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[ちょっとした物語]バンコク 午後1時50分

 手をつなぐと、互いの手からは汗はあふれ出ててくる。
 それでも手を合わせて歩くことで、さらにべとつきながら、いたずらに手を絡め、とても厭らしく触れ合う。真夏の太陽が照りつける路上で、僕はある女性と空を見上げた。
 灼熱の炎のように空気は揺らめき、蜃気楼のように視点の定まらない、鋭い光の攻撃が目を差す。すると、横にいる女性は、僕の手を引き、カフェのような建物へと導いてくれた。
 中に入り、彼女は肩にかけるハンドバッグから財布を取り出し、オーダーする。僕は何も言わずに彼女に従う。僕らは奥のテーブルへと移動すると、冷たいコーヒーが運ばれた。
 お互いが座ると、見つめ合った。そこには最小のコミュニケーションが存在する。だからそれが大きな不安であったり、後ろめたさのような弱いものではない。たぶん、信頼に似た類いのもので、動的な把握がそこにあるように思えた。
 
 これは現実なのか夢なのか……
 単純なそんな問いに対して、僕はまったくの無知であった。そもそも今を生きている時に、ここが現実かなんて一寸も考えはしないだろう。ふとした瞬間にこそ、そのような思考をめぐらせるのであって、それを継続的に考え続けるには、並大抵の努力では不可能だ。息をするが如く、笛のような楽器みたいに、それに忠実に、意識もゆるやかに、僕が生きるこの瞬間は、あくまでその空間に忠実でいいのだ。
 目の前には髪をオールバックにし、赤いゴムでしばった女性がいる。浅黒い、でも透明感のある肌は、美しいとさえ思える。そして白いキャミソールは、その肌を存分に誇張しながら、眩しさで映える。
 僕は、じっとその彼女の肩あたりを見つめる。すると、僕の膝を何かが突然こづいた。もちろん足下を見ると、彼女の小さな足だった。黒いエナメルのパンプス。先はやや剥げ少しくたびれた感じのパンプス。顔を上げると、笑顔で待ち構えている。
 
 何をそう、うれしそうでいられるのであろうか。でも自然と僕の顔も笑顔になる。彼女にとって、目の前にいる僕はどう映っているのだろうか。この時間自体、稀有なものであり、これ以上の変化が起こる可能性を期待しつつも、真逆の恐怖もそこにあった。
 冷たいコーヒーを飲み尽くすと、僕は何をどうしたらよいか迷い始めた。そんな気配を察したのか、彼女は目配せをして、さっと立ち上がり、トレーを片手で、ハンドバッグを反対の肩にかけると、その手で僕の手を引いた。店内にパンプスの歩く音が響きわたる。その後ろを僕が引かれて行く。なんとも情けない姿である。しかし、その力強さにどこか安心感を得つつ、自分の弱さに軽蔑を持って歩くしかできなかった。
 
 外へ出ると、また果てしない太陽の光を体に受けた。目を少しでもいたわるように手を額に当て空を見上げた。すると、急に彼女は僕の胸にしがみついた。またしてもどうしたらよいのかわからず、困り果てる。全身に帯びた汗がとても気になり、彼女の肩に手を置いて、少し体から離した。
 彼女は控えめな目線で問いかける。僕は照れ笑いを浮かべるだけで精一杯で、目線をそらすことしかできなかった。その数秒後、お互いに笑顔がこぼれ、また僕らは手をにぎり、そのまま気の向くままに進み出した。

 サイアムのアスファルトは、異様に熱く、足下から行き場のない熱が僕らの体内に入り込んでくる。溶けてしまいそうな熱を感じながら、乾いた道を歩く。僕の脳裏には、懐かしい東京の夏が横切った。風に含まれる湿った空気は、なんとなく同じではあったが、匂いの違いが決定的で、鼻を曲げるような香りが含まれている。しかし、この嫌な香りも人由来の匂いだ。誰もが隣接する匂いなのだ。どこに住もうが、この匂いは大なり小なり存在する。東京はそれを隠すのが得意なだけで、実は渋谷や新宿の朝もそう変わらない。

 午後の昼下がり、汗でべたつく手を絡ませる。
 僕に、ロマンチックな愛なんて、そんなビジョンを持ち合わせていない。それどころか、愛に悲しい役割を与えるしかないとさえ思っている。愛は、ちいさな虫のようなもので、僕らの小さな、大きな喜びは、気がついたら壊れてしまう、そんな継続的な事態を常に抱えている。僕はそんな愛に対して、いつも苦情めいたことを考えてしまう。

 道ゆく若者たちは、涼しい顔でこの灼熱のバンコクを闊歩している。横を向くと、微笑みをもった彼女の顔がある。なんの不安も諦めもないその顔は、僕をこれまでの世界から引き摺り込んでいくような気がした。

「あっついな」
 僕は不用意に日本語でつぶやいた。
「まだまだ、暑くなります。ね。」
 字面で読めばていねいな言葉だが、ニュアンスはぎこちない。
 
 青白いシャツを着た学生の集団が僕らの前を歩いている。バラのような香りが鼻をくすぐった。壁の向こう側の世界は、愛に寛容で、時は心なしかスピードを緩めているようだ。
 僕らは、慣れた役者のように、舞台の上であらかじめ用意された手順の中で、愛のような、恋のようなものを楽しむしかないのである。
 灼熱のアスファルトは、僕の靴を飲み込んで、地肌に伝わるような熱を運んできた。永遠に続くような、この昼下がり。いつまでもそのままであり続けるのかと、この地を踏んだ人間は、必ず思うだろう。

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