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[ちょっとしたエッセイ] 知らない場所へ、旅したい

 朝の駅のホームで満員電車に乗り込むことをわかっていて、並ぶ乗車列はつらい。たかただ20〜30分だからといって、この疲労感、疲弊感は朝に経験するには早すぎる。せめて、これを過ぎたらあとは寝るだけとなればいいのにと祈りながら、実際はこれが1日のスタートの号砲なのである。乗車列に並んでいると、反対側のホームはガラガラで、東京に向かう自分とは違う静かな雰囲気に、あちら側に行きたい衝動に駆られる。目的なんていらない、予期せぬ場所に降り立って、ひとまず駅前のベンチに腰をおろして、缶コーヒーくらいを啜りたい。そんな誘惑は、押し寄せられる肉壁に弾ける。ああ、行く宛のない旅に出たい、そんな思いを過らせながら、いつものように、いつもの方向へと電車は動いてゆく。
 今でこそ、それが運命かのように毎日満員電車に揺られてるが、学生の頃に思い立って、人のいない方向へただ電車に乗って出かけたことがある。本当に思いつきで、いくらかのお金と寝袋をリュックに詰めて、人の少ない電車をただ乗り継いでいくだけのシンプルなものだった。最寄り駅から座席に座れる電車を見つけ、乗り込む。サラリーマンや学生、小さな子どもを抱えたお母さん、まばらな車内をキョロキョロしながら、見果てぬこの冒険に勝手に緊張していた記憶が残っている。都内の住まいから、各駅停車に揺られ、その日のうちに行けたのは、東武日光までだった。すっかり日の沈んだその駅に降り立った僕は、降り立つ駅舎の前で広がる夕陽を見ながら、今日の夜をどう過ごすかなんて考えもしていなかったことに少し後悔をする。フラフラと辺りをうろついていると、タクシーが並ぶ待合所で、暇を持て余してタバコを燻らせるタクシー運転手の一人が、「にいちゃん、どうしたの?」と声をかけた。
 白髪混じりの初老の男性は、明らかに不審な少年を見つけたかのような哀れむ表情だった。正直に、宿を探しているということを話すと、何を無茶なと言わんばかりに、少し待っておけとだけ言って、車に乗り込んだ。タクシーの待機列から抜け出ると、車を回して僕の前で止まった。
「どうせ、金もありゃしなんだろう。とりあえず乗りな」と、自動扉を開けてくれた。平日の夕方の駅前はこれから帰る人は幾人かいたが、これから日光のどこかへ行く人なんて数えるくらいしかいなかった。車に乗り込むと、颯爽と動き出し、あたりの夕日はまもなく夜の帳を下ろすために、山の合間に沈んでいくところだった。しばらくすると、温泉の暖簾がかかった建物に着いた。
「ここいらじゃ、この辺くらいしか安く寝泊まりできるとこなんてないんだよ」。そう言って駐車場にタクシーを止めて、僕を案内してくれた。いわゆる健康ランドだ。入場料まで彼は出してくれた。「これで朝までいられるから、今日は大丈夫だな」と笑って、彼は去っていった。僕は小さくお礼を言って、静かな館内に入っていく。
 翌朝、なんとなくどこへも行く気力が湧かずに、健康ランドのシャトルバスで、駅へ向かった。駅に着くと、昨日のようにの待合所では、あのおじさんがタバコをふかしている。僕は彼のところへ行き、改めてお礼を言った。すると、「朝飯食ったか?」と聞いたので、「まだです」と答えた。「じゃあ」と言って、僕を近くの民家のような建物まで連れていった。扉を開けると、テーブルがいくつか並び、タクシー運転手のような風貌の人が何人も座って食事をしていた。「好きなもん食べな」カウンターにある惣菜やおにぎりなど勧める。僕はおにぎりと味噌汁を取って、テーブルに座った。おじさんは、僕が食べるのを笑顔で見ていた。やはり、ここでも彼のお世話になってしまった。
 知らない人に付いていくのは、今のご時世、何があってもしてはいけないと、誰もが言うだろう。僕もそう思う。テレビのニュースなどでも、子どもが連れ去れらたりする事件が少なくない。自分の子どもにも、注意を促すだろう。その後、僕はただただお礼しか言えず、観光も何もせずに日光を去り、自宅に戻った。急にいなくなった僕に母は、「楽しかった?」とだけ言った。それに対して僕はなんと答えたか忘れてしまった。でも、なぜ怒られなかったのか、今でもわからない。

 40代も半ばとなり、自分の中にある稚拙な心が微塵も減っていかないことに、今更ながら日々驚く。自分が見てきた大人たちは、みんな真に大人だ。電車の窓にうっすら映る自分の老いた姿を見ると、ため息しか出ない。そして、また逃げ出したい気持ちが芽生えてしまうが、それすらできずに、また今日もやり過ごす。
 しかしながら、どこかへ行きたいと思うのに、どこに行きたいかは実はわからない。知らない場所で、知らない人に、助けられた(いや、助けられに行ったと言った方がいいかもしれない)経験が、僕の中に未だぬくもりとして残っているからかもしれない。結局のところ、誰かにやさしくされたい、そんな思いが、逃げたくなる理由なんだろうか。

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