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『戦場のメリークリスマス』

久々のnoteは映画について書きました。リバイバル上映されたこの機会に長年の想いを書き綴ってみました。


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 今回のリバイバル上映で新たに書かれた多くのレビューを読むことができた。大方シネフィルの皆さんの評判も良く、世代を超えて受け容れられる傑作であると再確認できて嬉しい。
 ただ、若い人達のレビューにはBL映画としての受け止め方が非常に多く、少し面食らうところもある。しかもベタなBLのような評価もあるから、こうした映画がオーソドックスなBLなのか、と逆に教えられた思いだ。まぁ、どうしても旧作のリバイバル。ある程度の評価が付いてしまった上で、見に行く側も先入観を持たざるを得ないところもある。有名な評論家(と言っても、最近はインフルエンサーと言った方が良いような映画コメンテーターの影響力が強いのだろうが)の意見に影響されてるところもあるだろう。
 といつもながら前置きばかりが長くなってしまうが、そうしたことを踏まえて少しお喋りさせてください。


 劇中にもあるように、戦争は男同士の繋がりを強くする。これ、戦争に限ったものではなく、男所帯のコミュニティがあればそうなるのも当然。男子校出身の私は経験上それがよく分かる。男同士の雑魚寝なんてお構いなし、小突き回ったり肩組んだり、肉体的な接触は日常茶飯事。これは、男子校だろうが軍隊だろうがラグビー部だろうが、って話なのである。

ただ、こうした男同士の距離の近さは、ごく普通の同性間や異性間の距離を保ってる人にとってどう映るのだろうか?

ここが大島渚の発想の原点だと、私は見てる。

 闘争心の集合体が戦争と考えれば、個々の内面に備わった闘争心を辿ると大方男性という性に帰着する。もっと言うなら、テストステロンという男性ホルモンと無関係とは言えない。話が横滑りしそうだから、やめておくが、どうしても戦争を描こうとしたら男の生々しさを描かざるを得なくなる。
 例えば、「男が男に惚れる」って言葉、如何様にも取れる言葉である。美しくも生々しくも取れる。東映の任侠物でも女より男を選択するストーリーは多い。しかし、それは「その類い」のものとしては語られない不文律があったりする。
 大島渚は戦争という、男同士が距離を縮める状況の中でこの二律に挑んだのではなかろうか?裏と表の両面をどう描くかである。
 現に、この映画にBLを感じない人は多いと思う。言われるからそう意識するだけで、セリアズとヨノイ、互いの感情の根底にあるのはライバル心だったりリスペクトだったりと、そう感じながら見進めていった人も多い筈だ。


 同時に、方法論的に同じ線上で、日本人の描き方に果敢に挑んだ、とも言えると思う。同じ線上とは、内にあるところの視線と外からの視線を同時に描くということ。戦争は敵と味方の二元的であり、その双方の観点を同時に見せることは難しい。当然ながら平等に見せることと物語を成立させることは非常に難しい。そこに、我々が冒した戦争への批判を加味することによって、もっとわかりやすく言うなら、日本人監督でありながら、外国側の客観視を形而的に描いていく手法を選んだ訳だ。一部で国辱映画と言われてるのも知ってる。大島渚はそういう批判が来ることを製作前から分かっていた筈だ。確信的に練り上げた筈だ。
 国辱の批判の的ははっきりしてる、劇中で日本人の神が邪神だと言及されてることだ。少しヴィヴィッドな点になるから敢えては書かないが、宗教が形成する精神性を仄めかすことで作品全体の流れを上手く作ってる。信心はいずこも同じように見えるが、外国人が見る日本人の信心の歪さをこれ程までに描いた作品は少ない。
 劇中に流れるレクイエムや讃美歌のような旋律は西洋の宗教を醸し出す。捕虜の彼らの背後に屹立するものが仄めかされる。それに対して我らの神と言えば、タバコの記された紋章が神なのである。この分かりやすい対比こそ大島が描きたかったものであり、やはりタブーへの言及だと思う。そのタブーを乗り越えなければ反戦の誓いは立てられないことだと思う。
 どこか外国映画で見たような日本人が数多見られるこの映画に対して陳腐なイメージを抱く人は多いはず。しかし、それは外国人が見た日本人の陳腐さそのものであり、日本人でありながら日本人を客体化させ得る大島の慧眼に脱帽する。


 公開当初に高校生だった私は、以後何度も何度も私自身の精神的成長を加味しながら見続けてきた。何度も見るから新しい解釈がつく訳じゃなし、結局は大島が投げかけたテーマが私自身の思想形成に大きな影響を与えたと言った方が良い。
 日本人である自分のアイデンティティを足元から揺さぶり、日本人であり続けるしかない自分の運命を受け容れさせてくれた映画である。長年見続けてきて、やっと幾らかの言葉に残せる年齢になったことを自覚させて貰った今回のリバイバルだった。

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 これからは、今回のリバイバル上映に関して、特に4Kリマスターに関して少し話させて貰います。

 公開当時からもうセリフを覚えるくらいに見てる作品。ただ、公開された時に劇場で見たものや日曜洋画劇場で放送された画像があまりに綺麗で、その後リバイバル上映で見た使い回しのフィルムの画質の悪さや発売されるビデオやDVDの画質も満足するものじゃなかった。クライテリオンのソフトを買えば良かったんだろうがそのうちリマスターされるものだろうと高をくくるうちに、過去の記憶が美化されていき、なんか画質への執念のようなものが膨らんでいく。

 直近で映画館でかけられたのは3年ほど前の午前10時の映画祭。そこでかけられたのリマスターされたものだからかなり綺麗にお色直しされてた。ただ、その時の正直な感想はフィルム原盤がもうダメなやつしか残ってないのか?って疑問だった。その時は4Kリマスターと銘打ってたわけじゃなかったので既にチラホラと公開されてた他の旧作の4Kリマスターとは違う従来型のHDリマスターだと諦めもあり、いつかきっと4Kリマスターで公開されるだろうと心待ちにした。
 それと同時期にNHKやWOWOWで放送されたのは多分このリマスターされたやつで、映画館で見るよりは幾分画質が綺麗ではあったが、やはり満足できるものではなかった。


 さて、今回の上演。
 個人的にはがっかり。
 ほぼクオリティが3年前に見たものと同じだった。
 これ、配給側からすればそもそも4K上映されるところが少ないからって言われそうだが、劇的に変化している4Kリマスターのリバイバル作品を多く見てるからこそ残念至極。もう少しどうにかならなかったものか、非常に疑問が残るものだった。
 帰宅後YouTubeでここ数年のリマスター分の予告編などを漁って見比べてみたが、やはりほとんど変わりがない。(多少ノイズがあったのが無くなってるようではあるが)
 また、文字情報が無いか探してみたら、今回は2Kリマスター版の4KDCP化って書いてる記事を見つけた。これ、要するに3年前に見たリマスター作品のレストアってことのようだ。
然もありなん!
 今回、同時に『愛のコリーダ』の2Kリマスター版が公開されており、これはフィルムからのデジタルリマスターってことのようで、実はこちらの方が力が入ったリマスターのようだ。ちょっと意地の悪い言い方をしたら今回の戦メリは『愛のコリーダ』の抱き合わせ上映ってことなのかもしれない。

 同じカンヌを争ったタルコフスキーの『ノスタルジア』なんかもう見事なリマスター作品があり、ついついそのクオリティを求めてしまう。『地獄の黙示録』なんて言わずもがな。
レストア元のフィルムがあまり程度の良いのが残ってないってのが最大の理由だと思うが、これは日本映画界のちょっと根深い問題点だと思う。原盤管理が非常に悪い。
 それでも黒澤や小津、溝口作品の凄まじいクオリティのレストア作品があるので、どうしても期待してしまう。

 4Kリマスター、これ実は難しい問題を孕んでいるのは理解してるつもりで、公開された時の製作側が意図した色彩や画質を超えてしまう出来栄えになったリマスターも少なくないと思う。今回は大島渚も成島東一郎も今はこの世にいない。彼らはリマスターに関して口を挟むこともできないわけだから、昨今のリマスター作品に見られる、昨日撮影されたのではないか?と思えるような画質の向上を彼らが望んでいるのかどうかすら分からない。それでも、そんなクオリティのリマスターを私は見てみたい。
正直言って、私のエゴである。

#戦場のメリークリスマス #note映画部 #映画 #大島渚 #映画感想文 #Filmarks

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