[ちょっとした物語] 記憶をくすぐる檸檬の香り
ちょっと声をかけた、秋の午後。
君は照れ臭そうにボクの誘いに応えてくれた。その時の表情、その時の鼓動は、どことなく今でも心をくすぐる。
新高円寺の駅から青梅街道を渡る歩道橋。東には環七を望み、西の方には夕日が沈む。僕たちはいつもこの歩道橋の上に立つ。
薄暮の青梅街道は、いつもより車の数が少なかった。
「あ、月だ」
あちらに見える月の影に隠れた空の色。
こんな会話はどこか変だった。まもなく迎える夜の風の音。
どこか聞き覚えのあるその音色は、ボクを少しホッとさせた。
「自転車乗りたいな」
君はそう言う。
ボクの自転車はあいにく二人乗れない。でもボクはそれを聞いて、君を乗せてどこかに行きたいなと思った。遠い知らない街に。
壊れかけのチェーンが絡まっている。
だからボクらは自転車を挟んで歩くことにした。
「ねえ、月の裏側って何があるんだろう」
きっと花が咲いてるんだよとボクは答える。実際は知らないんだけど。
君の家まではもう少し。夜風はボクたちを包んでいく。
いつもの憂鬱は頭の裏側に張り付いて取れない。でも梢の花びらが散るように、いつかそれも剥がれて消えてゆくのだろうか。
まだ息は白ばんではない。
でも頬を伝う空気はどこか冷たさを孕んでいる。
「夜になったら朝が来ちゃうね」
それはさみしがり屋の君らしい言葉だ。それなら夜の向こう側へ行こうじゃないか。でも君はそれをたぶん選ばないだろう。
どこかのお店から漂う香り。柑橘のほろ苦い香りはレモンのようだ。建物の脇に立つ煙突は少しばかりの煙を吐いている。秋風とレモンの匂い。
これから別れなければならない君のことを愛おしくさせた。
目に染みるこの香りをもう少し君と共有したかった。
冬の前、秋は風と共に何かをさらってゆく。ボクらはそして、まだ終わらない時間と旅をする。夜の終わりに朝がきて、また夜を迎える。だから、きっと相も変わらずに生きて行けるんだと思う。
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