彼の『寛徳の規則 La règle de perfection』は17世紀フランス神秘思想界に大きな影響を与えた。とても面白いテキストだ。こんど紹介しよう。
*

それは〈意志〉における〈享楽〉と〈占有〉の祈りだった

〈意志〉volonté は前にも出てきたけれども、〈こころ〉のはたらきだ。ここでは、神を求めること、神に近づきたいと渇望することだ。


そうやって、あやめも分かずに、切々と神を愛慕すると、

神の愛が、ゔぁーっっっと来る。

びりびり感じる。

〈享楽〉
jouissance だ。

〈内なる道〉の前半のキーワードだ。

*
ジャンヌはいつも〈神の現前〉と〈享楽〉をセットで使う。
ふつう、こういう場合、jouissance は〈享受〉と訳す。
それでもいいのだけれど、でも、
ジャンヌや、彼女の先行世代のフランスの神秘家たちは、
この言葉に、歓び・快楽、気持ちよさ のニュアンスを込めている。
特にジャンヌにとっては、そこがポイントだ。
大切なのは、感じることだ。
〈享受〉という訳語では、そのニュアンスが伝わらない。むしろ精神分析用語としての訳語〈享楽〉を当てた方が、ジャンヌの表現の射程が見えてくる。
*

〈占有〉occupation — 神がこころを占めることだ。
なにしろ神は無限だから、それが有限なこころを占めたら、
それはとてつもない、過剰だ。

神の現前の享楽は、この過剰さだ。

それは、激烈な歓びと痛み。

どんなだろう?

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そこでは神の味わいがあまりに大きくて、あまりに純粋で、あまりにシンプルだったものだから、たましいの他の二つの能力(訳者注:認識・記憶)が、その味わいに引き込まれ、埋没してしまうのです。行為も言説もない、深い潜心のうちに。
(…)où le goût de Dieu était si grand, si pur et si simple, qu'il attirait et absorbait les deux autres puissances de l'âme dans un profond recueillement, sans acte ni discours.  

神の〈享楽〉が過剰で、認識や記憶のはたらきが麻痺してしまうというのだ。
何も分からない、何も憶えていない… そういう状態になってしまう。

〈潜心〉は前に出た。瞑想状態のことだ。
ジャンヌ・ギュイヨンに詳しく、かつ、ヨガに精通している人によれば、
前々回(7)、ハウツー本に:
「パワーと感覚を〈外側〉に放たないようにして、それをできるだけ留め、制御するようにしてください」
とあったが、
このあたりは、プラティヤーハーラ (制感)に相当するということ。
そこから、どんどん境地が進んでいくのだが、
ジャンヌ自身は、アンゲランの一言で、最初からいきなりもっと深い境地に入ったわけで、
ディヤーナ (静慮)の体験からはじまっただろう、ということだ。

ま、このへんは、よくわかりません。
あくまでも目安だと思ってください。


行為も言説もない — 言葉が落ちてしまって、言葉の選択と組み合わせで構成される言説も、はらはらほどける。〈精神〉のはたらきが麻痺してしまった状態だ。

それは〈味わいの信〉の祈りでした。区別のまったくない祈り。イエス・キリストも、その神的な属性(訳注・善や美といった神の属性)も、私には見えなかったのですから。全てが〈味わいの信〉に没し、個々の区別がいっさい消え去りました。その場が、愛に譲られるために。愛がもっと広がりをもって、動機も理由もなく愛するために。
C'était une oraison de foi savoureuse qui425 excluait toute distinction, car je n'avais aucune vue ni de Jésus-Christ, ni des attributs divins : tout était absorbé dans une foi savoureuse, où toutes distinctions se perdaient pour donner lieu à l'amour d'aimer avec plus d'étendue, sans motifs, ni raisons d'aimer. 

それは〈味わいの信〉の祈りでした
〈内なる道〉の最初のステップだ。
ジャンヌの〈道〉は、〈信〉の純度ー神への信頼の純粋さーで、深まって行く。
〈味わいの信〉は、神の愛を享楽することがモーターになって、「ああ、確かに神がわたしを愛してくれている」と、神を信頼する〈信〉のあり方だ。
気持ちよさが、たとえ直感的であっても、「大丈夫だ」という確かめになっている。
その点、まだ〈信〉の純度が低い。

でも、最初は、この気持ちよさをたっぷり味わうのが、大切だという。


区別のまったくない祈り
愛に耽溺しちゃって、もう何も区別できない。
言葉が落ちて、個々の対象を分節できなくなってしまった。

 イエス・キリストも、その神的な属性も、私には見えなかったのです
イエス・キリストという名すら分節されなくなった。
「イエス・キリストは全き神であり全き人間であり、善であり美であり」うんぬんといった、属性についての意味分節もなされない。

全てが〈味わいの信〉に没し、個々の区別がいっさい消え去りました

すごい!

その場が、愛に譲られるために
愛に、つまり神に、たましいが占有されるために

愛がもっと広がりをもって、動機も理由もなく愛するために
主語と動詞だけピックアップすると:
愛が愛する…
何を?
愛を。
愛が愛を愛する。
つまり、神が神自身を愛する。
ということは、たましい(わたし)の出る幕がない。
という境地。

ただし、この〈味わいの信〉の段階では、まだこの境地まで行っていない。
そのためには、たましいが、
「もっと、広がりをもって」ー
もっともっと広がって行かなければならない。

広がって、しまいには、無限になる。

そうすると、さっき〈占有〉という言葉があったように、
無限の神の愛が、たましいをすっかり占有できるようになる。
すっかり占有しても、もう、たましいは、痛くもなくなり、何も感じなくなる。
たましいの消滅。
なくなった
たましい

自由

そこまで行かなければならない。

今は、まだ。










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