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小説を読むときに一番やってはいけないこと

はじめに言っておくと、小説というものは基本読者が好きなように読んで構いません。
もちろん勘違いや根本的な理解不足は別として、誤読や主題の読み違いですら読者の自由だし、作者目線でいうとそこに自分の作品の真実があると感じられることもあります。
読者はえてして作品の主題や意図を当てたがりますが、作者としてはダイナミックな誤読にこそむしろありがたみを感じていたりします。
そうしていただいた感想に自作の思いがけない発見をさせられるのが創作の醍醐味だったりもします。

ただ、

誤読も含めて自由であるとはいえ、ひとつだけやってはいけないことがあります。
それは主人公と作者の同一視です。
多くの小説は主人公に自分あるいは自分らしき人を登場させます。
私小説がその代表でしょう。
すると多くの読者は即座に主人公=作者と決めつけて、主人公の一挙手一投足に作者を投影します。
主人公の台詞や内省に『この作者はこんな性格なのか』、主人公の行動に『これは作者の実体験に違いない』と安易に決めつけ、作者そのものを”見破った”と勘違いし、ほくほくとした心境で読書を終えたことは誰でも一度はあるでしょう。
これの何がダメかというと、作者の人格当てゲームをしているだけで本を読んでないからです。
さらに、この人格当てゲームは絶対に成功しません。
なぜなら主人公に嘘偽りなく自分を投影する作者は絶対にいないからです。
というか、それをすると小説になりません。

どんな数奇な人生を送ってきた人でも、自分をそのまま書いて小説になるということはまずありません。
ですからどんな私小説でも必ずそこにフィクションが含まれています。
どうしてもフィクションだと思えないとしたら、それこそが作者の技量のたまものでしょう。
つまり小説を読んで『作者はこんな人物に違いない』『この作者こんなことしてたのか…』と安易に結論付ける人は、まんまと作者に踊らされているということです。

そうやって作者の手の内で『こいつはこうだ』『これは実体験だ』と叫ぶのは恥ずかしいだけです……
せっかくめんどくさい思いをして読書をするんなら、作者に踊らされず、もっと主体的に読むことをおすすめします。
とはいえ、なかなかそれができない人が多いらしく、僕が知っている中でわりと読書家な人でも僕の小説を読んでかなり安易に僕と主人公を同一視していたことがありました。
中には『こんなこと書いて大丈夫ですか?』と心配してくる人もいて、「いや、これ小説やし…」と苦笑いしつつ『うわー、安易な読み方するなあ…』と内心思っていた記憶があります。
実はそのとき、『え?読者ってこんなに安易に主人公と作者を同一視するの?てことは主人公が○○したり××してる小説を読んで俺がそれしてたって思ってるってこと?ヤバい、俺の人格が疑われる……』と心配し、本気で何作か出版停止しようかと思ったんですが、むしろそれって読者をコントロールできてる証拠じゃないかと思い直し、そのままにしています。
おこがましいですが、歴史上の私小説作家もこんな風に読者の勘違いに悩んだりほくそ笑んだりしてきたのかなと思うとなんか嬉しいです。

ただ、読者のためを思って言っておくと、主人公=作家と安易に決めつけても何の意味もないし、主人公から作者の人格を当てることは一般の読者には不可能です。
作家研究に生涯を懸けた研究者ですら大半は当たりませんからね。
なので、小説を読むときは変な下心を捨てて素直にお話やキャラクターを楽しむか、できるだけ謙虚にそして我慢強く主題を読み解くかしましょう。

ちなみに、僕っぽい主人公が登場する僕の作品はこちら。

さて、どれぐらい僕でどれぐらいフィクションなんでしょうか?ww
気になる人は読んでみてください。
ヒントを言うと、だいたい「うわっ」と思ったところはフィクションで、どうでもいい描写に素の本人が出ていたり、実体験だったりします。

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